古田先生が生涯貫いた在野精神 (1)
来週の14日(土)に東京古田会主催の和田家文書研究会で、「和田家文書調査の思い出 ―古田先生との津軽行脚―」を発表させていただくことになり、準備のために30年以上昔の資料を読み直しています。その手始めに読んだのが『古田武彦とともに』創刊第1集(古田武彦を囲む会編、1979年。B5版68頁)です。同誌には「会員頒布」とあり、今でも入手困難な一冊です。同誌には古田説に出会った感動と悦びに満ちた会員の論稿で溢れており、当時の熱気が伝わってきます。
中谷義夫会長による「会報発行の所感」に続いて、古田先生の「母なる探求者 ―孤独の周円―」が掲載されています。その冒頭には次のように記されています。
「わたしには不思議である。
これはたった一人で歩みはじめた、孤独な探求の道であった。現代の学界はこれをうけ入れず、今までいかなる博学の人々も、このように語ったことはなかった。そういう断崖に切り立った小道を、わたしはひとり歩みつづけてきたのだ。
それが今、ふと見まわすと、わたしのまわりには、数多くのなつかしい人々が見える。そしてうしろからもヒタヒタと足音がする。いや、前にも、もう、一歩、二歩歩きはじめている若者たちの姿が見えているようにさえ思えるのである。荒野の中に多くの道を切り開きつつすすむ人々の群れのように。――これはどうしたことであろうか。
思うに、わたし個人は、とるに足らぬ一介の探求者である。長い時間の中で、うたかたのように浮んでは消えてゆくひとつのいのちだ。そのわたしをささえ、とりまいているこれらの人々こそ、真の探求者、真の母体なのではあるまいか。わたしは母なる探求者をこの世で代理し、いわばその〝手先〟をつとめる者にすぎぬ。わたしにはそのように思われるのである。」
この『古田武彦とともに』は『市民の古代 古田武彦とともに』から『市民の古代』へと変わり、「古田武彦を囲む会」は後に「市民の古代研究会」へと改名します。ちなみに、『古田武彦とともに』第1集には、「古田史学の会」という会名のもとになった「古田史学」という呼称が散見します。たとえば朝日新聞社から『「邪馬台国」はなかった』を出版した米田保さんの「『「邪馬台国」はなかった』誕生まで」には次のようにあります。
「こうして図書は結局第十五刷を突破し、つづけて油ののった同氏(古田先生のこと)による第二作『失われた九州王朝』(四十八年)第三作『盗まれた神話』(五十年二月)第四作(同年十月)と巨弾が続々と打ち出され、ここに名実ともに古田史学の巨峰群の実現をみたのである。」
「市民の古代研究会」で九州年号研究を牽引した丸山晋司さんの「ある中学校の職員室から」には次のように「古田学派」という言葉が使用されています。
「自分がもし社会科の教師になっていたら、受験前の生徒達に古田説をどう教えられるのか考えただけでもゾッとする。故鈴木武樹氏の提唱した「古代史を入試に出させない運動」は、我々古田学派にこそ必要なのではないかと思ったりもする。それでないと、社会科の教師の自由な研究はよほどの読書家・探求者にしか望めない。教師はそうであってはならない。けれど頭の中までかなり束縛されているのも教師だと思う。」
「古田史学」や「古田学派」の語は、この『古田武彦とともに』第1集が初出あるいは早期の使用例ではないかと思います。(つづく)