第2255話 2020/10/08

『纒向学研究』第8号を読む(3)

 柳田康雄さんが「倭国における方形板石硯と研石の出現年代と製作技術」(注①)において、「弥生時代は、もはや原始時代ではなく、教科書を改訂すべきである」と主張されていることを紹介しましたが、この他にも貴重な提言をなされています。たとえば次のようです。

〝中国三国時代以後に研石が見られないのは固形墨の普及と関係することから、倭国では少なくとも多くの研石が存在する古墳前期までは膠を含む固形墨が普及していないことが考えられる。したがって、出土後水洗されれば墨が剥落しやすいものと考えられる。〟(41頁)

〝何よりも弥生石器研究者に限らず考古学に携わる研究者・発掘調査担当者の意識改革が必要である。調査現場での選別や整理作業での慎重な水洗の重要性は、調査担当者のみにらず作業員の熟練が欠かせないことを今回の出土品の再調査でもより一層痛感した。出土品名の誤認に始まり、不用意に水洗された結果付着していたはずの黒色や赤色付着物が失われている。(中略)
 原始時代とされている弥生時代において、文字だけではなく青銅武器や大型銅鏡を製作できる土製鋳型技術が出現し継続しているはずがないという研究者が多い現実がある(柳田2017c)。また、遺跡・遺物を観察・分類できる能力(眼力)を感覚的だと軽んじ、認識・認知や理論という机上の操作で武装する風潮が昨今の考古学者には存在する。このような考古学の基礎研究不足は、研究を遅滞し高上(ママ)は望めない。基礎研究不足のまま安易に科学分析を受け入れた、その研究者のそれまでの研究成果はなんだったのだろう、旧石器捏造事件を想起する。修練された感覚的能力なくして、遺跡・遺物を研究する考古学という学問は存在意義があるのだろうか。大幅に弥生時代の年代を繰り上げた研究者や博物館などの施設は、それまでの考古学の基礎研究では弥生時代の年代が決定できなかったことを証明している。考古学研究の初心に戻りたいものだ。これはデジタル化に取り越されたアナログ研究者のぼやきだけで済むのだろうか。〟(43頁)

 弥生編年の当否はおくとしても、柳田さんの指摘や懸念には共感できる部分が少なくありません。この碩学の提言を真摯に受け止めたいと思います。(おわり)

(注)『纒向学研究』第8号(桜井市纒向学研究センター、2020年)所収。


第2254話 2020/10/07

法隆寺釈迦三尊像「周半丈六佛」の先行説

 このところ研究テーマが続出し、多方面の史料調査を行っていますが、「洛中洛外日記」1875話(2019/04/14)〝『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(7)〟で提唱した法隆寺の釈迦三尊像を「周半丈六佛」とする拙論に先行説がありましたので報告します。
 同「洛中洛外日記」で、わたしは次のように述べました。

〝佛像の大きさの基準として、仏典に見える釈迦の身長「丈六」(1丈6尺:約4.8m、座像の場合は約2.4m)と同じ佛像は丈六佛と呼ばれ、その半分の高さの佛像は「半丈六」とされます。更にその4分の3の尺度である「周尺」に基づいた佛像を「周丈六」(1丈6尺:約3.6m、座像の場合は約1.8m)と呼ばれ、その半分の「周半丈六」の座像は約0.9mとなります。法隆寺釈迦三尊像の釈迦像の身長(座像高)は0.875mですから、ほぼ一致します。ですから、この「周半丈六」を「丈六」と当時の法隆寺では呼ばれていたのではないでしょうか。〟

 ところが、昭和25年(1950)の『佛教藝術』7号に掲載されている藪田嘉一郎氏(1905-1976)の「法隆寺金堂薬師・釈迦像光背の銘文について」に、次の記述がありました。

〝(前略)そして施入の對象となった丈六像こそ彼の釈迦像ではないか。しかし釈迦像は普通概念によると丈六像とは言われぬ小像で所謂「尺寸王身」の等像身である。しかるに、これを「丈六分」の丈六に當てる理由は如何。今この像の實測高は二尺八寸五分を算するという。天平の當用尺では二尺九寸を超え三尺に近い。周半丈六の坐像は三尺という説があり、之に近いから、一に「丈六」の名を以て呼偁したのではあるまいか。〟(96頁)

 わたしの仮説が高名な先学と同じであったことはうれしいのですが、先行説の存在に気づかなかったことを研究者として恥じ入るばかりです。しかも、藪田さんの同論文をわたしは20年ほど前に読んでおり、コピーまでしていました。ですから、この論文の内容を失念していたわけですが、当時は「丈六」問題にまで関心が及ばなかったものと思います。
 恥ずかしながら、このことを報告させていただき、畏敬する先学へのお詫びに代えたいと思います。なお、わたしの法隆寺研究は新たなテーマへ展開しそうであり、先行研究などを精査しているところです。


第2253話 2020/10/06

『纒向学研究』第8号を読む(2)

 柳田康雄さんの「倭国における方形板石硯と研石の出現年代と製作技術」(注①)によれば、弥生時代の板石硯の出土は福岡県が半数以上を占めており、いわゆる「邪馬台国」北部九州説を強く指示しています。なお、『三国志』倭人伝の原文には「邪馬壹国」とあり、「邪馬台国」ではありません。説明や論証もなく「邪馬台国」と原文改定するのは〝学問の禁じ手(研究不正)〟であり、古田武彦先生が指摘された通りです(注②)。
 古田説では、邪馬壹国は博多湾岸・筑前中域にあり、その領域は筑前・筑後・豊前にまたがる大国であり、女王俾弥呼(ひみか)がいた王宮や墓の位置は博多湾岸・春日市付近とされました。ところが、今回の板石硯の出土分布を精査すると、その分布中心は博多湾岸というよりも、内陸部であることが注目されます。それは次のようです。

〈内陸部〉筑紫野市29例(研石6)、筑前町22例(研石5)、朝倉市4例、小郡市3例(研石1)、筑後市4例(研石1)

〈糸島・博多湾岸部〉糸島市13例(研石3)以上、福岡市17例(研石1)
 ※この他に、豊前に相当する北九州市20例と築城町8例(研石1)も注目されます。

 しかも、弥生中期前半頃に遡る古いものは内陸部(筑紫野市、筑前町)から出土しています。当時、硯を使用するのは交易や行政を担当する文字官僚たちですから、当然、倭王の都の中枢領域にいたはずです。内陸部に多いという出土事実は古田説とどのように整合するのか、あるいは今後の発見を期待できるのか、古田学派にとって検討すべき問題ではないでしょうか。
 柳田さんは次のように述べて、教科書の改訂を主張されています。

 「これからは倭国の先進地域であるイト国・ナ国の王墓などに埋葬されてもよい長方形板石硯であるが、いまだに発見されていない。いずれ発見されるものと信じるが、今回の集落での発見は一定の集落内にも識字階級が存在することを示唆しているだけでも研究の成果だと考えている。青銅武器や銅鏡の生産を実現し、一定階級段階での地域交流に文字が使用されている弥生時代は、もはや原始時代ではなく、教科書を改訂すべきである。」(43頁)

 大和朝廷一元史観に基づく通説論者からも、このような提言がなされる時代に、ようやくわたしたちは到達したのです。(つづく)

(注)
①『纒向学研究』第8号(桜井市纒向学研究センター、2020年)所収。
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社、1971年。ミネルヴァ書房より復刻)


第2252話 2020/10/06

ベティー・J・メガーズ博士の想い出(4)

 大原重雄さん(『古代に真実を求めて』編集部)から教えていただいたもう一つの古い土器、サン・ペドロ複合遺物(San Pedro complex)の土器については当該論文(注)を入手し、その写真を見ることができました。サン・ペドロ土器はバルディビアの南側約40kmほどのところにあるリアル・アルト(Real Alto)遺跡で発見され、そこはバルディビアと同じ太平洋岸に位置しています。ですから、広い意味では同一領域(エクアドル太平洋岸)と考えてもよいように思います。
 論文によればサン・ペドロ土器の中で最も古いものは、バルディビア土器1層とその下の無土器時代層の間から出土しており、バルディビア土器よりも古いとされています。掲載された写真によれば、その文様は単純な〝線刻〟であり、比較的進化した文様を持つバルディビア土器よりも素朴で古いと見てよいと思われました。
 以上の理解が正しければ、バルディビア土器の誕生が縄文土器の伝播によるとする場合、最初にリアル・アルトへ伝播し、その後に北部のバルディビアへも広がり、あの多彩なバルディビア土器群へ発展したと考えることもできます。あるいは、アマゾン川下流域の土器が南米大陸を横断してリアル・アルトへ伝播したのかもしれません。
 いずれにしても、このような新知見を取り入れて、「縄文人が太平洋を渡り、縄文土器がバルディビアに伝播した」とするメガーズ説の修正発展、あるいは大胆な見直しを含む再検証が必要な時代を迎えたようです。(おわり)

(注)〝New data on early pottery traditions in South America: the San Pedro complex, Ecuador〟Article in Antiquity June 2019 Yoshitaka Kanomata , Jorge Marcos , Alexander Popov , Boris Lazin & Andrey Yabarev


第2251話 2020/10/06

ベティー・J・メガーズ博士の想い出(3)

 縄文人が太平洋を渡り、縄文土器がバルディビアに伝播したとするメガーズ説の論点の一つ、「バルディビア土器が南北アメリカで最古の土器」については検証が必要と大原重雄さん(『古代に真実を求めて』編集部)から教えていただきました。1995年の「縄文ミーティング」当時も小林達雄さん(国学院大学教授)は、コロンビアのサン・ハシント(San Jacinto)出土土器とアマゾン川流域の貝塚出土土器がバルディビア土器より古いと指摘されていました。しかしその詳細をわたしは知りませんでした。
 今回、大原さんから教えていただいたのは、次の二つの出土事例でした。一つは、ブラジル北部アマゾン川下流のサンタレン(Santarém)の先史時代の貝塚出土土器。もう一つはバルディビアの南数十kmにあるサン・ペドロ複合遺構(San Pedro complex)から出土した土器です。中でもサンタレン出土土器は約8000年から7000年前のものとされており、南米では突出して古いものです(注)。
 サンタレン出土土器の写真をわたしはまだ見ていませんので、断定はできませんが、バルディビア土器の文様は、「太平洋を渡った縄文土器」と「南米大陸を横断したサンタレン土器」の、どちらの伝播・影響によるのかがこれからは問われることでしょう。(つづく)

(注)アンナ・C・ルーズベルト、ルパート・ハウズリー「ブラジルアマゾンの先史時代貝塚からの第8ミレニアム土器」(〝Eighth Millennium Pottery from a Prehistoric Shell Midden in the Brazilian Amazon〟Science 254、1992)では、その土器の年代について次のように報告(要約)されている。
 「西半球でこれまでに発見された最も初期の土器は、ブラジルのアマゾン川下流サンタレン(Santarém)近くの先史時代の貝塚から発掘された。木炭・貝殻・土器の校正済み加速器放射性炭素年代測定と、出土土器の熱ルミネセンス年代測定では、約8000年から7000年前を示した。」(古賀訳)


第2250話 2020/10/05

ベティー・J・メガーズ博士の想い出(2)

 縄文人が太平洋を渡り、縄文土器が伝播したとするメガーズ説の論点と根拠はおおよそ次のようなものでした。

①5000年前の土器がエクアドル海岸部のバルディビアから出土している。それに続く他の遺跡からは5600年前に遡る土器が出土しており、これは南北アメリカで最古の土器である。
②進化した文様を有しているバルディビア土器は、無土器時代の地層の上からいきなり出土することから、同土器は当地で独立発達したものではなく、より古い土器文明の歴史を有する他地域からの伝播と考えざるを得ない。
③調査の結果、日本列島の縄文土器の文様に類似していることが判明した。しかも、縄文土器の方が古く、数千年の土器発展の歴史を有しており、縄文土器がバルディビアに伝播したと考えざるを得ない。
④縄文土器の伝播の結果、文様が似たバルディビア土器が生まれた。土器の形態などは一部に類似する部分もあるが、全体としては似ていない。しかし、伝播の根拠として基本とすべきは文様であり、その他の形態などは、生活様式などの差により、必ずしも似るとは限らない。
⑤太平洋は文明を遮断するものではなく、むしろ文明を繋ぐ海流の道である。このことを証明する植物の伝播などの根拠もある。

 メガーズさんとお会いした25年前(1995年)は、アメリカ考古学会の内外でバルディビア土器について伝播説と独立発達説とで激しい論争が続いていました(注①)。中でも、④については日本の考古学者からも批判されていた論点でした。更に、コロンビアのサンハシントやアマゾンから、バルディビアよりも古い土器の出土が報告され始めたこともあり、①についても見直すべきであるとの次のような指摘が縄文土器研究者の小林達雄さん(国学院大学教授)から出されていました(注②)。

 「その前に、サン・ハシントですか。今度はそっちと比べなければいけなくなったわけですね、そっちのほうが古いわけですから。こっちの土器がどこから来たかというときには、焦点はそっちに移るわけで、それと比べなければいけない、ということになるわけです。」(『海の古代史』192頁)
 「それからアマゾン川のほうに、やっぱり六〇〇〇年前ぐらいだと思うんですけれども、相当厚い貝層が遺っているんですが、そこから土器が出て、それがやっぱり六〇〇〇年前くらいなんです。そういうことを重ね合わせていくと、まだまだ土器の起源というものを、外にすぐに求めるというようなやり方よりも、内部でもう少し見ていくほうがいいんじゃないかという気がするんです。」(同193頁)

 小林さんはバルディビア土器はアメリカ大陸内に発生源があったと考えた方がよいとの見解ですが、同時に、サン・ハシントの土器が縄文土器に似ていることも述べておられます。

 「さらに、土器なんかも、相当、縄文に近いのが、立体的で、サンハシントのやつは突起に近いやつがあったりしますね。そういった意味では、もっともっとバルディビアの土器なんかより、そういう意味では似ていると思いますね。」(同212頁)

 わたしもサン・ハシントの土器が縄文土器にそっくりなので驚いたのですが、しかし、縄文土器の伝播とするにはまだ問題もありました。メガーズさんもサン・ハシント遺跡の写真を持参され、「これに似た遺跡が日本にないか」と古田先生にたずねられていました。(つづく)

(注)
①古田武彦訳著『倭人も太平洋を渡った コロンブス以前の「アメリカ発見」』(創世記、1977年)に伝播説を批判した論稿「様式と文化交流の間」(ジョン・マラー)が掲載されている。原著の編集者は、Carroll L.Riley J.Charles Kelley Campbell W.Pennington Robert L.Rands。
②古田武彦著『海の古代史』(原書房、1996年)


第2249話 2020/10/04

ベティー・J・メガーズ博士の想い出(1)

 古田武彦先生の名著『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社、1971年。ミネルヴァ書房より復刻)の中で異彩を放つテーマがあります。倭人が中南米にあった裸国・黒歯国まで太平洋を渡って交流していたというテーマです。この部分の削除を編集者から要請されたり、ご友人からも掲載に反対されたとのことですが、古田先生はそれを拒否されました。
 その後、倭人の太平洋横断を支持する研究がアメリカでもなされていたことがわかりました。アメリカの考古学者、クリフォード・エバンズ(Clifford Evans)夫妻の研究によれば、エクアドルのバルディビア遺跡から出土した土器の文様が日本列島の縄文土器に類似していることから、縄文人が太平洋を渡り、縄文土器の文様が伝播したとされました。この研究を知った古田先生は自説を支持するものとして評価され、古田武彦訳著『倭人も太平洋を渡った コロンブス以前の「アメリカ発見」』(創世記、1977年)を刊行されました。
 1995年11月にはエバンス夫人(Betty Jane Meggers 1921-2012、アメリカ合衆国考古学会副会長)が来日され、古田先生を始め各界の専門家との「縄文ミーティング」に出席されました。その内容は古田武彦著『海の古代史』(原書房、1996年)に掲載されていますのでご参照下さい。わたしは古田先生のご配慮により、録音係として同ミーティングに同席させていただきました。今でも、通訳の女性の博識を鮮明に記憶しています。メガーズ博士が話される考古学用語や出席者の多方面の専門用語を見事に訳されていました。日本語訳について確認されたのは「〝point〟は〝やじり〟でよろしいですね」の一回だけでした。出席者の各分野の専門用語を淀むことなく英訳され、ミーティング終了時には参加者一同から拍手が贈られたほどです。

【縄文ミーティング出席者】
 1995年11月3日(金) 全日空ホテル(東京都港区赤坂)
ベティー・J・メガーズ博士
大貫良夫(東京大学理学部教授)
鈴木隆雄(老人総合研究所疫学室長)
田島和雄(愛知ガンセンター疫学部長)
古田武彦(昭和薬科大学教授)〈司会〉
 ※所属・肩書きは当時のもの。

 議論が白熱すると、通訳を待たずに全員が英語で話し出すという一幕もあり、主催者の藤沢徹さん(故人・東京古田会々長)から、「この内容は日本語で書籍化しますので、日本語で話して下さい」と注意がなされたほどです。通訳の女性は、皆が英語で話している間は一休みできてホッとされていました。わたしの英語力では専門用語はもとより、メガーズさんの英語はほとんど理解できませんでした。ときおり耳に入る〝migration〟という言葉に、縄文人や土器の「移動」について論議されているのだなあと推測していました。
 ところが、南米でバルディビア土器よりも古い土器の発見が続いていることを最近になって大原重雄さん(『古代に真実を求めて』編集部)から教えていただき、従来のメガーズ説について検証が必要であることを知りました。(つづく)


第2248話 2020/10/03

『纒向学研究』第8号を読む(1)

 今日も京都府立図書館へ行き、司馬遷の『史記』などを読んできました。とりわけ、探していた『纒向学研究』第8号(桜井市纒向学研究センター、2020年)が同館にあることがわかり、掲載されている柳田康雄さんの「倭国における方形板石硯と研石の出現年代と製作技術」をコピーしてきました。同論文は、近年、発見が続いている弥生時代の板石硯についての最新かつ網羅的な報告書であり、研究者には必読の論文です。
 同論文では柳田さんや久住猛雄さんによる、板石硯の調査結果が報告されており、中でもその出土分布は示唆的でした。両氏らが発見した弥生時代・古墳時代前期の硯・研石の総数は現時点で200個以上で、出土地は次の通りです。

○福岡県 糸島市13例(研石3)以上、福岡市17例(研石1)、春日市3例、筑紫野市29例(研石6)、筑前町22例(研石5)、朝倉市4例、小郡市3例(研石1)、筑後市4例(研石1)、北九州市20例、築城町8例(研石1)。
 ※福岡県合計123例以上。
○佐賀県 唐津市4例(研石1)、吉野ヶ里町2例(研石1)、基山町1例。
○長崎県 壱岐市11例(研石4)。
○大分県 日田市1例。
○熊本県 阿蘇市2例。
 ※福岡県以外の九州合計21例。
○広島県 東広島市2例。
○岡山県 10例(研石2)。
○島根県 松江市8例(研石1)、出雲市2例、安来市3例。
○鳥取県 鳥取市3例。
○石川県 小松市20例。
○兵庫県 丹波篠山市1例。
○大阪府 泉南市1例、高槻市3例。
○奈良県 田原本町2例、桜井市1例、橿原市1例、天理市5例。
 ※九州以外合計62例。

 ただしこれらの発見は、柳田・久住両氏の「行動範囲内」であり、「関心のある研究者が少ない地域は希薄」とのことです。板石硯の出土分布は北部九州、特に福岡県が圧倒的に多く、弥生時代の倭国の文字受容先進地域が福岡県にあったことがわかります。そのことは魏志倭人伝に記された邪馬壹国の所在地が福岡県に存在したことを示しています。(つづく)


第2247話 2020/10/02

古田武彦先生の遺訓「二倍年暦の研究」

 今日は秋晴れのなか、岡崎公園にある京都府立図書館を訪れ、二冊の本を閲覧しました。岳南著『夏王朝は幻ではなかった 一二〇〇年遡った中国文明史の起源』(柏書房、2005年)と佐藤信弥著『中国古代史研究の最前線』(星海社、2018年)です。
 前者は中国の国家プロジェクトとして実施された中国古代王朝の絶対年代決定プロジェクト(夏商周断代工程)の概要と結果をまとめたもので、その結論が正しければ古田先生やわたしが提唱してきた『論語』など周代史料の二倍年暦説が否定されます。後者はタイトルにある通り、中国古代史研究の最新状況を紹介したもので、主に「夏商周断代工程」以後の研究について解説されたものです。
 二倍年暦研究において、わたしは古田先生から『論語』の語彙悉皆調査を委託されましたが、その当時は仕事が多忙で果たせませんでした(注)。本年八月、わたしは四五年間勤務した化学会社を定年退職し、ようやく古田先生の遺訓を実現できる研究環境を得ました。
 『論語』はもとより、『春秋』『竹書紀年』の本格的な史料批判をこれから試みます。その手始めとして、この二冊を読みました。そこからは、わたしが想像していた通り、二倍年暦や「二倍年齢」という概念を持たない現代中国の研究者たちの限界と混乱の様子が見えてきました。(つづく)

(注)
 平成二二年(二〇一〇)「八王子セミナー」で古田先生は次のように発言されています。
 「二倍年暦の問題は残されたテーマです。古賀達也さんに依頼しているのですが、(中略)それで『論語』について解釈すれば、三十でよいか、他のものはどうか、それを一語一語、確認を取っていく。その本を一冊作ってくださいと、五、六年前から古賀さんに会えば言っているのですが、彼も会社の方が忙しくて、あれだけの能力があると使い勝手がよいのでしょう、組合の委員長をしたり、忙しくてしようがないわけです。」『古田武彦が語る多元史観』六六~六七頁(ミネルヴァ書房、二〇一四年)


第2246話 2020/09/29

『東京古田会ニュース』194号の紹介

『東京古田会ニュース』194号が届きました。同号には拙稿「大化の改新詔と王朝交替」を掲載していただきました。同稿では、『続日本紀』の文武天皇「即位の宣命」や『日本書紀』の大化二年改新詔などの分析に基づいて、7世紀末の九州王朝から大和朝廷への王朝交替について考察しました。まだ初歩的な研究段階で不十分で未完成の論稿ですから、これからも修正や論究を深めたいと思います。
 服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「継体天皇と女系天皇」も掲載されていました。現在の女系天皇反対論や容認論に継体天皇の皇位継承例が取り上げられることもあり、現代史からも興味深い研究です。なお、同稿は「古田史学の会」関西例会で口頭発表され論争となったテーマで、論点整理を含めた検証が待たれます。
 中村通敏さん(福岡市)の論稿「『史記』の『穆王即位50歳説』について」は、わたしや古田先生の古代中国や『論語』における二倍年暦説を批判したもので、なかなか興味深い内容でした。たとえば、そこで紹介された中国の国家的研究プロジェクトによる「穆王の即位年齢20歳」説は、『史記』の「50歳即位」記事との比較(2.5倍)から、周王朝の天子の年齢が二倍年暦を淵源とする「二倍年齢」で『史記』に記述されていたことの証明にもなりそうです。この点、稿をあらためて詳述します。


第2245話 2020/09/28

古典の中の「都鳥」(4)

 チドリ目ミヤコドリ科の都鳥(渡り鳥)は、古代に於いて近畿天皇家の都がおかれた地には飛来していませんし、『伊勢物語』(九段)の主人公とされる在原業平(825~880年)の時代の平安京にはユリカモメもいなかったとされています。ですから、『伊勢物語』(九段)の舞台とされる武蔵国の「隅田川」でユリカモメを「都鳥」(宮こ鳥)とする次の歌が成立することは困難です。

 「名にし負はば いざ事問はむ宮こ鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」『伊勢物語』(九段)
 ※『古今和歌集』(411)にも同様の説話と歌が見えます。

 そこでわたしが着目したのが「隅田川」という説話の舞台です。というのも、能楽に「隅田川」という演目があり、そこにも「都鳥」が登場するからです。
 観世元雅(かんぜもとまさ、1394・1401頃~1432)の作とされる「隅田川」は、都の婦人が人買いにさらわれた息子を探して武蔵国の隅田川まで訪れ、そこの渡し守との応答の中で「都鳥」が登場し、在原業平の「名にし負はば いざ事問はむ宮こ鳥」の歌を引用するというものです。その概要については、本稿末に転載したウィキペディアの解説をご参照下さい。
 この「隅田川」の時代の都は平安京ですが、やはり京都には飛来しない「都鳥」(ミヤコドリ科)を、同じく「都鳥」がいない隅田川で、「鴎」(ユリカモメか)を指して歌うという不自然さがあります。そのとき、わたしが思い出したのが、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の論稿「常陸と筑紫を結ぶ謡曲『桜川』と『木花開耶姫』」(注①)です。(つづく)

(注)
①正木 裕「常陸と筑紫を結ぶ謡曲『桜川』と『木花開耶姫』」『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』古田史学の会編、2019年、明石書店。

【隅田川】
 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『隅田川』(すみだがわ)は能楽作品の一つである。観世元雅作。
 一般に狂女物は再会→ハッピーエンドとなる。ところがこの曲は春の物狂いの形をとりながら、一粒種である梅若丸を人買いにさらわれ、京都から武蔵国の隅田川まで流浪し、愛児の死を知った母親の悲嘆を描く。
 各流派で演じられるが、金春流で演じられる時は、『角田川』(すみだがわ)のタイトルになる。

 シテ:狂女、梅若丸の母
 子方:梅若丸の霊
 ワキ:隅田川の渡し守
 ワキヅレ:京都から来た旅の男

 大小前に塚の作り物(その中に子方が入っている)
 渡し守が、これで最終便だ今日は大念仏があるから人が沢山集まるといいながら登場。ワキヅレの道行きがあり、渡し守と「都から来たやけに面白い狂女を見たからそれを待とう」と話しあう。
 次いで一声があり、狂女が子を失った事を嘆きながら現れ、カケリを舞う。道行きの後、渡し守と問答するが哀れにも『面白う狂うて見せよ、狂うて見せずばこの船には乗せまいぞとよ』と虐められる。
 狂女は業平の『名にし負はば…』の歌を思い出し、歌の中の恋人をわが子で置き換え、都鳥(実は鴎)を指して嘆く事しきりである。渡し守も心打たれ『かかる優しき狂女こそ候はね、急いで乗られ候へ。この渡りは大事の渡りにて候、かまひて静かに召され候へ』と親身になって舟に乗せる。
 対岸の柳の根元で人が集まっているが何だと狂女が問うと、渡し守はあれは大念仏であると説明し、哀れな子供の話を聞かせる。京都から人買いにさらわれてきた子供がおり、病気になってこの地に捨てられ死んだ。死の間際に名前を聞いたら、「京都は北白河の吉田某の一人息子である。父母と歩いていたら、父が先に行ってしまい、母親一人になったところを攫われた。自分はもう駄目だから、京都の人も歩くだろうこの道の脇に塚を作って埋めて欲しい。そこに柳を植えてくれ」という。里人は余りにも哀れな物語に、塚を作り、柳を植え、一年目の今日、一周忌の念仏を唱えることにした。
 それこそわが子の塚であると狂女は気付く。渡し守は狂女を塚に案内し弔わせる。狂女はこの土を掘ってもわが子を見せてくれと嘆くが、渡し守にそれは甲斐のないことであると諭される。やがて念仏が始まり、狂女の鉦の音と地謡の南無阿弥陀仏が寂しく響く。そこに聞こえたのは愛児が「南無阿弥陀仏」を唱える声である。尚も念仏を唱えると、子方が一瞬姿を見せる。だが東雲来る時母親の前にあったのは塚に茂る草に過ぎなかった。


第2244話 2020/09/27

田和山遺跡出土「文字」板石硯の画期(4)

 久住猛雄さんの論文「松江市田和山遺跡出土『文字』板石硯の発見と提起する諸問題」(注①)には日本列島における文字受容に関する、これからの考古学への重要な指摘と提言が含まれています。例えば次の様な指摘です。

 (硯に書かれた文字は)〝当時(漢代)の木簡・竹簡の平均的なサイズである幅10~13mmのものに書かれてもおかしくないサイズである。ある程度書きなれた隷書体の文字に、当時の平均的木簡サイズの文字が存在することは、当時の日本列島において、漢代簡牘を模倣したような幅の狭い「木簡」が、存在した可能性を提起する。〟(94頁)

〝田和山遺跡457資料の「文字」板石硯の発見により、板石硯は文字書写用に使われた可能性が極めて高くなったし、木簡に書かれるような「文字」が存在していたことが判明した。したがって今後、弥生時代中期中頃以降の有機質遺物が遺るような遺跡においては、「木簡」が遺存している可能性を視野に入れて、発掘調査することが不可欠である。なお当時は「膠」使用以前の墨であるから、墨書の遺存度が悪いことも想定する必要がある。今後の注意深い調査により、まさに「歴史」が書き換えられることになるだろう。〟(95頁)

 「弥生木簡」出土を予見した久住さんの指摘は論理的と思われます。こうした考古学的予見と論理性は文献史学へも激震を与えます。
 わたしは、「洛中洛外日記」2076話(2020/02/06)〝松江市出土の硯に「文字」発見(2)〟において、銅鐸圏(銅鐸国家)での文字使用を予見し、1844話(2019/02/26)〝紀元前2世紀の硯(すずり)出土の論理〟では、福岡県糸島市の潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡と佐賀県唐津市の中原(なかばる)遺跡(弥生中期中頃、紀元前100年頃)から出土した「硯」を論拠に、「天孫降臨」の50年後、遅くても100年後頃には天孫族(倭人)は文字(漢字)を使用していた可能性があり、彼らは自らの名前や歴史を漢字漢文で記そうとしたであろうと指摘しました。
 したがって、天孫族が「天孫降臨神話」の神々の名前を漢字表記していたとなれば、記紀に見える神名漢字表記の中には「天孫降臨」時代に成立したものがあるという可能性を前提にした文献史学の研究方法が必要となります。
 久住さんらの一連の板石硯・文字発見と考古学的予見は、文献史学の常識と論理構成の見直しを迫った歴史的研究業績ではないかとわたしは思います。(おわり)

(注)
①久住猛雄「松江市田和山遺跡出土『文字』板石硯の発見と提起する諸問題」(『古代文化』Vol.72-1 2020.06)