『多元』No.155のご紹介
友好団体の「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.155が届きました。拙稿「七世紀の『天皇』号 -新・旧古田説の比較検証-」を掲載していただきました。
九州王朝と近畿天皇家との関係について、当初、古田先生は七〇一年の王朝交替より前は、倭国の臣下筆頭の近畿天皇家は七世紀初頭頃からナンバーツーとしての「天皇」号を許されていたとされていましたが、晩年には、七世紀の金石文などに残る「天皇」を九州王朝の天子の別称であり、近畿天皇家が天皇を名乗るのは文武からとする新説を発表されていました。
わたしは旧説を支持していましたので、拙稿ではその理由と史料根拠を明示しました。古田先生が著作などで触れられなかった近畿の金石文(長谷寺千仏多宝塔銅板、釆女氏榮域碑)や飛鳥池出土木簡(「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」「大津皇」)などを紹介しました。古田学派内でも七世紀の「天皇」号などを論じる際は、こうした史料にも目を向けていただければと願っています。
同号掲載の西坂久和さん(昭島市)の論稿「呉老師ら来日 -その後」には九州王朝系図と見られている「松野連系図」が紹介されており、興味深く拝読しました。同系図には倭の五王らの名前が見え、以前から注目されてきたのですが、どの程度歴史の真実を反映しているのかという史料批判が難しく、学術論文の史料(エビデンス)として使いにくいという問題があります。珍しい史料だけに、九州王朝説にとって今後の検討課題です。