第3247話 2024/03/12

天皇銘金石文「船王後墓誌」の証言 (2)

 近畿天皇家が天皇を称するのは王朝交代後の文武(701年)からとする古田新説にとって、最も不都合な金石文の一つに船王後墓誌がありました。その銘文は次の通りです。

惟舩氏故 王後首者是舩氏中祖 王智仁首児那沛故首之子也生於乎娑陀宮治天下 天皇之世奉仕於等由羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮 治天下 天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第三殯亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀自同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万代之霊基牢固永劫之寶地也

《訓よみくだし》
惟(おもふ)に舩氏、故王後首は是れ舩氏中祖王智仁首の児那沛故首の子なり。乎娑陀の宮に天の下を治らし天皇の世に生れ、等由羅の宮に天の下を治らしし天皇の朝に奉仕し、阿須迦の宮に天の下を治らしし天皇の朝に至る。天皇、照見して其の才異にして仕へて功勲有りしを知り、勅して官位、大仁、品第三を賜ふ。阿須迦天皇の末、歳次辛丑(641年)十二月三日庚寅に殯亡す。故戊辰年(668年)十二月に松岳山上に殯葬し、婦の安理故の刀自と共に墓を同じうす。其の大兄、刀羅古の首の墓、並びに作墓するなり。即ち万代の霊基を安保し、永劫の寶地を牢固せんがためなり。

 銘文に見える三人の天皇を通説では次のように比定しています。

乎娑陀宮治天下天皇 → 敏達天皇 (572~585)
等由羅宮治天下天皇 → 推古天皇 (592~628)
阿須迦宮治天下天皇 → 舒明天皇 (629~641年10月)

 この最後の阿須迦天皇の名前が墓誌には二度見えます。「阿須迦宮治天下天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第三」と「殯亡於阿須迦天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅」です。後者は「阿須迦天皇之末歳次辛丑」(641年)に船王後が亡くなったという記事ですが、この年が「阿須迦天皇之末」であり、その年干支は「歳次辛丑」(641年)とあることから、「阿須迦天皇」をこの年(舒明13年)の10月に崩御した舒明天皇とする通説が成立したわけです。

 この通説は古田新説にとって決定的に不都合なものでした。もし、「阿須迦天皇」が九州王朝の天子の別称であれば、治世の「末」年の「歳次辛丑」(641年)かその翌年に九州年号が改元されていなければならないからです。しかし、その時点の九州年号「命長二年」(641年)が改元されるのは、六年後の常色元年(647年)です(注)。これでは、「阿須迦天皇」を九州王朝の天子の別称とする古田新説は成立しません。天子が崩御したのに、改元されないことなど有り得ないからです。

 そこで古田先生が考え出されたのが、「末とあっても末年とは限らない。治世が永ければその途中(崩御の六年前)でも末と表記できる」という解釈でした。しかし、これはかなり無理筋の解釈で、古田旧説を支持するわたしと新説を唱えた先生との間で論争が勃発しました。(つづく)

(注)「歳次辛丑」(641年)に九州年号が改元されていないことを、最初に指摘したのは正木裕氏(古田史学の会・事務局長)である。

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