第2010話 2019/10/10

九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(5)

 正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の見解をうかがったところ、『隋書』に見える「流求國」や台湾を〝「南」の大国〟としてはどうかというものでした。東の「蝦夷国」・北の「粛慎国」・西の「唐」のように、『日本書紀』に記載されている大国という点にわたしはこだわったのですが、七世紀(656年)に成立した九州王朝と同時代史料である『隋書』を史料根拠とすることは、学問的に見ても穏当ではあります。しかし、わたしは「流求國」や台湾よりももっと南方の国ではないかという思いがあり、正木さんとの質疑応答は続きました。
 九州王朝官道が東西南北の大国へ向かっており、そのことを意味する官道名になっているとの仮説に到達したとき、わたしの脳裏に浮かんだのが「七支刀を持つ御祭神」で有名なこうやの宮(福岡県みやま市)でした。小さな祠に祀られている木造の五体の御神像です。その中央の比較的大きめの主神(九州王朝の天子、玉垂命か)と東西南北の国からの使者と思われる御神像なのですが、この四体の御神像の国こそ、九州王朝官道が向かう四つの大国と対応しているのではないかと、わたしは考えました。
 古田説では七支刀を持つ人物が百済国(西)からの使者、鏡を持つ人物が近畿天皇家(東)からの使者、厚手のマントを着た人物が高句麗(北)からの使者、そして南洋の原住民のような上半身裸の人物は「南の国」からの使者とされています。わたしはこの上半身裸の人物像が「南」の大国の風俗を表現していると思っていましたので、沖縄や台湾よりももっと南方の、たとえばフィリピンやボルネオのほうがふさわしいのではないかと正木さんに反論し、正木さんに再検討と調査を要請しました。
 その日の夜、正木さんからメールが届き、人形の写真が添付されていました。台湾のアミ族(古代)の風俗を表したものとのことで、高野の宮に祀られている南国からの使者と同様に衣装を腰に巻き付けた姿や全体の雰囲気が似ています。そして、正木さんの結論は、「南海道」が目指す「南」の大国として、『隋書』に見える「流求國」(沖縄やトカラ列島・台湾を含めた領域)と考えてはどうかというものでした。送られてきた写真を見て、この正木さんの見解も有力と感じました。(つづく)


第2009話 2019/10/09

九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(4)

 九州王朝(倭国)官道名称の考察結果として、「東」の大国「蝦夷国」に向かう「東海道」「東山道」、「北」の大国「粛慎国」へ向かう「北海道」「北陸道」とする仮説を提起できました。次に、残された「西海道」と「南海道」についても考察を続けます。
 九州王朝から見て「西」の大国とは言うまでもなく「中国」でしょう。七世紀段階であれば、「隋」か「唐」としてよいと思います。しかし、「南」は難解です。「東」と「北」の国名を求めた方法論上の一貫性を重視すれば、「蝦夷国」「粛慎国」と同様に『日本書紀』に記された九州王朝との関係(交流・交戦記事など)が確認できる国を有力候補とすべきです。その意味でも、「西」の大国候補の「隋」「唐」は共に『日本書紀』に見える国なので、方法論上の一貫性というハードルをクリアしています。
 それでは『日本書紀』に記された「南」の大国候補はあるでしょうか。九州島よりも南方にあると思われる国として、『日本書紀』には次の名前が見えます。初出記事のみ記します。

○「掖久」(屋久島か)推古二四年条(616年)
○「吐火羅」(トカラ列島か。異説あり)孝徳紀白雉五年条(654年)
○「都貨邏」(トカラ列島か。異説あり)斉明三年条(657年)
○「多禰嶋」(種子島か)天武六年条(677年)
○「阿麻彌人」(奄美大島か)天武十一年条(682年)

 以上のような地名が散見するのですが、「蝦夷国」「粛慎国」「唐」と並ぶ「南」の大国とは言いがたく、いずれも比較的小さな島(領域)のようで、候補地と見なすのは難しいと思われます。『日本書紀』にこだわらなければ『隋書』に沖縄県に相当すると思われる「流求國」が見えますが、先に述べた方法論上の一貫性を保持できません。そこで、「よみがえる『倭京』大宰府 ―南方諸島の朝貢記録の証言―」(『発見された倭京』収録)などの『日本書紀』に見える「南島」に関する論文を発表されている正木裕さん(古田史学の会・事務局長)のご意見を仰ぐことにしました。(つづく)


第2008話 2019/10/08

九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(3)

 西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)が「五畿七道の謎」(『発見された倭京 ー太宰府都城と官道ー』収録。2018年)を執筆されたきっかけは、大和を起点とする古代官道「七道」の中になぜ「北海道」がないのかという疑問でした。その「解」を求めるために、太宰府を起点とした九州王朝(倭国)の官道という視点で検討した結果、太宰府→壱岐→対馬→朝鮮半島南岸という海北の道「北海道」を〝発見〟されたのでした(「五畿七道の謎」、『古田史学会報』131号、2015年12月)。
 この太宰府起点という仮説に基づいて、一元史観の通説では不明とされてきた『日本書紀』景行紀に見える「東山道十五國」の謎を解明されたのが山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)による秀逸の論文「『東山道十五國』の比定 ー西村論文『五畿七道の謎』の例証ー」(『発見された倭京 ー太宰府都城と官道ー』古田史学の会編・明石書店、2018年)であることは、何度も紹介してきたところです。
 「東海道」と「東山道」の最終目的地は共に「東」の蝦夷國とした仮説と同様に、「北海道」と「北陸道」が目指した終着点も同じ「北」国としたとき、太宰府から北西(朝鮮半島)に向かう「北海道」と東北へ向かう「北陸道」とは別方向に向かっているようで不自然と思ってきました。西村さんも「北海道」の到着点を朝鮮半島南岸の金海付近と捉えておられましたので、わたしもそのように理解していました。しかし、同じ「北」国へ向かう「道」とする視点を徹底しますと、その「北」国とは北方の大国「粛慎(しゅくしん・みしはせ)」(ロシア沿海州方面)ではないかと気づいたのです。
 『日本書紀』には斉明紀などに粛慎との交戦記事が見え、七世紀には九州王朝と粛慎は敵対関係にあったことがうかがえます。その粛慎は日本海を渡って越国(佐渡島)に侵入しており(欽明五年十二月条、544年)、九州王朝も水軍(阿部臣)で応戦しています(斉明六年三月条、660年)。従って、粛慎との戦闘地域(事実上の「国境」か)である越国(新潟県・秋田県)方面への進軍(陸軍)ルートとしての「北陸道」と、海上からの進軍(水軍)ルートとしての「北海道」が必要となります。そうしますと、「北海道」の終着点は朝鮮半島南岸ではなく、朝鮮半島東岸沿いに新羅・高句麗へと進み、更に終着点としての粛慎に至る「道」として「北海道」が設定されたと考えなければなりませんし、海流を考慮してもこのルートは可能なものです。
 以上のような論理展開(論証)により、「東」の大国「蝦夷国」と「北」の大国「粛慎国」へ向かう官道として「東海道」「東山道」と「北海道」「北陸道」が設定され、それぞれの方面軍と将軍(都督)たちが任命されたと考えることが可能となり、特に説明困難だった「北陸道」の名称と位置づけについてもリーズナブルな理解が可能となりました。そうしますと、論理は更に展開(論証の連鎖)し、残された「西海道」と「南海道」についても、それぞれが向かう終着点はどこなのかという問いが、避けがたく発生するのです。(つづく)


第2007話 2019/10/07

九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(2)

 古代の東北地方を代表する石碑として、多賀城碑(宮城県多賀城市)と日本中央碑(青森県東北町)は有名です。中でも多賀城碑には「天平寶字六年十二月一日」(762年)と造碑年が記されており、大和朝廷による蝦夷國征討に関わる石碑であることが推定されます。その碑文中に「東山道節度使」「按察使鎮守将軍」という官職名が見え、大和朝廷が東山道を北上して蝦夷征討将軍(大野朝臣東人、藤原恵美朝獦)を派遣したと思われます。

【多賀城碑碑文】
西

多賀城
 去京一千五百里
 去蝦夷國界一百廿里
 去常陸國界四百十二里
 去下野國界二百七十四里
 去靺鞨國界三千里
此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守將
軍從四位上勳四等大野朝臣東人之所置
也天平寶字六年歳次壬寅參議東海東山
節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守
將軍藤原惠美朝臣朝獦修造也
天平寶字六年十二月一日

 このことから、大和朝廷の時代ではありますが、「東山道」の最終目的地は蝦夷國だったのではないかと推定できます。なぜなら、蝦夷国内の官道は蝦夷国により造成され、命名されていたはずですから、大和朝廷あるいは九州王朝が自らの官道を「東山道」と命名できるのは蝦夷國の地までと考えざるを得ないからです。
 この理解からすれば「東海道」も同様で、海岸沿いや海上に造営・設定された「東海道」も、「東山道」と同方向の「東」を冠していることから、最終目的地は共に蝦夷國となります。すなわち、倭国(九州王朝)や日本国(大和朝廷)にとって、「東」に位置する大国(隣国)である蝦夷國へ向かう官道として「東山道」「東海道」が造営され、それぞれの方面軍司令官として「都督」「節度使」「按察使鎮守将軍」が任命されたのではないでしょうか。
 以上の理解を更に敷衍すると、本シリーズのテーマである「北海道」や「北陸道」も同様に「北」に位置する大国への「道」と考えなければなりません。その「北」の大国とはいずれの国でしょうか。(つづく)


第2006話 2019/10/06

九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(1)

 「洛中洛外日記」2002話(2019/09/28)〝九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(6)〟で、山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)の「『東山道十五國』の比定 ー西村論文『五畿七道の謎』の例証ー」(『発見された倭京 ー太宰府都城と官道ー』古田史学の会編・明石書店、2018年)を紹介したところ、わたしのFACEBOOKに読者のKさんから意表を突いたコメント(質問)が寄せられました。そして、その質問から〝古代官道〟について、想像もしなかった壮大な仮説が生まれたのです。
 多元史観(古田史学)に基づく九州王朝(倭国)の古代官道に関する画期をなした研究(問題提起)として、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の論稿「五畿七道の謎」(『発見された倭京 ー太宰府都城と官道ー』収録)があります。その西村説によれば、九州王朝の「北陸道」を今の「山陰道+北陸道」のこととされ、同じく「北海道」を太宰府を起点とした壱岐・対馬から朝鮮半島に向かう海上の道とされました。わたしもこの西村説を支持しており、そのことを示す地図をFACEBOOKで紹介したのですが、それを読まれたKさんから、太宰府から東に向かって伸びている道を「北陸道」とすることに対して疑問が寄せられたのです。
 確かにこの疑問には一理あります。日本列島は太宰府から東北方向に伸びており、それに沿って「東海道」「東山道」があります。それらと並行して山陰地方を東に向かう「道」を「北陸道」とするのはいかにも不自然です。「東海道」「東山道」と同じように「東○道」と命名してほしいところです。しかし、「海」と「山」以外の適切な名称(字)が思い当たりません。この「山陰道+北陸道」の「道」の名称が「北陸道」でなければ、九州王朝は何と呼んでいたのだろうかと、この数日間、考え続けてきました。そのようなとき、わたしの脳裏に浮かんだのが多賀城碑の碑文でした。(つづく)


第2005話 2019/10/04

九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(8)

 『倭国古伝』の出版記念東京講演会で参加者からいただいたご質問により、「都督」と「評督」の関係について、諸史料に基づき、どのような論理性が存在するのか考察を進めてきました。まだ〝正解〟には至っていませんし、新たな史料が見つかるかもしれませんが、とりあえず中間「回答」として、到達した認識をまとめてみます。

①七世紀後半の「評制」期間の九州王朝(倭国)に「都督」がいたとする史料痕跡には、『日本書紀』景行紀「東山道十五國都督」(年代が異なる)、天智紀「筑紫都督府」(唐が置いたとする見解もある)と『二中歴』「都督歴」(「大宰帥」を唐風に「都督」と後代に表記したとする見解あり)がある。
②しかしながら、いずれの史料理解にも異論が存在し、現時点の研究情況では確かな史料根拠とまでは断定できない。
③また、当時の九州王朝の行政単位は、九州王朝(倭王)・方面軍管区(総領)・各国(国司・国造)・各評(評督)と思われ、倭王から任命された「都督」がいたとしても、それは中央政府としての「筑紫都督」、あるいは方面軍管区の「都督」(「東山道都督」)という位置づけであり、いずれのケースも「評督」の〝直属の上位職〟とは言いがたい。

 およそ、以上ような解説を講演会ではしなければならなかったのですが、とてもそのような説明時間はありませんでした。「洛中洛外日記」での本シリーズをもって、とりあえずの回答とさせていただきます。ご質問していただいた方や参加された皆様に感謝いたします。

《追記とお詫び》
 本テーマの(6)で提起した、『日本書紀』景行五五年条の「彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。」を根拠として、「都督」に任命されたのは「筑紫都督」(蘇我臣日向)・「東山道都督」(彦狭嶋王)だけではなく、他の「東海道都督」や「北陸道都督」らも同時期に任命されたのではないかとする作業仮説について、山田春廣さんが『発見された倭京 -太宰府都城と官道』のコラム⑥「東山道都督は軍事機関」において既に発表されていました。この先行説の存在を失念していました。申し訳ありませんでした。


第2004話 2019/10/03

『東京古田会ニュース』188号の紹介

『東京古田会ニュース』188号が届きました。今号も力作揃いでした。拙稿「山城(京都市)の古代寺院と九州王朝」も掲載していただきました。今まで古田史学・多元史観の研究者からはほとんど取り上げられることがなかった京都市域の七世紀の寺院遺跡を紹介し、それらと九州王朝との関係性についての可能性を論じたものです。京都市は近畿天皇家の千年の都・平安京の地ですから、そこが九州王朝と関係があったとは思いもしませんでした。本格的な調査研究はこれからですが、新たな多元的「山城国」研究の展開が期待されます。
 今号で最も注目した論稿は安彦克己さんの「『ダークミステリー』は放送法四条に違反する」でした。今年6月13日、NHKより放送された『ダークミステリー 隠された謎』において、『東日流外三郡誌』などの「和田家文書」を偽作として解説し、それを古田先生が真作として支持したことを揶揄するという、悪質な番組編成を安彦さんは批判されました。そしてそれは放送の中立性と公平性を定めた放送法四条に違反していると指弾されました。まことにもっともなご意見です。
 近年のテレビ報道番組などの中立性・公平性について問題が少なくないことは各方面から指摘されているところで、今回の安彦さんの論稿はこうした現代メディア批判でもあり、貴重な意見表明です。なお、同番組のことは、9月16日に開催した『倭国古伝』出版記念東京講演会の懇親会で安彦さんから教えていただいたもので、それまでわたしは知りませんでした。なぜ古田武彦攻撃のような番組がこの時期に放送されたのか、気になるところです。「和田家文書」の史料価値をどのようにして社会に訴えていくべきか、よく考える必要があるように思いました。


第2003話 2019/09/29

九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(7)

 『日本書紀』景行五五年条の「彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。」を根拠として、おそらく「都督」に任命されたのは「筑紫都督」(蘇我臣日向)・「東山道都督」(彦狭嶋王)だけではなく、他の「東海道都督」や「北陸道都督」らも同時期に任命されたのではないかとする作業仮説(思いつき)についても、それが妥当か否か、「古田史学の会」関西例会で研究者のご意見を聞いてみました。
 そうしたところ、茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部員)から、『日本書紀』に見える「四道将軍」が「都督」ではないかとするご指摘をいただきました。そこで更にわたしが「将軍と都督を同じとしても問題ありませんか」とたずねると、中国史書には「将軍」と「都督」が同じ人物とする例があるとの返答でした。確かに『宋書』倭伝にも倭の五王の称号として、倭王武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王」としており、その称号中に「都督」と「将軍」があります。
 茂山さんが指摘された『日本書紀』崇神十年九月条に見える、いわゆる「四道将軍」(大彦命・武渟川別・吉備津彦・丹波道主命)を「四道」(「北陸」「東海」「西道」「丹波」)に派遣する記事は、景行紀の「東山道十五國都督」の先例かもしれません。しかし、この記事の実年代は4世紀頃とされていますから、倭国が中国南朝の冊封を受けていた時代です。当時は倭王自身が中国の天子の下の「都督」「将軍」と思われますから、日本列島内征討軍のトップが倭王と同列の「都督」の称号を持つことは考えにくいと思われます。
 とは言え、この記事のように「道」毎に「方面軍」を派遣し、支配領域を拡大するという戦略は倭国の伝統的な方法ではないでしょうか。茂山さんのご指摘により、こうしたテーマへの認識を深めることができました。(つづく)


第2002話 2019/09/28

九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(6)

 九州王朝(倭国)の「都督」を論じる際、必ず触れなければならない出色の論文があります。山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)の「『東山道十五國』の比定 ー西村論文『五畿七道の謎』の例証ー」(『発見された倭京 ー太宰府都城と官道ー』古田史学の会編・明石書店、2018年)です。
 この山田論文はそれまで不明とされてきた『日本書紀』景行五五年条に見える、「彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。」の「東山道十五國」が九州王朝の都太宰府を起点とした国数であるという、目の覚めるような論証に成功されました。その上で、この「東山道十五國の都督」任命記事について、「倭王が『天子』となり、『朝庭』を開いた時代において、信頼する有力な者を『東山道の周辺諸国』を監察する『都督』(軍を自由に動かすことができる官職)に任命した」と解されました。この指摘は九州王朝の全国支配体制を考察する上で、貴重な仮説と思われます。
 山田論文にある「倭王が『天子』となり、『朝庭』を開いた時代」こそ、日本列島初の朝堂院様式の宮殿(朝庭)を持つ前期難波宮創建(652年、九州年号の白雉元年)の頃に対応するものと思われます。すなわち、7世紀中頃の評制施行時期に「東山道十五國都督」が任命されたのではないでしょうか。この点、もう少し丁寧に論じます。それは次のようです。

①山田論文によれば、景行紀の「東山道十五國」という表記は太宰府を起点とした国数であることから、それは九州王朝系史料に基づいている。
②そうであれば、彦狭嶋王を「東山道十五國の都督」に任じたのも九州王朝と考えざるを得ない。
③従って、「都督」という官職名も九州王朝系史料に基づいたことになる。
④中国南朝の冊封を受けていた時代は、九州王朝の倭王自身が「都督」であるから、その倭王が部下を「都督」に任じたということは、中国南朝の冊封から外れた6世紀以降の記事と見なさざるを得ない。
⑤『二中歴』「都督歴」によれば最初の「都督」に蘇我臣日向が任じられた年を「孝徳天皇大化五年(649)」としていることから、彦狭嶋王の「東山道十五國の都督」任命もこの頃以降となる。

 およそ、このような論理構造(論証)によれば、景行紀の「都督任命」記事は、本来は7世紀中頃のこととすべきではないでしょうか。この理解が正しければ、おそらく「都督」に任命されたのは「筑紫都督」(蘇我臣日向)・「東山道都督」(彦狭嶋王)だけではなく、他の「東海道都督」や「北陸道都督」らも同時期に任命されたのではないかと想像されます。しかしながら、彦狭嶋王の年代はもっと古いとする研究(藤井政昭「関東の日本武命」、『倭国古伝』古田史学の会編・明石書店、2019年)もあり、この点、引き続き検討が必要です。(つづく)


第2001話 2019/09/27

九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(5)

 『二中歴』「都督歴」に見える記事「孝徳天皇大化五年(649)」を根拠に、九州王朝が評制施行と同時期に筑紫の「都督」も任命したと理解してよいのか、それとも本来は「太宰帥」とあった官職名を「都督歴」成立時に唐風に「都督」と記したと理解するのかで、7世紀後半の「評制」期において、「都督」を「評督」の上位職としてよいのかどうかが決まります。そこでこのテーマに関して、9月21日の「古田史学の会」関西例会で正木裕さん(古田史学の会・事務局長)のご意見を聞いてみました。
 正木さんのご意見は、筑紫小郡の「飛鳥」にいた九州王朝の天子が太宰府に「都督」を置いたというものでした。これは九州王朝の天子の臣下としての「都督」です。
 この見解に立ったとき、更に問題となるのが、この筑紫の「都督」を「評督」の直属の上司とできるのかということです。行政区画としての「評」の上には「国」があり、行政単位としての「国」が機能していたとすれば、そのトップとして「国司」「国造」の存在もあったわけですから、その場合、「評督」の直属の上位職は「国司」あるいは「国造」となります。これは7世紀後半における九州王朝(倭国)の統治形式やそれを定めた「九州王朝律令」に関わる重要な研究テーマです。
 そうなりますと、九州王朝における「都督」の性格に関する考察が必要です。このことについても、わたしには思い当たることがあり、「古田史学の会」関西例会に参加されていた研究者にご意見を聞いてみました。(つづく)


第2000話 2019/09/26

九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(4)

 『二中歴』「都督歴」冒頭の次の記事を根拠に、わたしは「評督」の上位職として、筑紫に「都督」もいたという可能性について考えて続けてきました。

 「今案ずるに、孝徳天皇大化五年三月、帥蘇我臣日向、筑紫本宮に任じ、これより以降大弐国風に至る。藤原元名以前は総じて百四人なり。具(つぶさ)には之を記さず。(以下略)」(古賀訳)『二中歴』「都督歴」

 もしこの「都督歴」の記事が歴史事実であれば、「孝徳天皇大化五年(649)」に筑紫に「都督」がいたことになり、同時にその居所の「筑紫本宮」が筑紫の「都督府」と考えざるを得ません。そうすると『日本書紀』天智6年条(667)に見える「筑紫都督府」は、「評督」の上位職である「都督」がいた九州王朝による「筑紫都督府」と理解することが可能となります。
 この天智紀の「筑紫都督府」を巡っては、古田学派内でも九州王朝の「都督府」とする説と、白村江戦後に唐が倭国に置いた「都督府」とする説があり、今日まで論争が続いてきました。古田先生も両説の間を揺れ動かれたことがあるほどの難問ですので、用心深く検討を続けます。(つづく)


第1999話 2019/09/25

九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(3)

 『倭国古伝』出版記念東京講演会で、会場の参加者からいただいた二つ目の質問「都督は評督の上位職位か」について、わたしは用語としての「評督」の淵源として「都督」があり、両者の関係は認められるが、職掌としては「都督」は「評督」の上位職ではないと返答しました。
 このときのわたしの認識は、『宋書』などに見える倭王が「都督」と名乗っているのは、中国南朝の冊封を受けた九州王朝(倭国)の時代のことであり、評制が施行された7世紀中頃は中国南朝は滅んでおり、九州王朝(倭国)の天子は「都督」を名乗っていないと考えていました。九州王朝の天子(倭王)が各地の「評督」を任命したわけですから、この時代では「都督」が「評督」の上位職ではありえないとしたわけです。
 しかし、この考えは本当に正しいのだろうかと、講演会以後、わたしはずっと気になっていました。というのも、『二中歴』所収「都督歴」冒頭の次の記事が脳裏に浮かんでいたからです。

 「今案ずるに、孝徳天皇大化五年三月、帥蘇我臣日向、筑紫本宮に任じ、これより以降大弐国風に至る。藤原元名以前は総じて百四人なり。具(つぶさ)には之を記さず。(以下略)」(古賀訳)『二中歴』「都督歴」

 この記事については、「洛中洛外日記」655話(2014/02/02)〝『二中歴』の「都督」〟777話(2014/08/31)〝大宰帥蘇我臣日向〟1579話(2018/01/18)〝「都督歴」と評制開始時期〟で論じていますのでご参照いただきたいのですが、この「都督歴」の記事が歴史事実であれば、「孝徳天皇大化五年(649年)」に初めて蘇我臣日向が「筑紫本宮」の「都督」に任じられたわけですから、ちょうどこの時期に施行された「評制」と対応しています。そうすると、全国各地の「評督」の上位職として「筑紫本宮」の「都督」も存在していたことになります。もちろんこの場合の「都督」は九州王朝の天子の臣下としての「都督」です。
 通説ではこの「都督」とは「太宰帥」の唐風の呼び方であり、実際に7世紀中頃に「都督府」や「都督」が筑紫に実在していたとはされていません。しかし、この通説の理解が正しいとは考えにくいため、やはり7世紀中頃に任命された各地の「評督」の上位職として筑紫の「都督」がいたと考えるべきではないかと、わたしの認識は揺れ動いていたのです。(つづく)