万葉歌の大王 (1)
―はじめに―
『柿本家系図』研究のために古田先生の万葉三部作(注①)を改めて読み直しました。特に人麿の歌の史料批判について精読したところ、古田万葉論の〝基本ルール〟とも言える「大王」の解釈や方法論は適切ではないかもしれないという疑問を抱きました。
〝「師の説にななづみそ」(本居宣長)は学問の金言〟と古田先生から学んできたとはいえ、恩師の説に異を唱えたり、突拍子もない新説を提起するのはとても勇気がいることです。20年ほど前に前期難波宮九州王朝副都説(後に複都説とした)を発表したときも怖くてたまりませんでした。しかし、そうした新仮説の発表が学問を前進させますので、今回も思い切って発表することにしました。もちろん、間違っていると気づけば、撤回します。
今回、『万葉集』のなかの柿本人麿の歌を検討したところ、たとえば著名な次の歌の大君(原文は「大王」)は、古田説では近畿天皇家の持統のこととされてきました(注②)。
巻三 304
[題詞]柿本朝臣人麻呂下筑紫國時海路作歌二首
[原文]大王之 遠乃朝庭跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所念
[訓読]大君の遠の朝廷とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ
その理由は次のようなことでした。
(1) 「遠(とお)の朝廷(みかど)」とは筑紫の九州王朝(倭国)の都(太宰府)のことであり、そこにいるのは「大王」ではなく、天子である。
(2) 従って、この歌の「大王」は九州王朝の天子ではなく、近畿の持統のことである。
(3) 中国の歴史では朝廷に居するのは天子であり、大王はその下位にある。このことからも(1)(2)の理解は妥当である。
こうした〝基本ルール〟に基づいて、古田先生は『万葉集』に見える「大王(おおきみ)」を近畿天皇家の天皇のこととして万葉歌を解釈されてきました。古田先生の万葉三部作はこの〝基本ルール〟で貫かれています。そのため、人麿歌の「大王の遠の朝廷」の読解は「大王である持統が仕えた筑紫の天子の遠の朝廷」と解釈されたわけです。しかしながら、この「持統が仕えた筑紫の天子」部分は歌自身にはなく、九州王朝説に基づく解釈なのです。
大和から「遠くはなれた筑紫の朝廷」(遠の朝廷)と人麿が歌う限り、冒頭の「大王」は大和の「大王」(持統)とするほかありません。もし、この「大王」を九州王朝の天子とするのであれば、「遠の」という言葉は全く不要で、「大王の朝廷」で充分だからです。恐らく古田先生もこうした事情から、「大王」(近畿)と「遠の朝廷」(筑紫)を切り離して理解されたものと思います。そして、その根拠とされたのが中国史書での「天子」と「大王」の区別だったのです。
しかし、文献史学の方法として、万葉歌で「大王」という言葉がどのような意味で使用されているのかは、『万葉集』そのものの用例に従って理解するべきです。これは古田先生から学んだ〝文献史学の常道〟です。(つづく)
(注)
①古田武彦『人麿の運命』原書房、平成六年(1994)。ミネルヴァ書房より復刻。
古田武彦『古代史の十字路』東洋書林、平成十三年(2001)。ミネルヴァ書房より復刻。
古田武彦『壬申大乱』東洋書林、平成十三年(2001)。ミネルヴァ書房より復刻。
②古田武彦『人麿の運命』ミネルヴァ書房版「消えゆく『遠の朝庭』」229~231頁。