古田史学の万葉論 (2)
古田武彦の万葉三部作
古田先生には古田史学「初期三部作」と呼ばれている有名な著作があります(注①)。また、晩年に著された「万葉三部作」(注②)もあります。その概要について説明した拙稿「古田武彦氏の著作と学説」(注③)より、当該部分を転載します。
【『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)より転載】
五.古田史学万葉三部作の画期
○『人麿の運命』原書房 平成六年(一九九四)
○『古代史の十字路』東洋書林 平成十三年(二〇〇一)
○『壬申大乱』東洋書林 平成十三年(二〇〇一)
日本古代史研究において『万葉集』を史料根拠とすることは難しく、他方、古代文学作品として国語学や音韻学の分野からのアプローチが「万葉学」として盛んに研究されてきました。古田先生も史料根拠として限定的に『万葉集』を取り扱われたことはありましたが、この万葉三部作により、本格的な『万葉集』研究と史料批判の方法を確立されました。
『人麿の運命』では柿本人麿が九州王朝の歌人であったとされ、九州王朝『万葉集』の復元に挑戦されました。『古代史の十字路』では本格的な万葉批判を行われ、まず『万葉集』元暦校本が最も優れた写本であり、それに基づいての史料批判を進められました。そして、題詞や左注は『万葉集』編纂時点に付された後代史料であり、歌本文は作者が詠んだ一次史料(同時代史料)であり、題詞と歌本文に齟齬や矛盾がある場合は、歌本文を優先させなければならないとされました。その方法論により、天の香具山は大分県の鶴見岳であり、雷山は糸島半島の雷山であったことなどを発見されました。
『壬申大乱』では、佐賀県「吉野」説や筑紫の「飛鳥」説など従来説を覆す新説を発表されました。その結果、『日本書紀』の「壬申の乱」が造作であり、史実は九州から東海までの西日本全体を舞台とする「壬申大乱」であったとされたのです。「壬申の乱」は研究者や作家が多くの論稿や作品を発表してきましたが、古田先生は一貫して慎重な姿勢を崩されませんでした。なぜなら、『日本書紀』の「壬申の乱」の記事は詳しすぎて、逆に史実かどうか信用できず、そのまま史実として取り扱うのは学問的に危ないとされました。真の歴史家の史料を見る目の凄さを感じさせる慎重さでしたが、『万葉集』の史料批判の方法を確立され、ようやく「壬申の乱」を研究テーマとして取り上げられ、『壬申大乱』を発表されたのです。こうした古田先生の学問的慎重さも、わたしたちは学ばなければなりません。
【転載終わり】
(つづく)
(注)
①古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(一九七一)。ミネルヴァ書房より復刻。
同『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(一九七三)。ミネルヴァ書房より復刻。
同『盗まれた神話 記・紀の秘密』朝日新聞社、昭和五十年(一九七五)。ミネルヴァ書房より復刻。
②古田武彦『人麿の運命』原書房、平成六年(一九九四)。ミネルヴァ書房より復刻。
同『古代史の十字路』東洋書林、平成十三年(二〇〇一)。ミネルヴァ書房より復刻。
同『壬申大乱』東洋書林、平成十三年(二〇〇一)。ミネルヴァ書房より復刻。
③古賀達也「古田武彦氏の著作と学説」『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)古田史学の会編、明石書店、2016年。