第2291話 2020/11/12

古田武彦先生の遺訓(13)

周建国前後の王たちの超高齢現象

 「洛中洛外日記」2263話(2020/10/16)〝古田武彦先生の遺訓(6) 周王(夷王)在位年に二倍年齢の痕跡〟と2289話(2020/11/11)〝古田武彦先生の遺訓(12)〟において、西周の夷王と厲王の在位年数に二倍年暦(二倍年齢)の痕跡があることを報告しました。これらの王が二倍年齢であれば、それ以前の周王も古い暦法である二倍年暦が採用されていたと考えざるを得ません。そこで今回は周建国前後の王たちの年齢や在位年数を調べてみました。まだ調査(精査)中ですが、中間報告します。
 今回の調査対象は周を建国した初代の武王、その父の文王、その父の季歴の3名(三代)です。複数の説もありますが、現時点でわかった範囲内では次の通りです。

(1)季歴:100歳。
 『資治通鑑外紀』(注①)『資治通鑑前編』(注②)では、季歴は殷の帝乙元年に侯伯になり、帝乙七年に百歳で死んだとされています。

(2)文王:97歳。在位50年。
 西伯・昌(文王)の死を、『綱鑑易知録』(注③)は殷の帝紂二十年と書いていることから、昌の在位年数は五十年、享年は九十七歳。『史記・周本紀』は在位年数をおよそ五十年としています(西伯蓋即位五十年)。『帝王世紀』(注④)には、「文王(西伯・昌)は諸侯の位に居たが、父を世襲して西伯になった」「文王は位を継いで五十年だった(文王嗣位五十年)」とあります。

(3)武王:93歳。在位19年。
 『資治通鑑前編』は武王の在位年数を十九年。『帝王世紀』は寿命九十三歳とします。

 なお、季歴の父、古公亶父(ここうたんぽ)の寿命を120歳とする説があるようですが、まだ出典を調査できていません。
 親子三代続けて約100歳の長寿などとは、人類史初の高齢化社会の現代日本でも考えにくいのではないでしょうか。ましてや紀元前一千年頃のことです。たとえば文王が季歴20歳のときの子供であったとすれば、その80年後の80歳で文王は即位したことになり、更に50年在位したとあるため、没年は130歳となり、97歳で没したとする伝承とも整合しません。武王に至っては更にそのような矛盾が拡大します。
 他方、古代中国の年齢や在位年数記事はいい加減な造作であり信用できないとする考えは(おそらく通説はそうなっていると思います)、それならば別に100歳といわず、200歳でも300歳でも自由に造作できるはずという指摘に答えられません。しかし史料事実としては、周王らの記録として残っている最高寿命記事は100歳くらいです(注⑤)。ですから、これらの矛盾は二倍年暦(二倍年齢)という概念(仮説)により、はじめて合理的な解釈が可能となるのです。(つづく)

(注)
①『資治通鑑外紀』:北宋の劉恕。全10巻。
②『資治通鑑前編』:南宋の金履祥によって編まれた歴史書。『資治通鑑』によって表された時代の前について書かれたもの。全18巻。
③『綱鑑易知録』:92卷。清の呉乘權、周之炯、周之燦が著した。
④『帝王世紀』:西晋の皇甫謐が編纂した歴史書。三皇から漢・魏にいたる帝王の事跡を記録した。その記述内容には正史に見られないものも多い。原本(10巻)は散佚し、佚文が残っている。
⑤『史記』などの伝世史料により、第五代穆王の寿命105歳(50歳即位+55年間在位)が知られている。


第2290話 2020/11/11

アマビエ伝承とダルマさん

 今朝、テレビで縁起物のダルマさんのお店(神奈川県平塚市)が紹介されていました。ダルマさんの製造工程の説明があり、木型に和紙を貼り付けてハリボテを作るのですが、着色前の白いダルマさんの輪郭が例のアマビエによく似ており、もしかすると何か関係があるのではないかと思いました。そのときです。ダルマ人形の由来として、江戸時代に流行した天然痘を防ぐためにダルマさんが作られたと説明があったのです。ダルマさんはアマビエと同じ、流行病を防ぐためのものだったのです。もちろん、ダルマ人形の起源については諸説あるのですが、この説は知りませんでした。
 コロナ禍にあって注目された、流行病を防ぐという言い伝えを持つアマビエについて、九州王朝の「天彦(アマヒコ)」を淵源とする仮説を「洛中洛外日記」(注①)で発表したことがありますが、もしかするとダルマさんはこのアマビエの一つの進化形ではないでしょうか。ダルマさんとよく似たアマビエの絵も江戸時代以降のものが残っていることから、ダルマさんの発生時期と共通しています。
 わたしがアマビエを九州王朝の「天彦(アマヒコ)」に淵源するものと考えた理由は下記の通りです。
アマビエ伝承における「アマヒコ」という本来の名前と、出現地が「肥後の海」という点にわたしは着目しました(注②)。九州王朝の天子の名前として有名な、『隋書』に記された「阿毎多利思北孤」(『北史』では「阿毎多利思比孤」)は、アメ(アマ)のタリシホ(ヒ)コと訓まれています。このことから、九州王朝の天子の姓は「アメ」あるいは「アマ」であり、地方伝承には「アマの長者」の名前で語られるケースがあります。たとえば筑後地方(旧・浮羽郡)の「天(あま)の長者」伝承(「尼の長者」とする史料もあります)などは有名です(注③)。
 また、「ヒコ」は古代の人名にもよく見られる呼称で、「彦」「毘古」「日子」などの漢字が当てられ、『北史』では「比孤」の字が用いられています。ですから、「アマビエ」の本来の名前と思われる「アマヒ(ビ)コ」は九州王朝の天子、あるいは王族の名前と考えても問題ありません。阿毎多利思北(比)孤の名前が千年に及ぶ伝承過程で、「阿毎・比孤」(アマヒコ)と略されたのかもしれません。
 『隋書』には阿蘇山の噴火の様子が記されており(注④)、九州王朝の天子と阿蘇山(肥後国)との強い関係が想定され、アマビエ伝承の舞台が肥後国であることとも対応しています。この名前(アマ・ヒコ)と地域(肥後)の一致は、偶然とは考えにくいのです。
 ちなみに、多利思北孤をモデルとする法隆寺の釈迦三尊像も、天平年間に大和朝廷の光明皇后らから、おそらく当時流行していた天然痘封じのために厚く祀られていたことが史料に遺されています(注⑤)。アマビエとダルマさん、そして法隆寺の釈迦像は「流行病封じ」という不思議な縁により、時代を超えて繋がっているかのようです。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2212~2215話(2020/08/24~27)〝
アマビエ伝承と九州王朝(1~4)〟
②アマビエは元々は三本足の猿のような妖怪「アマヒ(ビ)コ」だったと考えられている。両者の名前の違いは、書き写す際に「書き誤った」か、瓦版として売る際にあえて「書き換えた」とみられる。
 ※誤写例(案):「アマヒ(ビ)コ」→「アマヒユ」→「アマヒ(ビ)エ」
 瓦版などの記述によれば、アマビコの出たとされている海の多くは肥後国の海であったとされる
③古賀達也「天の長者伝説と狂心の渠(みぞ)」(『古田史学会報』四十号、二〇〇〇年十月)
④「有阿蘇山其石無故火起接天」『隋書』俀国伝
 〔訳〕阿蘇山有り。其の石、故(ゆえ)無くして火を起こし、天に接す。
⑤古賀達也「九州王朝鎮魂の寺 ―法隆寺天平八年二月二二日法会の真実―」『古代に真実を求めて』第十五集所収(明石書店、2012年)


第2289話 2020/11/11

古田武彦先生の遺訓(12)

厲王在位年にも二倍年齢の痕跡

 「洛中洛外日記」2263話(2020/10/16)〝古田武彦先生の遺訓(6) 周王(夷王)在位年に二倍年齢の痕跡〟において、西周第9代国王の夷王の在位年数がちょうど二倍になる例があり、二倍年暦の存在を前提としなければこのような史料状況は発生しないとしました。たとえば、『竹書紀年』や『史記』には夷王の在年数が8年とあり、『東方年表』(藤島達朗・野上俊静編)には16年とされています。そこで、『東方年表』が何を根拠に16年としたのかを調査したところ、在位16年とする史料として『太平御覽』卷85引『帝王世紀』、『皇極經世』、『文獻通考』、『資治通鑑前編』がありました。
 夷王に加えて第11代の厲(れい)王にも同様の史料痕跡がありました。『史記』などでは厲王の在位年数を37年としており、その後の「共和の政」が14年続き、厲王が亡命先で死亡して宣王に替わります。これらを合計した51年を『東方年表』は採用しています。
 他方、『竹書紀年』(古本・今本)では厲王の在位年数を26年としています。

 「二十六年、大旱。王陟于彘。周定公、召穆公立太子靖為王。共伯和歸其國。遂大雨。」『竹書紀年』厲王(注①)

 このように、厲王が「陟」(亡くなる)して、「共和の政」を執っていた共伯和が自領に帰国したとあります。『史記』の在位年数と「共和の政」の合計51年が二倍年暦であれば、一倍年暦の25.5年に相当し、『竹書紀年』の26年に対応しているのです。
 夷王のケースと同様に『竹書紀年』は一倍年暦(一倍年齢)に書き改められていると理解せざるを得ません。『竹書紀年』は出土後(注②)に散佚し、清代になって佚文を編集したものであり、おそらくはその編纂時に夷王と厲王の在位年数が一倍年齢に書き換えられているわけです。あるいは、出土した竹簡の原文が既に書き換えられていた可能性もあります。いずれにしても、周代において周王の在位年数が二倍年暦で記録されていたと考えざるをえません。(つづく)

(注)
①中國哲學書電子化計劃『竹書紀年』《厲王》
 https://ctext.org/zhushu-jinian/li-wang/zh
②西晋(265~316年)時代に出土。


第2288話 2020/11/10

「中国」と「共和」の出典

 「中国」と「共和」といっても現代の中国共産党やアメリカ共和党の話しではなく、今回はその出典について紹介します。
 佐藤信弥さんの『周 ―理想化された古代王朝』(注①)で周の歴史を勉強しているのですが、「中国」という用語の初出史料について知ることができました。古代中国の青銅器に記された文字を「金文」と呼び、出土文献として研究対象とされています。その金文に周の第二代成王の時代の「何尊」(注②)と呼ばれるものがあり、それには「中国」の文字が記されており、「中国」という言葉の最古の用例とのこと。
 佐藤さんの解説では、「ここでの中国とは中央の地域というぐらいの意味で、成周周辺のごく狭い範囲を指していると思われる」とのことです。ちなみに、成周とは今の河南省洛陽市付近のようです。
 「共和」の出典はご存じの方も少なくないと思いますが、西周末期の〝暴君〟厲(れい)王に替わり、「共和の政」を行った共伯和(注③)にちなむものです。この「共和の政」は、共和十四年(前834)厲王の亡命先での死亡により宣王が即位し、終わります。なお、厲王(11代)・宣王(12代)・幽王(13代)と西周は続きますが、「共和の政」期間を含め、厲王元年から幽王の末年まで計百八年となり、古代においては長期の在位期間です(注④)。おそらく、ここにも二倍年暦(二倍年齢)の影響が及んでいるのではないでしょうか。

(注)
①佐藤信弥『周 ―理想化された古代王朝』中公新書、2016年。2018年。
②中国社会科学院考古研究所編『殷周金文集成(修訂増補本)』6014。中華書局、2007年。
③精華簡『繋年』による。
④伝世文献(『史記』など)によれば、在位期間は厲王37年、(共和)14年、宣王46年、幽王11年。


第2287話 2020/11/09

新・法隆寺論争(6)

九州王朝鎮魂の寺

法隆寺を「聖徳太子」一族と斑鳩在地氏族らの私的な寺とする若井敏明さんの法隆寺私寺説(注①)と国家(近畿天皇家)による官寺とする田中嗣人さんの説(注②)を紹介しましたが、両者とも天平年間以降は国家の特別な庇護を受けたとする点では共通しています。『法隆寺縁起并流記資財帳』に記された、「丈六仏像」への光明皇后らによる献納が「天平八年歳次丙子二月廿二日」に行われるなど、この時期から大和朝廷による施入が顕著になっていることなどが根拠となっています。
 わたしも同様の施入記事に基づき、拙稿「九州王朝鎮魂の寺 ―法隆寺天平八年二月二二日法会の真実―」(注③)において、法隆寺を前王朝である九州王朝鎮魂の寺とする説を発表しました。
 釈迦三尊像光背銘に見える「上宮法皇」の命日〝法興三十二年(622年)二月廿二日〟は、『日本書紀』に記された「聖徳太子(厩戸皇子)」の命日〝推古二九年(621)二月五日〟とは異なることから、両者は別人です。また、同光背には母親の名前「鬼前太后」や妻の名前「干食王后」が記されていますが、「聖徳太子」の母親や妻はこのような名前ではありません。更に、「上宮法皇」の「法皇」とは仏門に入った天子を意味し、「法興」という年号も王朝の最高権力者の天子にしか作れません。「聖徳太子」はナンバーツーの「摂政」であり天子ではありませんし、「法興」という年号も持っていません。ですから、この「上宮法皇」を近畿天皇家の「聖徳太子」とすることは無理というものです。しかも、「聖徳太子」の命日や家族の名前は『日本書紀』に記されており、法隆寺で法会が行われた天平八年(736)は『日本書紀』が成立した720年のわずか16年後であり、『日本書紀』を編纂した大和朝廷の有力者たちがそのことを誰も知らなかったとは考えられません。
 したがって、光明皇后らは法隆寺や釈迦三尊像が九州王朝の寺院・仏像であることをわかったうえで、当時、大宰府官内から流行した天然痘の猛威を、滅び去った前王朝(九州王朝・倭国)の祟りと思い、その鎮魂のために「上宮法皇」の命日である天平8年の「二月二十二日」に法会を行い、多くの品々を献納したと思われるのです。古田説では、この釈迦三尊像は九州王朝の天子、阿毎の多利思北孤のためのものとされています(注④)。
 通説では、光背に記された〝法興三十二年(622年)二月廿二日〟を「聖徳太子」の没年月日としますが、それではなぜ『日本書紀』の記述と異なるのかについて合理的な説明ができません。田中さんの官寺説では、同じく官製史書『日本書紀』の記述と異なる理由が、ますます説明困難となります。(つづく)

(注)
①若井敏明「法隆寺と古代寺院政策」『続日本紀研究』288号(1994年)
②田中嗣人「鵤大寺考」『日本書紀研究』21冊(塙書房、1997年)
③古賀達也「九州王朝鎮魂の寺 ―法隆寺天平八年二月二二日法会の真実―」『古代に真実を求めて』第十五集所収(明石書店、2012年)
④古田武彦『古代は輝いていたⅢ 法隆寺の中の九州王朝』(朝日新聞社 1985年。ミネルヴァ書房から復刻)


第2286話 2020/11/08

古田武彦先生の遺訓(11)

佐藤信弥さんの

『周 ―理想化された古代王朝』拝読

 今日は佐藤信弥さんの『周 ―理想化された古代王朝』(注①)を拝読しました。この本も『中国古代史研究の最前線』(注②)と同様に周史を研究する上で優れた入門書でした。しかも巻末の豊富な参考文献一覧は、わたしのような初学者にとって勉強の導き手となり、ありがたい配慮です。
 佐藤さんの学問的姿勢やお人柄によるものと思いますが、同書も先行説や異説の紹介がなされ、不明確なことや不安定な課題については、そのことをはっきりと示されており、周代史研究における到達点や弱点が読者にわかるように書かれています。このような執筆姿勢は研究者にとって、とてもありがたいことです。
 たとえば周代暦年研究に関わるテーマとして、第五代穆(ぼく)王について次のような記述があります。

 「厲(れい)王の時代から『史記』では周王の在位年数が明示されるようになる。それ以前の周王で在位年数が示されているのは第五代穆王の五十五年のみであるが、穆王の在位年数をめぐっては種々の議論がある。」121頁

 『史記』には穆王が五十歳で即位し、五十五年在位したとあることから、このような百歳を超える寿命記事を信頼できないため、「種々の議論」が発生しているものと思われます。古代中国史研究において、二倍年暦(二倍年齢)という概念(仮説)がないことに、問題の原因があるとわたしは考えています。(つづく)

(注)
①佐藤信弥『周 ―理想化された古代王朝』中公新書、2016年。2018年。
②佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』星海社、2018年。


第2285話 2020/11/07

上方落語勉強会特別公演を拝見

 本日、ご近所の京都府立文化芸術会館ホールでの上方落語勉強会特別公演を見に行きました。同会館落成50周年の記念落語会です。もちろん一番のお目当ては桂米團治師匠。コロナ禍で客席も半数に減らされての公演でしたが、久しぶりに大笑いさせていただきました。
 米團治師匠には「古田史学の会」を何かと応援していただいていることもあり、京都市での落語会には都合がつく限り寄せていただいています。古田先生のファンでもある米團治師匠とは、忘れがたい出会いや想い出があるのですが、中でも古田先生最後の公の場となったKBS京都のラジオ番組「本日、米團治日和。」(注①)に古田先生とご一緒に出演させていただいたことは、今でも鮮明に記憶しています。その収録内容は『古代に真実を求めて』19集(古田史学の会編、明石書店。2016年)に掲載していますので、ご覧下さい(注②)。
ご高齢の古田先生の体調を気遣って、30分だけという約束での収録でしたが、先生はなんと2時間も米團治師匠との会話を続けられました。このときの様子が米團治師匠のオフィシャルブログに、次のように記されています。
 なお、公演での米團治師匠の落語は、素人目にもますます磨きがかかったもので、お顔もお父上の米朝師匠(人間国宝)に似てきたように思われました。

(注)
①2015年8月27日にKBS京都放送局で収録し、9月に三回に分けて放送された。その翌月の10月14日に古田先生はご逝去された。
②「古代史対談 桂米團治・古田武彦・古賀達也」(茂山憲史氏〔『古代に真実を求めて』編集部〕による抄録)

【桂米團治オフィシャルブログより転載】
2015.09.09《古田武彦さん登場 @KBS京都ラジオ》

 古田武彦さん──。知る人ぞ知る古代史学界の大家です。
 「いわゆる“魏志倭人伝”には邪馬台国(邪馬臺国)とは書かれておらず、邪馬壱国(邪馬壹国)と記されているのです。原文を自分の都合で改竄してはいけません。そして、狗耶韓国から邪馬壱国までの道程を算数の考え方で足して行くと、邪馬壱国は必然的に現在の福岡県福岡市の博多あたりに比定されることになります」という独自の説を打ち立て、1971(昭和46)年に朝日新聞社から『「邪馬台国」はなかった』という本を出版(のちに角川文庫、朝日文庫に収録)。たちまちミリオンセラーとなりました。
 その後、1973(昭和48)年には、「大宝律令が発布される701年になって初めて大和朝廷が日本列島を支配することができたのであり、それまでは九州王朝が列島の代表であった」とする『失われた九州王朝』を発表(朝日新聞社刊。のちに角川文庫、朝日文庫に収録)。
 1975(昭和50)年には、「『古事記』『日本書紀』『万葉集』の記述には、九州王朝の歴史が大和朝廷の栄華として盗用されている部分が少なくない」とする『盗まれた神話』を発表(朝日新聞社刊、のちに角川文庫、朝日文庫に収録)。
 いずれも記録的な売り上げとなりました☆☆☆
 実は、芸能界を引退された上岡龍太郎さんも、以前から古田学説を応援して来られた方のお一人。
 「古田史学の会」という組織も生まれ、全国各地に支持者が広がっています。
 が──、日本の歴史学会は古田武彦説を黙殺。この45年間、「どこの国の話なの?」といった素振りで、無視し続けて来たのです。
 しかし、例えば、隋の煬帝に「日出づる処の天子より、日没する処の天子に書を致す。恙無きや」という親書を送った人物は、「天子」と記されていることから、厩戸王子(ウマヤドノオウジ)ではなく、ときの九州王朝の大王であった多利思比孤(タリシヒコ…古田説では多利思北孤=タリシホコ)であったと認めざるを得なくなり、歴史の教科書から「聖徳太子」という名前が消えつつある今日、ようやく古田学説に一条の光が射し込む時代がやってきたと言えるのかもしれません^^;
 とは言え、古田武彦さんは大正15年生まれで、現在89歳。かなりのご高齢となられ、最近は外出の回数も減って来られたとのこと。なんとか私の番組にお越し頂けないものかなと思っていたところ──。
 ひょんなことから、「古田史学の会」代表の古賀達也さんにお会いすることができたのです(^^)/
 古賀達也さんのお口添えにより、先月、私がホストを勤めるKBS京都のラジオ番組「本日、米團治日和。」への古田武彦さんの出演が実現したという次第!
 狭いスタジオで、二時間以上にわたり、古代史に纏わるさまざまな話を披露していただきました(^◇^;)
 縄文時代…或いはそれ以前の巨石信仰の話、海流を見事に利用していた古代人の知恵、出雲王朝と九州王朝の関係、平安時代初期に編纂された勅撰史書「続日本紀」が今日まで残されたことの有難さ、歴史の真実を見極める時の心構えなどなど、話題は多岐に及び、私は感動の連続でした☆☆☆
 老いてなお、純粋な心で隠された歴史の真実を探求し続けておられる古田先生の姿に、ただただ脱帽──。
 古田武彦さんと古賀達也さんと私の熱き古代史談義は9日、16日、23日と、三週にわたってお届けします。
 水曜日の午後5時半は、古代史好きはKBSから耳が離せません(((*゜▽゜*)))
2015年9月9日 米團治


第2284話 2020/11/06

古田武彦先生の遺訓(10)

小寺敦さんの「精華簡『繋年』訳注・解題」拝読

 佐藤信弥さんの『中国古代史研究の最前線』(注①)に紹介されていた小寺敦さんの長文(約300頁)の力作「精華簡『繋年』訳注・解題」(注②)をようやく読了しました。この分野のおそらく最高レベルの研究者による専門的な論文と思われますが、わかりやすく書かれており勉強になりました。わたしの力量では全てを正しく理解することはできませんが、同分野ではどのような史料(伝世文献、出土文献)が重視されており、どのような方法論が採用されているのかを、わたしなりに把握できました。また、webでの閲覧が可能であることも有り難い配慮でした。
 同論文を拝読して、わたしが最も重要な現象と感じたのが、出土文献である『繋年』の記事を採用すると、他の伝世文献(『竹書紀年』、『史記』、『春秋左氏伝』、『国語』など)の記事と齟齬や矛盾が発生するため、諸研究者がそれらの矛盾を解決するために様々な文章解釈を自説として発表するという同分野の傾向(学問の方法)でした。
 紀元前の一千年から数百年を対象とする文献史学の分野ですから、これは無理からぬことかもしれませんが、わたしが古田先生から教えていただいた学問の方法とはずいぶん異なっていました。古田先生は、『三国志』研究において、まず現存する各写本の史料批判を行い、その中で最も原文の姿を残していると思われる紹熙本(南宋紹熙年間〔1190~1194〕刊行)を基本資料と位置づけ、それを中心に文章解釈するという方法を採用されました(注③)。『万葉集』の場合、「元暦校本 万葉集」を採用されたのも同様の方法に基づかれたものです(注④)。ですから、各写本の都合のよい部分をそれぞれ採用して仮説を組み立てるという方法は誤りであると、厳しく戒められました。もちろん、必要にして十分な論証を経た場合はその限りではありません。
 小寺論文を読みながら、このときの古田先生の言葉を思い起こしました。当時、話題になったことについては別の機会に詳しく紹介したいと思います(注⑤)。なお、今回進めている周代研究においては、佐藤信弥さんの『中国古代史研究の最前線』がとても役に立ちました。そこで、佐藤さんのもう一冊の著書『周 ―理想化された古代王朝』(中公新書、2016年)も購入し、読んでいるところです。(つづく)

(注)
①佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』星海社、2018年。
②小寺敦「精華簡『繋年』訳注・解題」『東洋文化研究所紀要』第170冊、2016年。
③古田武彦『「邪馬台国」はなかった』朝日新聞社、1971年、138~139頁。ミネルヴァ書房から復刻。
④古田武彦『古代史の十字路 万葉批判』東洋書林、2001年、7頁。ミネルヴァ書房から復刻。
⑤「九州年号群史料」や『新撰姓氏録』の史料批判をテーマとした古田先生との対話(1990~2000年頃)。


第2283話 2020/11/04

古田武彦先生の遺訓(9)

精華簡『繋年(けいねん)』の史料意義

 佐藤信弥さんは『中国古代史研究の最前線』(星海社、2018年)で、金文(青銅器の文字)による周代の編年の難しさについて、次のように指摘されています。

〝金文に見える紀年には、その年がどの王の何年にあたるのかを明記しているわけではないので、その配列には種々の異論が生じることになる。と言うより、実のところ金文の紀年の配列は研究者の数だけバリエーションがあるという状態である。〟108頁

 そのような一例として、「精華簡『繋年(けいねん)』」のケースについて紹介します。
 精華簡とは北京の「精華大学蔵戦国竹簡」の略で、精華大学OBから2008年に同大学に寄贈されたものです。2388点の竹簡からなる膨大な史料で、放射性炭素同位体年代測定法によると紀元前305±30年という数値が発表されています。ですから、出土後に散佚し、清代になって収集編纂された『竹書紀年』とは異なり、戦国期後半の同時代史料といえるものです。
 この精華簡のうち、138件からなる編年体の史書を竹簡整理者が便宜的に『繋年』と名付け、2011年に発表しました。西周から春秋時代を経て戦国期までおおむね時代順に配列されており、全23章のうち第1章から第4章までに西周の歴史が記されています。
 先の『中国古代史研究の最前線』によれば、従来、西周が東遷して東周となった年代は紀元前770年とされてきたのですが、この新史料『繋年』に基づいて次々と異説が発表されました。たとえば『繋年』の記事に対する解釈の違いにより、周の東遷年を前738年とする説(注①)や前760年とする説(注②)があり、「東遷の紀年や、『繋年』の記述をふまえたうえで、東遷の実相がどうであったかという問題は、やはり今後も議論され続けることになるだろう。」(注③)とされています。
 このように、二倍年暦(二倍年齢)という概念(仮説)を導入していない、学界の周代暦年研究は未だ混沌とした状況にあるようです。『史記』や『竹書紀年』『春秋左氏伝』などの史料事実(周王らの年齢・在位年・紀年など)をそのまま〝是〟とするような実証的手法では、結論は導き出させないのではないでしょうか。このことを改めて指し示した新史料『繋年』の持つ意義は小さくありません。
 なお、『繋年』については、小寺敦さんにより全章の原文と訓読、現代語訳などが発表されています(注④)。300頁近くの長文の論文ですので、少しずつ読み進めているところです。(つづく)

(注)
①吉本道雅「精華簡繋年考」『京都大学文学部研究紀要』第52巻、2013年。 
②水野卓「精華簡『繋年』が記す東遷期の年代」『日本秦漢史研究』第18号、2017年。
③佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』星海社、2018年。167~168頁。
④小寺敦「精華簡『繋年』訳注・解題」『東洋文化研究所紀要』第170冊、2016年。


第2282話 2020/11/03

古田武彦先生の遺訓(8)

二倍年暦から一倍年暦への干支変換

 周代史料、たとえば『竹書紀年』や『春秋左氏伝』は一見すると一倍年暦で書かれていることから、後代の編纂作業時にその当時採用されていた一倍年暦に変換されているのではないかと、わたしは推定していました。しかしながら、日付干支や年干支の変換作業は暦法についての専門的な知識が必要ですから、かなり困難ではなかったかと漠然と思っていました。
 そのようなとき、周代暦年復元作業の協力要請をしていた西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から次のメールが届きました。

【二倍年暦を一倍年暦に改定する手法】
 添付のExcelのように、15日12月型の二倍年暦を一倍年暦に改定した場合、日付は例えば12月2日から6月17日に変わるが干支は「辛未」と変わらない。30日6月型の場合は例えば1月5日から7月5日に変えても干支は「戊子」と変わらない。つまり、もし甲申の日に日蝕があったのであれば、その日は概ね「朔」であるので(稀に「晦」や「二日」がある)どの暦でもその日は「一日」であって月が置き換わるだけで、干支は変更しない。従って、本来二倍年暦で記述されていたかもしれない「春秋」を後世一倍年暦に置き換えるのは、古賀さんが考えているより簡単だと思う。(西村秀己)

 添付されていたエクセルの表を見ないとわかりづらいかもしれませんが、二倍年暦から一倍年暦に変換する際、日付干支はそのままでよいとのことです(注)。もしかするとそうかもしれないと思ってはいたのですが、わたしは暦法に疎く、自信がありませんでした。
 西村さんの理解によれば、日付干支はそのままでよいわけですから、年干支と月日のみ改訂されているということになります。このような作業仮説に基づき、周代史料の史料批判をまずは行ってみるというアプローチがよさそうです。
 なお、古田先生の遺訓により、周代史料の二倍年暦による史料批判を試み、周代暦年復元のためのプロジェクトを立ち上げたいと考えています。ご協力いただけるプロジェクトメンバーを求めています。(つづく)

(注)1ヶ月15日×12ヶ月型の二倍年暦の場合、例えば12月2日は一倍年暦の6月17日に相当し、日付干支は同じ「辛未」で変わらない。
 1ヶ月30日×6ヶ月型の場合、例えば二倍年暦で二回目の1月5日を一倍年暦の7月5日に変換しても日付干支は「戊子」と変わらない。


第2281話 2020/11/02

新・法隆寺論争(5)

法隆寺私寺説と官寺説の論理と矛盾

 法隆寺を「聖徳太子」一族と斑鳩在地氏族らの私的な寺とする若井敏明さんの法隆寺私寺説(注①)は『法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳』や『日本書紀』『続日本紀』などを史料根拠として成立しています。
 他方、国家(近畿天皇家)による官寺説に立ち、若井さんの私寺説を批判した田中嗣人さんによる、「法隆寺の建築技術の高さ、仏像・仏具その他の文物の質の高さ(一例をあげれば、金銅潅頂幡や伝橘夫人念持仏の光背などは当時の技術の最高水準のもので、埋蔵文化財など当時のものとの比較からでも充分に理解される)から言って、とうてい山部氏や大原氏などの在地豪族のみで法隆寺の再興がなされたものとは思わない。」(注②)という見解も納得できます。
 確かに現法隆寺(西院伽藍)の金堂や五重塔、そして本尊の釈迦三尊像の素晴らしさは、国家レベルの最高水準の技術・芸術力を背景として成立したと考えざるを得ません。このように一元史観では、両者の相反する「合理的」結論を説明できません。
 ところが、古田史学・九州王朝説から両者の見解をみたとき、現法隆寺は九州王朝系寺院を移築(注③)したものであり、釈迦三尊像は「法興」年号を公布した九州王朝の天子、阿毎の多利思北孤のためのものとする古田説(注④)により一挙に解決します。田中さんが主張された「当時の技術の最高水準」とは、近畿天皇家(後の大和朝廷・日本国)ではなく、それに先立つ別の国家(九州王朝・倭国)によるものであり、近畿天皇家側の史料に〝法隆寺は国家(近畿天皇家)から特別な待遇をうけてはいない〟とする若井さんの主張にも整合するのです。
 更にいえば、法隆寺が近畿天皇家(大和朝廷)から特別待遇を受けるのは、701年の王朝交替後(九州王朝・倭国→大和朝廷・日本国)の、天平年間頃からとする若井説にも古田説は整合します。(つづく)

(注)
①若井敏明「法隆寺と古代寺院政策」『続日本紀研究』288号(1994年)
②田中嗣人「鵤大寺考」『日本書紀研究』21冊(塙書房、1997年)
③米田良三『法隆寺は移築された』(新泉社、1991年)
④古田武彦『古代は輝いていたⅢ 法隆寺の中の九州王朝』(朝日新聞社 1985年。ミネルヴァ書房から復刻)


第2280話 2020/11/01

新・法隆寺論争(4)

法隆寺私寺説の概要と根拠

 田中嗣人さんが「鵤大寺考」(注①)で激しく批判された、法隆寺を「聖徳太子」一族らの私的な寺とする若井敏明さんの「法隆寺と古代寺院政策」(注②)を繰り返し拝読しました。そこには極めて興味深い問題が提起されており、一元史観の矛盾や限界が示されていました。若井さんの法隆寺私寺説の概要とその根拠は次のような点です。

〔概要〕
 法隆寺は奈良時代初期までは、国家(近畿天皇家)からなんら特別視されることのない地方の一寺院であり、その再建も斑鳩の地方氏族を主体として行われたと思われ、天平年間に至って「聖徳太子」信仰に関連する寺院として、特別待遇を受けるようになった。その「聖徳太子」信仰の担い手は宮廷の女性(光明皇后・阿部内親王・無漏王・他)であって、その背景には法華経信仰がみとめられる。

〔根拠〕
(1)『法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳』によれば、大化三年九月二一日に施入され、天武八年に停止されているが、いずれも当時の一般寺院に対する食封の施入とかわらない。これを見る限り、法隆寺は国家(近畿天皇家)から特別な待遇をうけてはいない。
(2)食封停止は、法隆寺の再建が国家(同上)の手で行われてなかった可能性が強いことを示している。
(3)『法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳』によれば、奈良時代初期までの法隆寺に対する国家(近畿天皇家)の施入には、持統七年、同八年、養老三年、同六年、天平元年が知られるが、これらは特別に法隆寺を対象としたものではなく、『日本書紀』『続日本紀』に記されている広く行われた国家的儀礼の一環に過ぎない。
(4)『日本書紀』が法隆寺から史料を採用していないことも、同書が編纂された天武朝から奈良時代初期にかけて法隆寺が国家(同上)から特別視されていなかった傍証となる。特に、「聖徳太子」の亡くなった年次について、法隆寺釈迦三尊像光背銘にみえる(推古三十年・622年)二月二二日が採られていないことは(注③)、「聖徳太子」との関係においても法隆寺は重要な位置を占めるものという認識がなされていなかったことを示唆する。

 以上のように若井さんは論じられ、法隆寺再建などを行った在地氏族として、山部氏や大原氏を挙げています。こうした若井説に対して、田中さんは、「法隆寺の建築技術の高さ、仏像・仏具その他の文物の質の高さ(一例をあげれば、金銅潅頂幡や伝橘夫人念持仏の光背などは当時の技術の最高水準のもので、埋蔵文化財など当時のものとの比較からでも充分に理解される)から言って、とうてい山部氏や大原氏などの在地豪族のみで法隆寺の再興がなされたものとは思わない。」(注④)と批判されています。
 両者の主張にはいずれも一理あり、この問題の〝解〟が古田先生の九州王朝説にあることは自明でしょう。(つづく)

(注)
①田中嗣人「鵤大寺考」『日本書紀研究』21冊(塙書房、1997年)
②若井敏明「法隆寺と古代寺院政策」『続日本紀研究』288号、1994年。
③『日本書紀』は、「聖徳太子」の没年を推古二九年(621)二月五日とする。
④同、①。