第3095話 2023/08/18

論文削除を要請された『親鸞思想』(2)

 法蔵館からの『親鸞思想』収録予定論文類削除の求めを古田先生は拒絶されたのですが、そのことを先生からお聞きしたとき、どの論文の削除を求められたのかをわたしはたずねませんでした。それを今でも悔やんでいます。おそらく、親鸞と恵信尼に関する論文ではないかと想像はするのですが、先生がお亡くなりになる前に聞いておくべきでした。もし、ご存じの方があればご教示いただきたいと願っています。

 わたしは古田古代史に惹かれて入門しましたが、その後、先生の名著『親鸞 人と思想』(清水書院、1970年)などを読み、日本思想史にも関心を持つようになりました。そうした気持ちを察したのか、古田先生から日本思想史学会への入会を勧められました。同学会は村岡典嗣先生の流れを汲む由緒ある学会です。もちろん、先生の勧めですから断ることなどできません。入会には会員二名の推薦が必要でしたので、古田先生と岩手大学の岡崎正道先生(近代史・近代思想史、教授)に推薦状を書いていただき、入会しました。入会後、筑波大学や京都大学で開催された年次大会で、古典の中の二倍年暦や九州年号真偽論に関する研究発表をさせていただきましたが、今から思うと全くの門外漢の発表で、冷や汗ものでした。

 結局、日本思想史の勉強はほとんどできないままで、先生の親鸞研究の著書・論文を読んだり、思想史に関する講演をお聞きするという〝耳学問〟のレベルが今も続いています。そのなかで、最も感動したのが親鸞と妻、恵信尼との深い愛情に関わる研究でした。次の著書にありますので、皆さんにも読んでいただければと思います。

○「叡山脱出の共犯者」『わたしひとりの親鸞』毎日新聞社、1978年。明石書店より復刻(注)。

 同書には次のような印象的な記事があります。本稿の最後に紹介します。

 「すなわち、〝親鸞の比叡山脱出の陰に恵信尼がいた〟――これが善鸞義絶状の率直に指さすところだ。否、「陰」どころではない。思えば親鸞自身が〝比叡山脱出の直接の動機は女性問題だ〟と、赤裸々に告白しているのではないか。それはほかならぬ「六角堂女犯の夢告」なのである。〝女性抜きに、親鸞の比叡山脱出を解する〟――そのような姑息な道は、この明白な史料がこれを許さないのである。」

 「母(恵信尼)が娘(覚信尼)に父の「女犯の偈文」を書き与え、〝ここにあなたの父の人柄がある〟と言い、娘の身辺に飾らせる。――これは一体、何を意味するだろう。(中略)
このような史料事実を解しうる道は一つしかない。――曰く、〝この「女犯」の、当の女性は恵信尼その人であった〟この答えだ。」※()は古賀注。

 「親鸞の生涯にとって「女犯の夢告」とは、何だったのか。次の三点が注意される。
第一に、「生涯荘厳」とあるように、それは〝恵信尼と生涯を共にする〟ことの表明であった。
第二に、(中略)「末法の僧の妻帯」思想は、単に〝個人的経験の正当化〟にとどまるものではなかった。末法における新しい真実として、万人の前に宣布すべき真理と見なされている。(中略)
第三に、建長二年、三夢記を娘の覚信尼に対して書き与えた、という事実がしめすように、親鸞は父として己が娘の面前にこの「女犯の夢告」を隠さなかった。この点、親鸞の死後、恵信尼が娘に対してとった態度と根本において一致している。この親鸞の娘に対する態度からも、「女犯の夢告」が恵信尼を相手とするものであることは裏付けられよう。」

 「これに対し恵信尼は、たとえもし越後の豪族三善氏の娘であったとしても、しょせん〝田舎豪族〟の一介の娘にすぎなかった。そしてその「一介の娘」のために、親鸞は比叡山を捨て、生涯これを悔いなかったのである。(中略)
このような親鸞の姿が、女としての恵信尼の目にどのように映っていたか。「中世」と現代と、時代は離れていても、その人間の真実に変わりようはない。それゆえわたしは決してこれを見あやまることができないのである。」

(注)古田武彦『古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編Ⅱ』(明石書店、2002年)に収録。2012年に同社から単行本として出版。

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