第2216話 2020/08/28

文武天皇「即位宣命」の考察(1)

 このところ、アマビエ伝承や滋賀県の「聖徳太子」伝承など、最近、注目されているテーマを集中して取り上げましたが、それらの考察も一段落しましたので、今回から新たに文献史学のベーシックなテーマを論じます。それは『続日本紀』冒頭に見える文武天皇の「即位の宣命」です。
 古田説では、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交替は701年(大宝元年)に起こったとされています。従って、近畿天皇家はそれまでは九州王朝の有力臣下であり、列島内ナンバーツーの実力者です。その近畿天皇家が「天皇」号を名乗ったのは、初期の古田説(古田旧説)では七世紀初頭の推古の時代からとされていましたが、晩年の古田新説では王朝交替した701年からと変更されました。この点について、わたしは古田旧説を支持していますが、古田新説を支持する意見もあることから、検証や論争が続くことと思います。このように異なる意見が自由に出され、真摯な論争が行われることは学問の発展にとって不可欠であると、わたしは考えています。
 今回のテーマ〝文武天皇「即位宣命」の考察〟は、この新旧の古田説の検証にも関係し、王朝交替時の実態に迫る上でも重要なテーマです。古代史学界でもこれまで多くの論文が発表され、論争が続いていますが、わたしは多元史観・九州王朝説の視点から考察することにします。しばらく、お付き合い下さい。
 参考までに同宣命の訳文を掲載します。(つづく)

[文武天皇位に即きたまふ時の宣命]
 (『続日本紀』巻第一、文武天皇)

 元年(六九七)八月甲子朔禅を受けて位に即きたまふ。
 庚辰(十七日)詔して曰はく、(以下、即位の宣命)

 現御神と大八島国知(しろ)しめす天皇が大命らまと詔(の)りたまふ大命を、集侍(うごな)はれる皇子等・王等・百官人等、天下の公民、諸(もろもろ)聞(きこ)し食(め)さへと詔る。

 高天原に事始めて、遠天皇祖の御世、中今に至るまでに、天皇が御子のあれ坐(ま)さむ彌(いや)継々(つぎつぎ)に、大八島国知らさむ次と、天つ神の御子ながらも、天に坐す神の依(よさ)し奉りしままに、この天津日嗣高御座(あまつひつぎたかみくら)の業(わざ)と、現御神と大八島国知らしめす倭根子天皇命の、授け賜ひ負(おは)せ賜ふ貴き高き広き厚き大命を受け賜り恐(かしこ)み坐して、この食国(おすくに)天下を調(ととの)へ賜ひ平(たひら)げ賜ひ、天下の公民を恵(うつくし)び賜ひ撫で賜はむとなも、神ながら思しめさくと詔りたまふ天皇が大命を、諸聞こし食さへと詔る。

 是を以ちて、天皇が朝廷の敷き賜ひ行ひ賜へる百官人等、四方の食国を治め奉れと任(ま)け賜へる国国の宰等に至るまでに、国法を過ち犯す事なく、明(あか)き浄き直き誠の心にて、御称称(みはかりはか)りて緩(ゆる)び怠る事なく、務め結(しま)りて仕(つか)へ奉れと詔りたまふ大命を、諸聞こし食さへと詔る。

 故(かれ)、如此(かく)の状(さま)を聞きたまへ悟りて、款(いそ)しく仕へ奉らむ人は、その仕へ奉らむ状の随(まま)に、品品(しなしな)讃(ほ)め賜ひ上げ賜ひ治め賜はむ物そと詔りたまふ天皇が大命を、諸聞し食さへと詔る。
 ※岩波文庫『続日本紀宣命』等による。


第2215話 2020/08/27

アマビエ伝承と九州王朝(4)

 アマビエ伝承において、アマヒコが「肥後国の海」に現れるということに、わたしは思い当たることがありました。九州王朝(倭国)の天子や王の存在や事績が後に「アマの長者」伝説として伝わる際、「アマ」には「天」や「尼」の字が使われるのですが、肥後国の「アマの長者」伝説にはなぜか「蜑」という珍しい字が使われているのです(注①)。
 肥後の国府(熊本市)に「アマの長者」がいたという伝承が史料中に見え、それには「蜑(アマ)の長者」と記されており(注②)、この「蜑」という字の意味は海洋民、すなわち「海人」のことだそうです。アマヒコが「肥後国の海」から現れると伝えられていることと、肥後の「アマの長者」は「蜑」という海に関係する珍しい字が採用されていることとが両伝承の結束点です。
 なお、「蜑の長者」の娘が菊池の米原(よなばる)長者に嫁入りしたという伝承もあり(注③)、たくさんの贈り物を米原長者に送るため、肥後国府(熊本市)から鞠智城までの道路「車路(くるまじ)」を「蜑の長者」が造営したとされています。
 今回の〝アマビエ伝承と九州王朝〟では、同伝承の主役「アマヒコ」が九州王朝の天子、あるいは王族に由来するという作業仮説(思いつき)に基づき、両者の共通点を傍証として取り上げました。しかしながら、アマビエ伝承そのものが肥後地方に遺っていないという弱点を持つため、残念ながら作業仮説の域を出ていません。引き続き、調査検証を進めていきます。新たな発見や論証の進展が見られましたら報告します。(おわり)

(注)
①web辞書によれば、「蜑」の音読みは「タン」、訓読みは「あま」の他に「えびす」もあり、九州王朝の天子や王(アマの長者)にふさわしい漢字とは思われない。
②古賀達也「洛中洛外日記」950話(2015/05/12)〝肥後にもあった「アマ(蜑)の長者」伝説〟
③古賀達也「洛中洛外日記」949話(2015/05/11)〝「肥後の翁」の現地伝承〟


第2214話 2020/08/26

アマビエ伝承と九州王朝(3)

 アマビエ伝承における「アマヒコ」という本来の名前と、出現地が「肥後の海」という点にわたしは着目しました。特に「アマヒコ」という名前は示唆的です。というのも、九州王朝の天子の名前として有名な、『隋書』に記された「阿毎多利思北孤」(『北史』では「阿毎多利思比孤」)は、アメ(アマ)のタリシホ(ヒ)コと訓まれています。このことから、九州王朝の天子の姓は「アメ」あるいは「アマ」であり、地方伝承には「アマの長者」の名前で語られるケースがあります。たとえば筑後地方(旧・浮羽郡)の「天(あま)の長者」伝承(「尼の長者」とする史料もあります)などは有名です(注①)。
 また、「ヒコ」は古代の人名にもよく見られる呼称で、「彦」「毘古」「日子」などの漢字が当てられることが多く、『北史』では「比孤」の字が用いられています。ですから、「アマビエ」の本来の名前とされる「アマヒ(ビ)コ」は九州王朝の天子、あるいは王族の名前と考えても問題ありません。
 もしかすると、阿毎多利思北(比)孤の名前が千年にも及ぶ伝承過程で、「阿毎・比孤」(アマヒコ)と略されたのかもしれません。というのも、『隋書』には阿蘇山の噴火の様子が記されており(注②)、九州王朝の天子と阿蘇山(肥後国)との強い関係が想定され、アマビエ伝承の舞台が肥後国であることとも対応しています。この名前(アマ・ヒコ)と地域(肥後)の一致は、偶然とは考えにくいのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「天の長者伝説と狂心の渠(みぞ)」(『古田史学会報』四十号、二〇〇〇年十月)
②「有阿蘇山其石無故火起接天」『隋書』俀国伝
 〔訳〕阿蘇山有り。其の石、故(ゆえ)無くして火を起こし、天に接す。


第2213話 2020/08/25

アマビエ伝承と九州王朝(2)

 流行病を防ぐというアマビエ伝承に、わたしが関心を持ったのは九州王朝史研究において古代の感染症(天然痘など)記事が見出されたことによります。たとえば、九州年号史料に「老人死す」という記事が見え、それがどのような事件を意味するのか不明だったのですが、新型コロナウィルスによる高齢者の死亡や重症化が多いことから、同記事は感染症発生の痕跡ではないかと考えました。

①『二中歴』「年代歴」
 「蔵和」(559~563年)「此年老人死」

②『田代之宝光寺古年代記』
 「戊刀兄弟 天下芒鐃ト言 健軍社作始也 老人皆死去云々」
 ※「戊刀」は「戊寅」(558年)のこと。

 ①『二中歴』の九州年号「蔵和」の細注に「此年老人死」とあります。しかし、「此年」が「蔵和」年間(559~563年)のどの年のことか不明ですし、「老人」は特定の人物なのか、老人一般のことなのかもこの記事からはわかりません 。
 他方、②『田代之宝光寺古年代記』には九州年号「兄弟」(558年)の年の記事中に「老人皆死去」があり、「皆」とありますから、「老人」は特定の人物ではなく、やはり新型コロナの様な伝染病が発生し、「老人が皆死去した」と理解するのが穏当のように思われます。
 更にこの記事の前半部分「天下芒鐃ト言 健軍社作始也」は熊本市の健軍神社創建記事であることから、この「老人皆死去」という記事の場所も肥後地方のことと考えるべきでしょう。ちなみに、「田代之宝光寺」は鹿児島県肝属郡田代村にあったお寺のようですから、『田代之宝光寺古年代記』に記された同記事の舞台は肥後地方とする理解が支持されています。
 この記事以外にも、九州年号「金光」(570~575年)のときにも天下に熱病が流行ったため、仏像(善光寺如来)が百済から贈られてきたり、厄除けのために九州王朝で四寅剣(福岡市元岡遺跡出土)が作刀されたことが、正木裕さんの研究により明らかとなっています(注)。
 この肥後国を舞台とした健軍神社創建や流行病発生の記憶が、今回のアマビコ(アマビエ)伝承の淵源にあるのではないかと、わたしは考えたのです。(つづく)

(注)
 正木 裕「福岡市元岡古墳出土太刀の銘文について」(『古田史学会報』一〇七号、二〇一一年十二月)
 古賀達也「『大歳庚寅』象嵌鉄刀の考察」(同上)
 古賀達也「金光元年(五七〇)の『天下熱病』」(「洛中洛外日記」八四八話 二〇一五年一月三日)
 正木 裕「『壹』から始める古田史学・二十三 磐井没後の九州王朝3」(『古田史学会報』一五七号、二〇二〇年四月)
 古賀達也「古代日本の感染症対策 ―九州王朝と大和朝廷―」(『東京古田会ニュース』一九三号、二〇二〇年七月)


第2212話 2020/08/24

アマビエ伝承と九州王朝(1)

 コロナ禍の中、流行病を防ぐという言い伝えを持つアマビエと呼ばれる妖怪が注目されています。その姿が江戸時代の瓦版などに画かれており、web上ではおおよそ次の様な説明がなされています。

①アマビエは元々は三本足の猿のような妖怪「アマヒ(ビ)コ」だったと考えられている。両者の名前の違いは、描き写す際に「書き誤った」か、瓦版として売る際にあえて「書き換えた」とみられる。
 ※誤写例(案):「アマヒ(ビ)コ」→「アマヒユ」→「アマヒ(ビ)エ」

②瓦版などの記述によれば、アマビエは、肥後国の海辺で役人の柴田忠太郎が遭遇した際、「今年から六年の間は諸国豊作だが、病多き事なり」と予言した。さらに「私の姿を早く写して人に見せるならばはやり病にはかからない」と告げて海中に消えた。

③アマビコの出たとされている海の多くは肥後国の海であったとされるが、それにつづく郡名は架空(真字郡、真寺郡、青沼郡など)であることも多く、その地域内の具体的にどこの海であったかが細かく語られることは無い。

④海彦(越後国)、尼彦入道(日向国)などの例も見られる。天日子尊(『東京日々新聞』)は越後国の湯沢近辺の田んぼから現われたと語られている。

⑤柴田という武士が正体を探りに出向くと、姿を現わし、自分はアマビコというものであると語る。柴田五郎左衛門、柴田五郎右衛門など、アマビコに遭遇したとされる人物が文中に登場する場合、ほとんどは熊本の「しばた」という名の武士であると書かれている。

 おおよそ、以上の様に解説されています。この中でわたしが着目したのが、「アマヒコ」という名前と、出現地が「肥後の海」であるという点でした。(つづく)


第2211話 2020/08/23

『古代に真実を求めて』24集の特集決定

 本日、『古代に真実を求めて』24集の編集会議を大阪で行い、特集テーマと採用稿などについて検討しました。古田先生の『「邪馬台国」はなかった』発刊50周年記念を特集することとし、特集論文・コラムや一般論文などの採否検討を行いました。
 タイトルは服部静尚編集長提案の『俾弥呼と邪馬壹国 ―古田武彦『「邪馬台国」はなかった』発刊50周年記念―』が採用されました。コンセプトには〝『「邪馬台国」はなかった』を読んだことのない一般読者でもわかる〟を採用し、特集論文はよりわかりやすく書いてもらい、コラムは面白く興味を持ってもらえるテーマや古田説解説とすることにしました。概論と次の項目別に進展を見せた研究論文を掲載します。

(1)里程論・短里説
(2)二倍年暦
(3)倭国の文化・文物論
(4)邪馬壹国の考古学
(5)倭人は太平洋を渡った

 引き続き、論文内容の審査とリライトの要請などを行っていきます。以上、取り急ぎ報告いたします。


第2110話 2020/08/22

旧石器捏造事件の想い出

 本日、「古田史学の会」関西例会が開催されました。司会の西村秀己さん(全国世話人、高松市)が所用で参加されなかったので、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)に司会進行を担当していただきました。わたしはご町内(上京区梶井町)の地蔵盆のため、1時間ほど遅刻しましたので、服部さんの発表を聞けませんでした。そこで、お昼の休憩時間に概要を教えていただきました。
 今回の発表では、大原さん(『古代に真実を求めて』編集部)による、旧石器捏造事件の解説は特に印象的でした。当時、特定人物による旧石器の発見が続出したことを疑問視する考古学者は少なくなかったのですが、学界の「権威」に対して沈黙したこと、事件には「共犯者」がいたとする見解などが紹介されました。そして、「事件を風化させない継続的な働きかけや考古学への外部チェックのような存在として古田史学はその役割を発揮しなければならないのではないか」と締めくくられました。
 旧石器捏造事件が発覚する前に、古田先生はその捏造の当事者に会われたことがあるとお聞きしました。その後、「古田史学の会・仙台」がその人物に講演をお願いしたところ、急に態度がよそよそしくなり、交流が途絶えたとのことです。そしてその直後に捏造事件が明るみになったことなど、わたしは大原さんの発表を聞いていて思い出しました。
 正木さんからは『隋書』や『日本書紀』に見える、中国(隋・唐)と日本(九州王朝・近畿天皇家)との国書や交流記事についての古田先生の説が初期の頃と晩年とでどのように変化したのかについて解説され、それぞれの問題点とその解決案についての発表がありました。かなり重要で複雑な論証を含む内容ですので、別の機会に改めて論じたいと思います。
 今回の例会発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔8月度関西例会の内容〕
①秦韓慕韓問題(八尾市・服部静尚)
②倭地周旋と邪馬台国論(姫路市・野田利郎)
③風化させてはならない旧石器捏造事件(大山崎町・大原重雄)
④欽明天皇の存在にまつわる不可思議(茨木市・満田正賢)
⑤「驛」記事の検証(東大阪市・萩野秀公)
⑥『書紀』の「小野妹子の遣唐使」記事とは何か(川西市・正木 裕)

◆「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費1,000円(「三密」の回避に大部屋使用のため)
 09/19(土) 10:00~17:00 会場:ドーンセンター
 10/17(土) 10:00~17:00 会場:ドーンセンター
 11/21(土) 10:00~17:00 会場:福島区民センター(※参加費500円)

《各講演会・研究会のご案内》
◆「市民古代史の会・京都」講演会 会場:キャンパスプラザ京都
 09/15(火) 18:30~20:00 「万葉の色と染」 講師:古賀達也
 10/20(火) 18:30~20:00 「能楽の中の古代史」 講師:正木 裕さん

◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 参加費500円
 09/29(火) 10:00~12:00 会場:奈良県立図書情報館
    「多利思北孤の時代② 仏教を梃とした全国統治」 講師:正木 裕さん
 10/27(火) 10:00~12:00 会場:奈良新聞社西館3階
    「多利思北孤の時代③ 「聖徳太子」の「遣隋使」はなかった」 講師:正木 裕さん

◆「古代史講演会in八尾」 会場:八尾市文化会館プリズムホール
 09/12(土) 14:00~16:00 ①「九州王朝」と「倭国年号」の世界 ②「盗まれた天皇陵」 講師:服部静尚さん
 10/03(土) 14:00~16:00 ①「古代瓦と飛鳥寺院」 ②「法隆寺の釈迦三尊像と薬師像」 講師:服部静尚さん
 11/03(火・祝) 14:00~16:00 ①「大化の改新」と難波京 ②「条坊都市はなぜ造られたのか」 講師:服部静尚さん

◆「和泉史談会」講演会 会場:和泉市コミュニティーセンター

全て順延したので削除

 

《古田武彦記念古代史セミナー2020》(八王子セミナー)
 11/14~15 大学セミナーハウス(東京都八王子市)
 新型コロナ対策として、Zoomを使ったオンライン+現地参加の「ハイブリッド方式」での開催となりました。オンライン参加6,000円、現地参加15,000円。


第2209話 2020/08/21

高良玉垂命と甲良町と高良健吾さん

 前話に続き、滋賀県と九州王朝関係の話題をもう一つ紹介します。飛鳥時代の絵画が発見された西明寺がある滋賀県甲良町が、筑後の高良大社(祭神は高良玉垂命)と関係があることは、「洛中洛外日記」147話(2007/10/09)〝甲良神社と林俊彦さん〟で既に指摘した通りです。御祭神の高良玉垂命が五世紀頃の九州王朝の王(倭の五王)であったとする研究もわたしは発表しています(注①)。
 そのご子孫が筑後地方に現在も続いていることが判明しています。稲員(いなかず)、鏡山、神代(くましろ)、隈(くま、大善寺玉垂宮神官の家系)と名乗られている一族です。ところが、地元(高良山の近傍)にはそのものずばりの「高良」というお名前をわたしは聞いたことがありませんでした。
 他方、NHK大河ドラマ「花燃ゆ」で高杉晋作役をされた人気俳優の高良健吾さんは、そのお名前から九州王朝と縁(ゆかり)のある方ではないかと思っていたところ、2016年の熊本大地震で、故郷の熊本にボランティアで救援活動に行かれたとの報道に接し、やはり九州のご出身であったのかと納得したものです。ですから、何らかの事情で「高良玉垂命」の御子孫は、地元では「高良」を名乗らず、他県で「高良」を名乗られたことになるわけです。
 似たような例で、わたしのご先祖は星野を名乗っていたのですが、豊臣秀吉の九州征伐(侵略)のとき、抵抗した星野宗家は滅び、新潟県小千谷市まで逃げ延びた者は当地で星野を名乗り続けました。九州に残った者は名前を変えて潜伏したようです。わたしのご先祖は、星野から佐藤に姓を変えて加藤清正公に仕え、その後、筑後の浮羽郡古賀に土着したことから古賀姓になったと伝えられています。
 このような例があることから、高良健吾さんのご先祖も九州王朝滅亡時に肥後に逃れ、高良を名乗られたのではないかと想像していました。
 その後、「高良」性は鹿児島県に多く分布していることが、久留米市在住の歴史研究者、犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員)から教えていただきました。下記の通りで、「高良」さんが久留米市におられることもわかりました。薩摩地方に「高良」姓が多いことは、九州王朝滅亡時に薩摩まで落ち延びた九州王朝王族(筑紫君薩野馬か。鹿児島県大宮姫伝説に関する正木裕さんの優れた研究があります。注②)と関係するのではないでしょうか。犬塚さんの調査結果と説明文を抜粋して転載します。

(注)
①古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 玉垂命と九州王朝の都」『新・古代学』第四集(新泉社。1999年)
②正木裕「大宮姫と倭姫王・薩末比売」『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』(古田史学の会編、明石書店。2019年)

【姓名検索サイトでの調査報告・犬塚幹夫さん】(2016年)
全国計  1,420人
 このうち10人以上いる都道府県(単位:人)
埼玉県    10
東京都 27
神奈川県   25
静岡県 16
愛知県 11
大阪府 42
兵庫県 13
広島県 11
山口県 12
福岡県 115
熊本県 11
鹿児島県 54
沖縄県 1,004

 このうち断トツに多い沖縄県は、現那覇市の高良(たから)という地名を名乗ることになった一族とされており、九州王朝とは関係ないと思われます。
 福岡県、熊本県、鹿児島県の内訳は次のとおりです。

福岡県   115
 久留米市   38
 朝倉市    34
 福岡市    13
 北九州市    7
 大刀洗町    5
古賀市      3
 飯塚市     3
 その他    12

熊本県    11
 熊本市     3
 山鹿市     3
 荒尾市     2
 玉名市     1
 合志市     1
 南関町     1

鹿児島県   54
 南九州市   19
 鹿児島市   15
 南さつま市   6
 薩摩川内市    4
 曽於市      3
 指宿市      2
その他 5

 各県の傾向について言えば、まず福岡県は、県内の大都市圏である福岡市と北九州市を除けば久留米市と朝倉市に集中し、熊本県は福岡県に近い県北地方に分布し、鹿児島県は薩摩地方がほとんどを占めており大隅地方や島部はごくわずかということが分かりました。非常に興味深い結果です。(転載、終わり)


第2208話 2020/08/20

野洲市出土「壬寅年」(702年)木簡の謎

 「洛中洛外日記」で連載した〝滋賀県湖東の「聖徳太子」伝承〟において、近江が九州王朝と関係が深そうであることを述べてきました。今回は追記として、滋賀県野洲市西河原宮ノ内遺跡から出土したちょっと珍しい干支木簡を紹介し、それについて感想を述べたいと思います。

 近江国野洲郡の役所と推定されている西河原宮ノ内遺跡から倉庫跡が出土しています。その倉庫を解体した際の柱の抜き取り穴に廃棄された木簡六点が見つかり、その内の三点には干支が記されていました。奈良文化財研究所の木簡データベースによれば、その干支木簡から次の文字が読み取られています。

【奈良文化財研究所木簡データベース】抜粋
①辛卯年十二月一日記宜都宜椋人□稲千三百五十三半記◇
(辛卯年)持統5年12月1日(691年)
②・庚子年十二□〔月ヵ〕□〈〉□〔記ヵ〕□千五〈〉◇・〈〉◇
(庚子年)文武4年12月(700年)
③・壬寅年正月廿五日/三寸造廣山○「三□」/勝鹿首大国○「□□〔八十ヵ〕」∥○◇・〈〉\○□田二百斤○□□○◇\〈〉
(壬寅年)大宝2年1月25日(702年)

 この中でわたしが注目したのが③「壬寅年」木簡です。紀年が記された荷札木簡の書式は、700年以前の九州王朝時代と、701年以後の大和朝廷時代とでは異なっています。前者の場合は、冒頭に干支と月日が記されていますが、後者は文章末に年号と月日が記されるのが通例です。その点、①「辛卯年」(691年)木簡と②「壬寅年」(700年)木簡はその通例に従った書式ですが、③「壬寅年」(702年)木簡は大和朝廷時代の木簡ですから、「壬寅年」ではなく、「大宝二年」となければなりません。しかも、文章冒頭部分に「壬寅年」とあり、この書式は九州王朝時代のままです。既に王朝交替がなされ、大宝年号が建元されて約一年が経過していますから、そのことを郡の役人が知らないはずがありません。
たとえば、藤原宮跡から出土した遠方の九州や関東からの荷札木簡でも「大宝元年」と書かれています。藤原京から比較的近い近江国野洲郡の役所であれば、当然大宝年号の存在や『大宝律令』による年号使用規定は知っていたはずです。王朝交替して一年近く経過しているにもかかわらず、九州王朝時代の書式で木簡に紀年を記載した理由は何でしょうか。

 ここからはわたしの想像です。七世紀の干支木簡の出土事実から、九州王朝は神聖な年号(九州年号)を使い捨ての木簡などに記すことを禁じていたのではないかとする仮説をわたしは発表しています。その仮説に基づけば、九州王朝と関係が深かった近江国では、王朝交替後も大和朝廷の年号を使用することをよしとせず、九州王朝時代の木簡書式を採用する人々がいたのではないでしょうか。そして、そのことが大和朝廷側に発覚したため、西河原宮ノ内遺跡の倉庫群は破壊され、「九州王朝書式木簡」はたたき割られて柱の抜き取り穴に廃棄されたのではないでしょうか。

 「壬寅年」(大宝二年)の三十年前(672年)に勃発した「壬申の大乱」により、近江国は主戦場となりました。そのとき多くの九州王朝系近江朝(正木裕説)の役人や兵士が戦没したり負傷したことと思います。そしてその子供たちの中には、野洲郡の役人になった者もいたことでしょう。恐らく、そうした人々が書いた干支木簡が「九州王朝書式木簡」だったのではないかとわたしは想像しています。


第2207話 2020/08/19

滋賀県湖東の「聖徳太子」伝承(5)

 滋賀県湖東の地誌『蒲生郡志』によれば、この地方には聖徳太子の建立とされる寺院が二十以上あり、「願成就寺」の項には全部で四十九寺建立し、当寺がその四十九番目に当たると記されています。このような、ある地域に「聖徳太子」伝承が濃密分布している場合、歴史研究の方法(手続き)として、少なくとも次の三点の可能性を想定しなければなりません。

①近畿天皇家の「聖徳太子(厩戸皇子)」による史実、あるいはその反映。
②九州王朝の天子、阿毎多利思北孤あるいはその太子の利歌彌多弗利の事績が、後世において近畿天皇家の「聖徳太子(厩戸皇子)」伝承に置き換えられた。
③地元の寺院などの「格」を上げるために造作された。

 滋賀県は九州から遠く離れた地であり、『日本書紀』にも記されていない湖東の伝承は③のケースではないかと、当初、わたしはとらえていましたが、本シリーズで紹介した近年の出土例や発見により、今では②の可能性が高いと考えています。他地域の「聖徳太子」伝承を学問的に研究するうえでも、湖東の事例は貴重です。そして、その研究方法や成果は七世紀初頭の九州王朝の実態解明に役立つはずです。


第2206話 2020/08/18

滋賀県湖東の「聖徳太子」伝承(4)

 本シリーズ〝滋賀県湖東の「聖徳太子」伝承〟では近江における九州王朝との関係を示唆する同時代の遺物・遺構を紹介してきました。今回は後代成立史料を根拠とする考察を紹介します。
 滋賀県湖東における九州王朝の影響について、「洛中洛外日記」809話(2014/10/25)〝湖国の『聖徳太子』伝説〟で触れたことがあります。湖東には聖徳太子の創建とするお寺が多いのですが、現在の研究状況、たとえば九州王朝による倭京二年(619)の難波天王寺創建(『二中歴』所収「年代歴」)や前期難波宮九州王朝複都説、白鳳元年(661)の近江遷都説、正木裕さんの九州王朝系近江朝説などの九州王朝史研究の進展により、湖東の「聖徳太子」伝承も九州王朝の天子・多利思北孤による「国分寺」創建という視点から再検討する必要があります。
 中でも注目されるのが、聖徳太子創建伝承を持つ石馬寺(いしばじ、東近江市)です。石馬寺には国指定重要文化財の仏像(平安時代)が何体も並び、山中のお寺にこれほどの仏像があるのは驚きです。同寺のパンフレットには推古二年(594)に聖徳太子が訪れて建立したとあります。この推古二年は九州年号の告貴元年に相当し、九州王朝の多利思北孤が各地に「国分寺」を造営した年です。このことを「洛中洛外日記」718話(2014/05/31)〝「告期の儀」と九州年号「告貴」〟に記しました。
 たとえば、九州年号(金光三年、勝照三年・四年、端政五年)を持つ『聖徳太子伝記』(文保2年〔1318〕頃成立)には、告貴元年甲寅(594)に相当する「聖徳太子23歳条」に「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺」(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)という記事がありますし、『日本書紀』の推古二年条の次の記事も九州王朝による「国分寺(国府寺)」建立詔の反映ではないでしょうか。

 「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。」『日本書紀』推古二年(594)条

 この告貴元年(594)の「国分寺」創建の一つの事例が石馬寺ではないかと考えています。本堂には「石馬寺」と書かれた扁額が保存されており、「傳聖徳太子筆」と説明されています。石馬寺には平安時代の仏像が現存していますから、この扁額が六世紀末頃のものである可能性もありそうです。炭素同位体年代測定により科学的に証明できれば、九州王朝の多利思北孤の命により建立された「国分寺」の一つとすることもできます。ただし、近江国府跡(大津市)と離れていることが難題です。


第2205話 2020/08/17

滋賀県湖東の「聖徳太子」伝承(3)

 前話〝滋賀県湖東の「聖徳太子」伝承(2)〟で紹介した近江における九州王朝との関係を示唆する遺物・遺構5件の外に、滋賀県大津市の崇福寺跡から出土した無文銀銭も九州王朝が発行した可能性があるとする論文をわたしは30年ほど前に発表したことがあります。「古代貨幣『無文銀銭』の謎」(『市民の古代研究』24号、1987年11月。市民の古代研究会編)という論文で、その根拠として次の点をあげました。

①江戸時代(宝暦年中)に摂津国天王寺村(現、大阪市天王寺区)から無文銀銭が72枚出土したとする記録(注1)があり、貨幣として流通していたと考えてもよい出土量である。
②崇福寺跡から出土した無文銀銭(12枚)の中に、「田」「中」の字のような刻印を持つものがあり、これは『大日本貨幣史』(大蔵省、明治九年発行)に掲載された無文銀銭の刻印に似ていることから、これらの無文銀銭が同一権力者により発行された可能性を示唆している。
③天平十九年に書かれた『大安寺伽藍縁起並流記資材帳』の銀銭の項に「八百八十六文之中九十二文古」とあり、この「古」とされた「九十二文」の銀銭とは無文銀銭のことと考えられる。

 以上の点を拙稿で指摘したのですが、発表当時は「富本」銅銭が飛鳥池遺跡から出土する前であり、富本銭が古代貨幣とは認識されていませんでした。ですから、③の「九十二文古」とされた銀銭は「富本」銀銭(未発見)の可能性もあると今は考えています。
 今回、わたしが改めて着目したのが無文銀銭の出土分布でした。京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館発行の「リーフレット京都 No.82(1995年10月) 発掘ニュース17 北白川の無文銀銭」によれば、「現在知られている無文銀銭の数は、出土品、収集品、拓本を含む文献資料などすべて合わせると約130枚を数え、このうちの25枚が現存している。」とあります。この現存する25枚と出土地が記録された大阪市天王寺区の72枚(※「リーフレット京都 No.82 発掘ニュース17 北白川の無文銀銭」は約100枚とする)の分布を見ると、下記の様に九州王朝の複都と考えている難波京と近江大津宮(注2)が分布の二大中心となります。こうしたことから、無文銀銭も九州王朝と滋賀県(近江国)との関係を示唆する遺物と見ても良いのではないでしょうか。

【無文銀銭出土地】
出土地 数(計25)
大阪府  1 +(※約100:摂津天王寺村から江戸時代に出土)
滋賀県 16  (内、12枚は崇福寺跡、1枚は大津市唐橋遺跡出土)
奈良県  6  (内、3枚は明日香村、1枚は藤原京出土)
京都府  1
三重県 1

 上記の内、京都府の1枚は京都市左京区北白川別当町の小倉町別当町遺跡からの出土(注3)で、同地は滋賀県大津市の近傍です。また、滋賀県からは、飛鳥時代の絵画が発見された西明寺がある甲良町(尼子西遺跡)から1枚、創建法隆寺(若草伽藍)と同范瓦が出土した蜂屋遺跡がある栗東市(狐塚遺跡)からも1枚出土していることが注目されます。

(注)
1.内田銀蔵著『日本経済史の研究・上』(1924年〔大正13年〕、同文館)による。
2.正木裕さんの「九州王朝系近江朝」説やわたしの「九州王朝近江遷都」説によれば、近江大津宮は「九州王朝(系)の王宮」ということになる。
3,「洛中洛外日記」1886話(2019/05/06)〝京都市域(北山背)の古代寺院(2)〟参照。