天王寺の古瓦
第250話で述べましたように、現在の四天王寺は地名(旧天王寺村)が示すように、本来は九州王朝の天王寺だったとしますと、その創建は『二中歴』所収「年代歴」の九州年号
「倭京」の細注「二年(619年)、難波天王寺を聖徳が建てる。」(古賀訳)
という記事から、619年になります。
他方、『日本書紀』には四天王寺の創建を推古元年(593)としています。あるいは、崇峻即位前紀では587年のことのように記されています。いずれにしても、倭京2年(619)より約20〜30年も早いのです。どちらが正しいのでしょうか。
ここで考古学的知見を見てみましょう。たとえば、岩波『日本書紀』の補注では四天王寺の項に次のような指摘があります。
「出土の古瓦は飛鳥寺よりも後れる時期のものと見られる点から、推古天皇末年ごろまでには今の地に創立されていたと考えられる。」(岩波書店日本古典文学大系『日本書紀・下』558頁)
『日本書紀』では飛鳥寺(法興寺)の完成を推古4年(597)としています。四天王寺出土の古瓦はそれよりも後れるというのですから、7世紀初頭の頃となります。そうすると『二中歴』に記された倭京2年(619)に見事に一致します。従って、考古学的にも『日本書紀』の推古元年(593)よりも『二中歴』の方が正確な記事であったこととなるのです。このことからも、この寺の名称は『日本書紀』の四天王寺よりも『二中歴』の天王寺が正しいという結論が導き出されます。
このように、地名(旧天王寺村)の論理性からも、考古学的知見からも四天王寺は本来は天王寺であり、倭京2年に九州王朝の聖徳により建立されたという『二中歴』の記述は歴史的真実だったことが支持されるに至ったのです。この史料事実と考古学的事実という二重の論証力は決定的と言えるのではないでしょうか。