第2053話 2019/12/09

三宅利喜男さんと三波春夫さんのこと(2)

 正木さんからの返事によれば、三宅利喜男さんは2015年に退会されておられ、恐らくご高齢による退会と思われるとのことでした。確かに三宅さんは古田先生よりも年上と記憶していましたので、今では94歳になられていることと思います。会員名簿に残っている電話番号に電話をかけましたが、今は使われていないとのアナウンスが返ってきました。もし、三宅さんの現在の連絡先かご家族ご親戚をご存じの方がこの「洛中洛外日記」を読んでおられましたら、ご一報いただけないでしょうか。
 わたしが、テレビで三波春夫さんを見て、三宅さんのことを思い出したのは次のような経緯があったからです。終戦間際、三宅さんは十代の青年将校として朝鮮半島・満州方面に配属され、そのとき、三波春夫(1923-2001、本名:北詰文司)さんが同じ連隊におられ、浪曲師として軍隊内でも人気があったとのこと。
 このような戦地での思い出話を三宅さんからお聞きする機会がよくありました。貴重な体験談ですので、わたしもいろいろと教えていただいたものです。
 たとえば、ソ連軍が参戦したとき、満州の国境地帯に派遣されており、その情報を伝えることと、軍事機密の暗号解読書を持ち帰る必要があり、部隊を引き連れて命がけでソウルまで帰還したとのこと。平野部はソ連軍が展開しているため、山岳地帯ルートで脱出され、途中、子供を連れて満州から逃げているご婦人が疲労困ぱいで座り込んでいたので、持っていた岩塩を分けてあげたところ、幼子を負ぶったそのご婦人はもう一人の子供の手を引いて歩き出したという悲しい体験などをお聞きしたこともありました。関東軍司令部が兵士や民間人を置き去りにして、早々と逃げ帰ったと、三宅さんは憤っておられました。
 ソウル行きの最後の「病院列車」に間に合い、部隊は列車の屋根の上に乗ったが、全員血まみれだったそうです。「なぜ血まみれになったのですか」とたずねると、ソ連軍の包囲網を突破するため〝切り込み〟をかけたとのことでした。ソウルに着くと、要請されてソウル警察隊の設立と訓練を手伝い、その後に部隊全員を連れて帰国されました。そのときの兵士たちは全員が三宅さんより年長の古参兵だったのですが、三宅さん以外の将校は戦死したため、若い三宅さんが指揮を執り、「全員、日本に連れて帰る」と言うと、古参兵たちはよく命令に従ったそうです。
 無事に部隊を連れて帰国し、九州から大阪方面行きの鉄道に乗ったものの、広島の手前で列車は止まり、そこからは歩いて次の駅まで行ったとのこと。原爆で広島市内の鉄道が破壊され、市内一面が焼け野原だったそうです。もしかすると、そのとき古田先生も仙台から広島に戻られていた可能性がありそうです。
 こうした三宅さんの「軍歴」を、『古田史学会報』30号(1999年2月)掲載の三宅利喜男「小林よしのり作 漫画『戦争論』について」より転載します。(つづく)

〔三宅利喜男氏軍歴〕大正14年(1925)7月24日生
昭和19年12月 陸軍航空通信学校卒業。
  20年 5月 鞍山(満州)第三航空情報隊転属。温春(満州)第十一航空情報隊転属。
     7月 満・ソ・朝国境方面に出向。
     8月9日 ソ軍と戦闘。清津(北朝鮮)通信所にて連絡中、ソ軍の上陸始まる。茂山白頭山系より病院列車でソウル航空軍司令部へ。終戦を知る(19日)。
     9月 ソウル南大門警察に所属。韓国保安隊訓練を指導。
    10月 安養で米軍に武器引渡し。
    11月 釜山より部隊を連れ帰国。


第2052話 2019/12/08

三宅利喜男さんと三波春夫さんのこと(1)

 「岩本さんのポスターがテレビに出てはる」と妻に言われて、久しぶりにNHKの大河ドラマ「いだてん」を見ました。というのも、ご近所の岩本光司さんは前回1964年の東京オリンピック公式ポスターのモデルなのですが、そのポスターが重要なアイテムとして何度もテレビ画面に出ているのです。
 岩本家とは家族ぐるみの永いお付き合いですが、岩本さんは学生時代(早稲田大学)、水泳(バタフライ)の選手で、アジア大会で優勝し、オリンピックでのメダル獲得間違いなしと言われていました。そのため、東京オリンピック公式ポスターのモデルに抜擢され、バタフライで泳いでいる迫力満点の写真が日本中に貼られたのです。
 ところが岩本青年に悲劇が起こります。オリンピック出場を決める選考会レースの直前に病気になられ、オリンピックに出場できなかったのです。ショックで岩本さんは一旦は水泳から離れられたのですが、その数十年後、マスターズ水泳に出場され、世界記録をなんと60回以上更新するという世界のトップスイマーとして復活されたのです。今も現役で活躍されています。そして2020年の東京オリンピックを前にして、岩本さんと1964年のポスターが再び脚光を浴び、テレビや新聞に引っ張りだことなられ、今回の大河ドラマに「ポスター出演」となった次第です。
 その大河ドラマ「いだてん」に演歌歌手の三波春夫さんも登場し、あの懐かしい「オリンピックの顔と顔、それととんと、ととんと、顔と顔」という東京五輪音頭がテレビ画面に流れたのです。そのとき、わたしは「古田史学の会」の会員、三宅利喜男さんのことを思い出しました。そして、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)に三宅さんが今も会に在籍されているのかを問い合わせたのです。(つづく)


第2051話 2019/12/07

新春古代史講演会2020(1月19日)のご案内

 他団体との共催事業として「古田史学の会」では、来年1月19日(日)に恒例の「新春古代史講演会2020」を開催します。今回は大阪市文化財協会の考古学者で難波宮を発掘調査されてきた高橋工先生をお招きし、難波宮(京)発掘調査の状況などについて講演していただきます。「古田史学の会」からは、正木裕事務局長(大阪府立大学講師)に新年号「令和」と九州王朝との関係について講演していただきます。
 講師の高橋工先生の最近の主なお仕事は次の通りです。
○難波宮跡の発掘調査
 『難波宮址の研究』第15(前期難波宮東方官衙と後期難波宮「東南新宮」候補地の提唱)
 『難波宮址の研究』第20(前期難波宮造営と土地整備)
○難波宮関係著書
 「前期・後期難波宮跡の発掘成果」:『難波宮と都城制』中尾芳治・栄原永遠男編 吉川弘文館刊(2014年7月)

 講演会後は希望者による講師を囲んでの懇親会も開催します。多くの皆様のご参加をお願いいたします。

〔新春古代史講演会2020〕
【日時】1月19日(日) 開場13:00 開会13:30〜17:00
【会場】アネックスパル法円坂 3階2号室
(旧大阪市教育会館)℡06-6943-5021
*JR大阪環状線及び大阪メトロ森ノ宮駅、西に徒歩10分(中央線谷町4丁目から東に10分)難波宮跡の東隣り。

【演題・講師】
○「難波宮・難波京の最新発掘成果」 13時30分〜15時
 高橋 工氏(一般財団法人大阪市文化財協会調査課長)
○「令和改元と万葉歌に隠された歴史」 15時10分〜16時40分
 正木 裕氏(大阪府立大学講師、古田史学の会・事務局長)
【参加費】1,000円 定員70名(事前予約不要)
【懇親会】当日、会場で受け付けます。(参加費は別途)
【共催団体】和泉史談会、古代大和史研究会、市民古代史の会・京都、誰も知らなかった古代史の会、古田史学の会、ほか


第2050話 2019/12/04

古代の九州と信州の諸接点

 『東京古田会ニュース』189号の橘高修さん(東京古田会・事務局長、日野市)の論稿「古田武彦の『八面大王論』(幷私論)」に触発され、古代史に関わりそうな九州と信州の接点について、わたしが知るところの事物や研究テーマを紹介します。
 直近では、「洛中洛外日記」1720話(2018/08/12)「肥後と信州の共通遺伝性疾患分布」において、遺伝性の病気の集積地が熊本県と長野県に特異な分布を示していることを紹介しました。もちろん、その原因が古代にまで遡るのかは不明ですが、不思議な分布状況で注目しています。この病気のことは「洛中洛外日記」読者のSさん(長崎県在住の医師)からお知らせいただいたもので、それは家族性アミロイドポリニューロパチーという遺伝性の病気です。なぜか熊本県と長野県に大きな分布が見られ、その分布事実は両者に血縁的関係があることを示唆しているようなのです。
 次に、これはわたしが発見したのですが、熊本県天草市と長野県岡谷市に「十五社神社」という神社が濃密分布していることです。御祭神は異なるようですが、「十五社神社」という名称の一致が九州と信州の特定地域に濃密分布しているのは偶然とは考えにくいことです。
 更に、筑後一宮で有名な高良大社の御祭神「高良玉垂命」を祀る「高良神社」が信州に濃密分布していることが従来から指摘され、その調査が信州の古田学派の研究者により精力的に進められています。近年では、信州以外(淡路島・他)にも「高良神社」の分布が発見されており、今後の研究の進展が期待されます。
 また、古代系図として有名な「異本阿蘇氏系図」中に信州の有力者である「金刺氏系図」が繋がっていることも知られています。これは両地域の関係が古代に遡ることを示す貴重な史料です。
 この他にも、信州に遺る「安曇(あずみ)」地名や「お船祭り」など北部九州の安曇族との関係を感じさせるものが散見されます。橘高さんが紹介された「八面大王」を「ヤメ大王」のこととし、九州王朝の筑紫君薩野馬や磐井のこととする仮説も提唱されており、検討が必要です。まさに多元史観・古田史学の出番と言えるのではないでしょうか。

「洛中洛外日記」の信州と九州関連記事タイトル】
 422話 2012/06/10 「十五社神社」と「十六天神社」
 483話 2012/10/16 岡谷市の「十五社神社」
 484話 2012/10/17 「十五社神社」の分布
1065話 2015/09/30 長野県内の「高良社」の考察
1240話 2016/07/31 長野県内の「高良社」の考察(2)
1246話 2016/08/05 長野県南部の{筑紫神社」
1248話 2016/08/08 信州と九州を繋ぐ「異本阿蘇氏系図」
1260話 2016/08/21 神稲(くましろ)と高良神社
1720話 2018/08/12 肥後と信州の共通遺伝性疾患分布


第2049話 2019/12/03

『東京古田会ニュース』189号の紹介

 『東京古田会ニュース』189号が届きました。今号には拙稿「即位礼正殿の儀の光景 -『黄櫨染御袍』考-」を掲載していただきました。本稿は、天皇しか着ることが許されていないという「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」の染色に使用された天然染料(櫨、蘇芳)とその染色技術(金属媒染)について考察したものです。国内に自生していない蘇芳の入手や九州王朝(倭国)海軍についても触れました。
 今号で改めて注目したのが橘高修さん(東京古田会・事務局長、日野市)の論稿「古田武彦の『八面大王論』(幷私論)」でした。信州に遺る古代伝承「八面大王」は九州王朝滅亡期に信州に逃げた筑紫君薩野馬のこととする古田説を解説し、『日本書紀』に見える「鼠」が登場する記事の分析から、この「鼠」とは九州王朝勢力のことであり、「八面大王」の勢力を現地史料では「鼠族」と呼ばれていることを古田説の傍証として紹介されました。
 橘高さんは、『日本書紀』に見える「鼠」を九州王朝のこととする論稿「鼠についての考察」を『東京古田会ニュース』152号(2013年9月)に発表されていたのですが、当時は「このような捉え方もあるのか」と思った程度で、わたしはあまり関心を払いませんでした。論証成立の当否も半信半疑だったと思います。ところが今回改めて拝読しますと、『日本書紀』の「鼠」記事全てとは言えないまでも、仮説としては成立するのではないかと考えるようになりました。
 橘高稿にもあげられていますが、『日本書紀』には、鼠が集団で移動すると、それは遷都の兆しとする記事が散見されます。たとえば、大化元年(645)十二月条には鼠が難波に向かったことを難波遷都の兆しとする記事があり、「前期難波宮九州王朝複都」説に対応していそうです。天智五年(666)是冬条には、京都の鼠が近江に移るという記事があり、これも「九州王朝の近江遷都」説に対応していると捉えることもできます。このように、十数年来、わたしが提起してきた仮説と橘高説は対応していることに、遅まきながら気づいた次第です。なお、橘高さんによる八面大王伝承の紹介論稿「安曇野に伝わる八面大王説話」が『倭国古伝』(古田史学の会編、明石書店)に収録されていますので、ぜひご参照下さい。


第2048話 2019/11/27

『古代に真実を求めて』23集巻頭言(草稿・前半)

 『古代に真実を求めて』二三集の「巻頭言草稿・前半」をご紹介します。これから推敲し、添削も受けますので、内容もまだまだ変化する可能性があります。読者の皆さんからのご意見やご助言もお受けします。

【巻頭言】(草稿・前半)
「古事記」「日本書紀」に息づく九州王朝
    古田史学の会 代表 古賀達也

 養老四年(七二〇)に『日本書紀』が編纂され、令和二年(二〇二〇)で千三百年を迎える。それに先立つ和銅五年(七一二)に成立した『古事記』とともに、わが国において『日本書紀』は最も多くの読者を得た歴史書と言ってもよいであろう。早くは大和朝廷が養老五年に「日本紀講筵(にほんぎこうえん)」と呼ばれる『日本書紀』の講義を催し、平安時代前期にはほぼ三十年毎に六度に及ぶ講義を行ったことが諸史料(『釈日本紀』『本朝書籍目録』)に見える。「日本紀私記」と呼ばれるその講義〝テキスト〟が四編ほど現存しており、その一端をうかがい知ることができる。
 他方、江戸時代後期に至り、本居宣長が名著『古事記伝』を著し、一躍『古事記』が脚光を浴び、『古事記』『日本書紀』は史書という史料性格を超えて、日本の国柄(国体)や日本人の思想(国学)を形作る原典とされるに至った。戦後の実証史学においても、『日本書紀』の基本的歴史観である近畿天皇家一元史観、すなわち神代の昔から近畿天皇家が日本列島で唯一の卓越した権力者であったとする歴史認識の大枠は揺らぐことはなかった。
 考古学においても、『日本書紀』の記述を根拠とした歴史編年を是として、出土土器などの相対編年をその暦年記事にリンクさせてきた。さらには、多くの文化・文物が大和朝廷で最も早く受容され、あるいは発生し、その後、日本列島各地に伝播したとする文化観・編年観が古代史学の主流を占めたのである。
 このように『古事記』『日本書紀』は編纂以来千三百年の永きにわたり、篤く遇されてきた。しかしその果てに形作られた古代史像は、古田武彦氏が提唱された多元史観・九州王朝説に立つ、わたしたち古田学派に見える景色とは大きく異なる。
 両書は、八世紀初頭(七〇一年)にそれまでの代表王朝であった九州王朝(倭国)に替わり、日本列島の第一権力者となった大和朝廷(日本国)による自らの正統性宣揚のための史書である以上、その主張の真偽は学問的検証の対象であること、論を待たない。ところが、この史料編纂の動機解明や記述内容そのもの全てをまずは疑うという学問的基本作業がこの千三百年間、必要にして充分に行われてきたとは言い難い。とりわけ、大和朝廷が自らと共通の祖先(天照大神ら)を持つ前王朝(九州王朝)の存在を隠しているという疑いなど全く抱くこともなく、わが国の古代史学は真面目かつ無邪気に『古事記』『日本書紀』の基本フレーム(近畿天皇家一元史観)を信じ、今日に至っているようである。
 古田武彦氏は『失われた九州王朝』(朝日新聞社刊、一九七三年。ミネルヴァ書房より復刻)において、近畿天皇家(大和朝廷)に先だって九州王朝が日本列島の代表王朝として存在し、中国史書に見える「倭国」とは大和朝廷のことではなく九州王朝のこととする多元的歴史観・九州王朝説を提唱された。たとえばその史料根拠として、『旧唐書』に別国表記された次の「倭国伝」(九州王朝)と「日本国伝」(大和朝廷)を提示された。

 「倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里。新羅東南の大海の中にあり。山島に依って居る。東西は五月行、南北は三月行。世、中国と通ず。その国、居るに城郭なく、木を以て柵を為(つく)り、草を以て屋を為(つく)る。四面に小島、五十余国あり、皆これに附属す。
 その王、姓は阿毎氏なり。一大率を置きて諸国を検察し、皆これに畏附す。(後略)」〔『旧唐書』倭国伝〕

 「日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。あるいはいう、倭国自らその名を雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。あるいはいう、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと。その人、入朝する者、多くは自ら矜大、実を以て対(こた)えず。故に中国これを疑う。またいう、その国の界、東西南北、各数千里あり、西界南界はみな大海に至り、東界北界は大山ありて限りをなし、山外は即ち毛人の国なりと。(中略)
 貞元二十年(八〇四)、使を遣わして来朝す。学生橘逸勢、学問僧空海を留む。(後略)」〔『旧唐書』日本国伝〕

 わたしたち古田学派の研究者はこの古田説に基づき、『古事記』『日本書紀』の中に九州王朝(倭国)の痕跡が残されているはずと考え、多元史観・九州王朝説の視点から両書の史料批判を進め、古代史像復元を試みてきた。その現在の到達点を書き留めたものが本書である。千三百年続いた近畿天皇家一元史観を超え、多元史観の頂上(いただき)から見える景色を読者と共有し、日本古代史の奥底(おうてい)を学問の光で照らしたいと願っている。
〔以下、執筆中〕


第2047話 2019/11/23

『古代に真実を求めて』23集の巻頭言執筆中

 来春発行予定の『古代に真実を求めて』23集の編集作業も最終段階を迎え、わたしも巻頭言を執筆中です。特集テーマは『日本書紀』編纂1300年を来年に控えて、『古事記』『日本書紀』に秘められた九州王朝(倭国)の痕跡を明らかにするというものです。多元史観・九州王朝説の視点から見える景色、両書の新たな姿を本書は明示することでしょう。
 掲載論文と構成、本のタイトルも最終案が服部静尚編集長から示され、編集委員の承認を得た後、服部さんと明石書店との交渉へと進みます。特集と一般投稿論文それぞれに論集初登場の執筆者があり、古田学派研究陣の層の厚さが着実に増していることがわかります。タイトルや構成などが正式決定されましたら、また報告します。ご期待下さい。


第2046話 2019/11/22

『令集解』儀制令・公文条の理解について(6)

 「庚午年籍」のような長期保管が必要な行政記録以外にも、後世に残すことを前提とした墓碑や墓誌銘にも九州年号の使用が許されていたのではないかとわたしは考えています。このことを示す史料を以下に紹介します。

○「白鳳壬申年(六七二)」骨蔵器(江戸時代に博多から出土。その後、紛失)
 『筑前国続風土記附録』に次のように紹介されています。
 「近年濡衣の塔の邊より石龕一箇掘出せり。白鳳壬申と云文字あり。龕中に骨あり。いかなる人を葬りしにや知れず。此石龕を當寺に蔵め置る由縁をつまびらかにせず。」(『筑前国続風土記附録』博多官内町海元寺)

○「大化五子年(六九九)」土器(骨蔵器、個人蔵)
 古賀達也「二つの試金石 九州年号金石文の再検討」(『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房。二〇一二年)を参照してください。

○「朱鳥三年(六八八)」鬼室集斯墓碑(滋賀県日野町鬼室集斯神社蔵)
 古賀達也「二つの試金石 九州年号金石文の再検討」(『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房。二〇一二年)を参照してください。

○法隆寺の釈迦三尊像光背銘の「法興元卅一年」もその類いでしょう。

 以上のように残された史料事実(木簡、詔報、墓碑等)から判断すれば、九州王朝律令には年号使用を定めた「儀制令」があり、その運用が「式」などで決められていたと思われるのです。(おわり)


第2045話 2019/11/21

『令集解』儀制令・公文条の理解について(5)

 木簡のように使用後の廃棄・再利用が想定されるものに〝王朝の象徴でもある崇高な年号〟を記すことを九州王朝は条令(式)などで禁止し、使用を許さなかったのではないかとわたしは考えていますが、同時に長期保管・永久保管が必要な文物などには九州年号使用を命じたり、使用を許していたと考えています。今回はこのことについて紹介します。
 九州王朝にも様々な行政文書・記録類があったはずです。特に戸籍や各種認証記録は長期保管が必要です。その最たるものが著名な「庚午年籍」(白鳳十年。670年、庚午の年に造られた戸籍)と呼ばれている基本戸籍です。九州王朝(倭国)の時代に造籍されたものですが、大和朝廷でも『大宝律令』などにより「永久保管」を各地の国司に命令しています。このような長期保管が必要な行政記録には九州年号が使用されたはずと、わたしは考えています。干支だけですと、60年ごとに同じ干支が巡ってきますから、60年以上の長期保管記録には干支だけではいつのことなのか不明となりますから、年号使用が不可欠と考えたのです。
 このことを支持する次の史料があります。『続日本紀』に見える九州年号記事として有名な聖武天皇の詔報です。

 「白鳳以来朱雀以前、年代玄遠にして尋問明め難し。亦所司の記注、多く粗略有り。一に見名を定めてよりて公験を給へ」(『続日本紀』神亀元年〈七二四〉十月条)

 これは治部省からの僧尼の名籍についての問い合わせに対する聖武天皇の返答です。九州年号の白鳳(六六一〜六八三年)から朱雀(六八四〜六八五年)の時代は昔のことであり、その記録には粗略があるので新たに公験を与えよという「詔報」です。すなわち、九州王朝時代の僧尼の名簿に九州年号の白鳳や朱雀が記されていたことが前提にあって成立する問答です。従って、九州王朝では僧尼の名簿などの公文書(公文)に九州年号が使用されていたことが推察できます。同様に「庚午年籍」にも造籍年次が「白鳳十庚午年」というような九州年号で記されていたのではないでしょうか。(つづく)


第2044話 2019/11/20

『令集解』儀制令・公文条の理解について(4)

下記の『令集解』「儀制令・公文条」の当該文章の解釈により、「年号使用を規定した条文がなかった」との理解も可能ですし、「年号という制度がなかった」という理解も成立するのですが、どちらの理解であっても、それは九世紀段階の『令集解』編者(惟宗直本)の解説(認識)というにとどまりますから、九州年号時代の歴史事実(九州王朝律令の条文)がどうであったのかは、別に論証が必要です。今回はこの問題を論じます。

○『令集解』「儀制令・公文条」(『国史大系 令集解』第三冊733頁)
 凡公文應記年者、皆用年號。
〔釋云、大寶慶雲之類、謂之年號。
古記云、用年號。謂大寶記而辛丑不注之類也。
穴云、用年號。謂云延暦是。
問。近江大津宮庚午年籍者、未知、依何法所云哉。
答。未制此文以前所云耳。〕

 残念ながら「九州王朝律令」やその条文などは現存しませんから、九州王朝が自らの年号の使用についてどのような態度であったのかは、現存史料の状況や内容から推定するほかありません。そこで、わたしは史料根拠に基づき、次のような仮説を発表してきました。
 七世紀の年次表記木簡は全て干支が使用されており、九州年号を記したものは〝皆無〟であることから、この史料情況を〝使い慣れた干支が偶然にも全ての木簡利用者に採用され、全国の誰一人として九州年号を木簡の年次表記に選ばなかった〟と理解するよりも、木簡のように使用後の廃棄・再利用が想定されるものに、〝王朝の象徴でもある崇高な年号〟を記すことを九州王朝は条令(式)などで禁止し、許さなかった結果と考える方が、より合理的な史料情況解釈ではないでしょうか。
 さらにその証拠として、難波宮出土「戊申年」(648年)木簡や、芦屋市三条九之坪遺跡出土の「元壬子年」(652年)木簡のように、その上部に「常色二戊申年」「白雉元壬子年」というように、九州年号(「常色」「白雉」)を記すスペースが十分あるにもかかわらず、あえて空白のままにされていることも、木簡への年号使用が禁止された、あるいは憚られたとするわたしの仮説を支持していると思われるのです。(つづく)


第2043話 2019/11/19

「新・八王子セミナー2019」の情景(4)

 今回の「古田武彦記念 古代史セミナー2019」では、わたしは私的な〝オプショナル・セミナー〟を行いました。せっかく交通費をかけて関東まで行くのですから、もう一泊して、セミナー終了後に八王子駅近くのお店で夕食を兼ねた交流会を企画することにしました。日頃、学問交流する機会がない関東の研究者のお話を聞いてみたいと願っていたからです。
 そこで、東京出張のとき、夕食をご一緒させていただくことがある宮崎宇史さん(多元的古代研究会・副会長)にこの企画を相談したところ賛成していただき、会話が散漫とならないよう人数を絞った方がよいとのご提案もいただきました。冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)にご紹介いただいた八王子駅前のお店の予約にあたり、個室使用は「7名以上10名以下」との制限がありましたので、総勢8名での夕食会となりました。
 荻上紘一先生(新・八王子セミナー実行委員長、大妻女子大学元学長)にもご参加いただくことができましたので、来年の新・八王子セミナーの企画案などについてお話をうかがうことができました。その他にも、古田史学を世に広めていく上での注意点など多くのご助言もいただき、とても有意義な夕食会となりました。
 わたしからは、古田先生とのプライベートな思い出話や、この「洛中洛外日記」の「古田史学の会」ホームページ掲載に至る手続きについてご披露させていただきました。あまり公にはしてきませんでしたが、「洛中洛外日記」は、わたしが執筆した後、二回にわたるチェック(一回目はお二人の方から内容と文法・誤字脱字のチェック。二回目は「古田史学の会」役員・編集部員14名の方から)を受けており、そこで修正意見が出されれば修正し、掲載すべきではないとするご意見が一人でも出されれば「没」にすることなどを説明したところ、皆さん驚いておられました。ちなみに、「洛中洛外日記」は今回で2043話になりますが、今まで二回「没」になったことがあります。
 こうして夕食会は夜遅くまで続きました。ご参加いただいた皆様に改めて御礼申し上げます。来年の「古田武彦記念 古代史セミナー2020」も楽しみです。また〝オプショナル・セミナー〟を企画できればと思います。


第2042話 2019/11/18

「古代大和史研究会」講演会が奈良新聞に掲載

 奈良新聞本社(奈良市法華寺町)で開催された「古代大和史研究会」(原幸子代表)主催古代史講演会(11/5)の様子が奈良新聞(11/16)に写真付きで掲載されました。記事の最後には講演者のお一人、正木裕さん(古田史学の会・事務局長、大阪府立大学講師)の発言が次のように紹介されていました。

 ○…正木さんは「日本書紀に書かれている神話は一定の史実を反映している」とし「天武・持統紀は一番あやしい」と指摘。「古代史を勉強するうえでは、文献研究だけではだめ。科学を動員し考古学を動員し、日本だけではなく、グローバルな視点で大きく見ていく必要がある」と説いた。

 なお、同講演会のテーマと講師は次の通り。主催者と講師の皆様、お疲れ様でした。
◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表)
 11/05 10:00〜17:00 会場:奈良新聞本社西館
    10:00〜11:30 「万葉集Ⅱ〜白村江の戦い(前編)」講師:正木 裕さん。
    11:30〜12:30 《昼食休憩》
    12:30〜14:00 「万葉集Ⅱ〜白村江の戦い(後編)」講師:正木 裕さん。
    14:00〜14:15 「日本古代史報道の問題とマスコミの体質」講師:茂山憲史さん。
    14:30〜15:30 「孔子と弟子の倭人たち」講師:青木英利さん。
    15:30〜16:30 「物部戦争と捕鳥部萬」講師:服部静尚さん。
    16:30〜17:00 パネルディスカッション「史実伝承の断絶」座長:茂山。パネラー:青木・正木・服部。