聖武天皇「国分寺建立詔」の多元的考察
『続日本紀』天平13年(741)に見える聖武天皇による「国分寺建立詔」に基づき、全国の国分寺造営時期を8世紀中頃以降とする不動の理解(信念)により、様々な矛盾が噴出しているのですが、この「国分寺建立詔」などを多元史観・九州王朝説の視点から考察してみたいと思います。
国分寺建立に関して『続日本紀』には次のような記事が見えます(武蔵国分寺跡資料館解説シートNo.3「武蔵国分寺関連年表」による)。
○天平13年(741) 聖武天皇が国分寺建立の詔を発布する。
○天平16年(744) 国ごとに正税四万束を割き、毎年出挙して国分寺造営の費用に充てる。
○天平19年(747) 国分寺造営について国司の怠惰を責め、郡司を専任として重用し、三年以内の完了を命じる。
○天平勝寶8年(756) 聖武太上天皇一周忌斎会のため、使を諸国に遣わし、国分寺の丈六仏像の造仏、さらに造仏殿、造塔を促す。
このように天平13年の建立詔の後も、その財政的負担が大きいためか、諸国の国分寺造営がはかどらなかったことがうかがえます。そのため天平19年には、三年以内に完了させろと催促の命令が出されています。こうした事情を多元史観・九州王朝説の視点から考察しますと、次のような当時の状況が浮かび上がります。
1.九州王朝による告貴元年(594)の「国府寺」建立の命令による国分寺が存在していた場合、それとは別に建立しなければならない。(「洛中洛外日記」718話をご参照ください)
2.九州王朝の「国府寺」が失われていた場合は、新たに新築することになるが、同じ場所に造るか別の場所に造るかの判断を迫られる。
3.九州王朝の「国府寺」の一部、たとえば塔だけが残っていた場合、その塔を再利用するか、別の場所にすべて新築しなければならない。
4.同じ場所、あるいは近隣に造る場合、大和朝廷への恭順の姿勢を示すためにも、九州王朝の「国府寺」とは異なることを、あえて強調しなければならない。
以上のような状況が考えられますが、諸国の豪族(国司)にとっては経済的負担も大きく、もし九州王朝の「国府寺」が存続していれば、新たに新築しなければならないことに、非道理を感じたはずです。他方、新たな権力者(大和朝廷)に逆らうことも困難だったのではないでしょうか。命令に従わない国司に替えて、郡司を重用するというのですから、なおさらです。
このような状況下において、武蔵国では九州王朝「国分寺」の「塔」だけは残っていたので、それは再利用するが、全体としては九州王朝の「国府寺」とは別物であることを強調するために、7度西偏させた主要伽藍を新築したと考えてみれば、現在の「武蔵国分寺跡」の状況をうまく説明できるように思います。もちろん、他の可能性もありますので、一つの想定できるケースとして提起したいと思います。(つづく)