条坊と摂津国分寺推定寺域のずれ
摂津国分寺跡から7世紀の古い軒丸瓦が出土していたことをご紹介し、これを7世紀初頭の九州王朝による国分寺建立の痕跡ではないかとしましたが、この他にも同寺院跡が7世紀前半まで遡るとする証拠について説明したいと思います。それは、摂津国分寺の推定寺域が難波京条坊(方格地割)とずれているという問題です。
『摂津国分寺跡発掘調査報告』(2012.2、大阪文化財研究所)によれば、摂津国分寺跡の西側には難波京の南北の中心線である朱雀大路が走り、更にその西側には四天王寺があり、東側には条坊の痕跡「方格地割」が並んでいます。その方格地割の東隣に摂津国分寺跡があり、その推定寺域は約270m四方とされています(11ページ)。ところがその推定寺域が条坊の痕跡「方格地割」とは数10mずれているのです。いわば、摂津国分寺は難波京内にありながら、その条坊道路とは無関係に造営されているのです。これは何を意味するのでしょうか。
難波京の条坊がいつ頃造営されたのかについては諸説ありますが、聖武天皇の国分寺建立詔以前であるとすることではほぼ一致しています。わたしは前期難波宮造営(652年、九州年号の白雉元年)に伴って条坊も逐次整備造営されたと考えていますが、いずれにしてもこの条坊とは無関係に摂津国分寺の寺域が設定されていることから、難波京の条坊造営以前に摂津国分寺は創建されたとする理解が最も無理のないものと思われます。もし条坊造営以後の8世紀中頃に摂津国分寺が聖武天皇の命により創建されたのであれば、これほど条坊道路とずらして建立する必要性がないからです。既に紹介した7世紀前半頃と思われる軒丸瓦の出土もこの理解(7世紀前半建立)の正当性を示しています。
したがって摂津国分寺の推定寺域と条坊とのずれという考古学事実は、摂津国分寺が7世紀初頭における九州王朝の国分寺建立命令に基づくものとする多元的国分寺造営説の証拠と考えられるのです。ちなみに、一元史観のなかには、このずれを根拠に朱雀大路東側の条坊は未完成であったとする論者もあるようです。同報告の「第3章 まとめ」には、そのことが次のように記されています。
「古代における難波朱雀大路の東側の京域整備の状況には、条坊の敷設を積極的に認める説と、これに反対する説があるが、摂津国分寺の推定寺域が、難波京の方格地割とずれていることからも、この問題に話題を投げかけることになった。」(13ページ)
このように摂津国分寺と条坊とのずれが一元史観では解き難い問題となっているのですが、多元的国分寺造営説によればうまく説明することができます。やはり、この摂津国分寺跡は九州王朝・多利思北孤による7世紀の国分寺と考えてよいのではないでしょうか。