第2181話 2020/07/04

『多元』No.158のご紹介

 友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.158が届きました。同号には拙稿「多元的『蘇我氏』研究の予察 ―九州王朝の葛城臣と蘇我臣― 《補論》湯岡碑文の『我』と『聊』の論理」「《追記》『多元』一五七号の読後感」を掲載していただきました。
 拙稿では、九州王朝の有力臣下に「蘇我氏」と「葛城臣」が存在した史料痕跡を紹介し、『日本書紀』に両者の事績が多利思北孤の事績と共に転用されている可能性を指摘しました。そして、これからの古田学派における多元的「蘇我氏」研究の一つのアプローチを提起しました。


第2180話 2020/07/03

「倭」と「和」の音韻変化について(2)

 「倭」の字の音韻変化については一応の「解答」は出せたのですが、それではなぜ古くから使用された「和」の字に換わって「倭」が使用されたのかという新たな疑問がわたしの中で生まれました。その疑問解決の一助となったのが、森博達さんによる『日本書紀』研究でした。

 ご存じの方も多いと思いますが、森博達さんは、『日本書紀』は各巻ごとに正格漢文で書かれているα群と和風漢文で書かれているβ群とに分けることができ、前者は中国人史官により述作され、後者は日本人史官によって述作されたとする説を発表され、その研究は学界で高い評価を得ました。そして、一般読者向けに書かれた『日本書紀の謎を解く 述作者は誰か』(中公新書、1999年)は古代史ジャンルでのベストセラーとなりました。

 『日本書紀』雄略紀の歌謡から、「わ」表記に「倭」の字が使用され始めていることが気になり、森説のα群β群と照合したところ、歌謡に「倭」の字が採用されている巻(雄略紀、継体紀、皇極紀、斉明紀)は全てα群でした。他方、「和」の字が採用されている巻(神武紀、神功紀、応神紀、仁徳紀、允恭紀、推古紀、舒明紀)は何れもβ群に属しています。

森説では、α群の各巻は中国人史官が編纂したものであり、「α群の表記者は当時の北方音に全面的に依拠し、中国原音によって日本語の歌謡を音訳しました。」(『日本書紀の謎を解く』第二章第五節「α群歌謡中国人表記説」103頁)とされています。この「当時の北方音」とは長安を中心とする七世紀後半から八世紀初頭の唐代北方音のことです。

 『日本書紀』編纂に於いて、渡来唐人がα群を著述したとする森説に従えば、それまで「和」の字で「わ」表記されていた古代歌謡が唐代北方音で書き改められたこととなるのです。唐代北方音では「和」は「ka」「kwa」ですから、そのため「わ(和)れ」「わ(和)が」という従来表記では「かれ」「かが」のような発音になり、本来の意味とは異なってしまいます。そこで、唐代北方音では「わ」の音である「倭」の字に換えたものと思われます。すなわち、一部の例外を除きα群歌謡の「わ」の音が一斉に「和」から「倭」に置き換わっているのは、それまでの南朝系音(日本呉音)から唐代北方音(日本漢音)の採用による、「和」と「倭」の音韻変化の発生が理由であると考えられるのです。

 ちなみに、現代日本でも「和尚」の訓みに、「わじょう」「かしょう」「おしょう」があり、それぞれ「呉音」「漢音」「中世唐音(十二~十六世紀頃の南方杭州音)」と森さんは説明されています(『日本書紀の謎を解く』60~61頁)。

 この森説は先に詳述したわたしの推察結果と対応しており、拙論を支持する有力説と感じました。更に、拙論では不明とした古代歌謡の「わ」表記に「倭」が採用された時期は、『日本書紀』編纂時であることになります。以上のように、古代歌謡に痕跡を残す「倭」の音韻変化について、拙論(作業仮説・思いつき)は森説という強力な援軍を得て、学問的な仮説になったのではないでしょうか。


第2179話 2020/07/01

「倭」と「和」の音韻変化について(1)

 「洛中洛外日記」に連載中の「九州王朝の国号」について、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から、『日本書紀』歌謡における「倭」の音韻変化とその成立時期の理解についてご指摘が寄せられました。九州王朝の国号変化をテーマとする同シリーズの主旨や目的と離れますし、専門的になりすぎることもあって、この音韻変化の説明には深入りしなかったのですが、この機会にわたしの理解を詳述したいと思います。
 古代中国語音韻研究では、「倭」の字の発音が変化(音韻変化、音声変化)していることが知られています。音韻学上の正式な表現ではありませんが、「wi」「wei」から「wa」「wo」に変化したとされています。その影響や痕跡が『古事記』『日本書紀』に残されており、その時期は『日本書紀』成立以前、恐らくは六~世七紀頃ではないかと「九州王朝の国号(6)」で論じました。また、中国での音韻変化発生の理由として、南朝から北朝への権力交替が考えられ、南朝に臣従していた九州王朝の独立や北朝との交流により、その音韻変化の影響が日本にも及んだと推察しました。
 古代日本語で詠われた歌が一字一音の漢字で表記されている『記紀』歌謡の分析により、この音韻変化をとらえることが可能で、今回の拙論「九州王朝の国号」は次のような論理展開に基づいています。

①『古事記』に掲載された歌謡の、たとえば「われ」「わが」という言葉の「わ」の表記に使用されている漢字は「和」であり、その訓みは現代日本まで続いている。
②『日本書紀』も神武歌謡などでは「和」が使用されているが、雄略紀や継体紀などの歌謡では「倭」の字が使用されており、若干の例外を除き「和」は使用されなくなっている。
③この『日本書紀』の史料状況からも、「wi」と読まれていた「倭」の字が、『日本書紀』成立以前に「wa」へと音韻変化していることがわかる。
④『古事記』と『日本書紀』の「わ」表記の差から、『古事記』は「わ」の音に「和」の字を使用した古代歌謡史料を採用しており、『日本書紀』編者は何らかの理由で「和」と「倭」を併用したと考えざるを得ない。
⑤『古事記』と『日本書紀』の「わ」表記の漢字使用状況の差から、元々は、「わ」表記に「和」の字を使用した時間帯があり、その後、「倭」の音韻変化により、「わ」表記に「倭」の字も使用されるようになったと考えられる。
⑥『日本書紀』では神武歌謡などの古い時代の歌謡に「和」が使用され、そこでは「倭」との混用がされていないことも、「和」表記が先行し、その後、音韻変化した「倭」表記の採用が開始されたとする理解に有利である。
⑦付言すれば、『日本書紀』に記された歌謡がその天皇紀の時代のものかどうかは別途論証が必要だが、神武東征説話やそこでの歌謡が天孫降臨説話の転用であることがわかっており、神武の時代ではないものの、九州王朝内で伝承された天孫降臨時代の古い歌謡である。
⑧恐らく、九州王朝内で伝承・記録された古代歌謡には「和」が採用されており、『古事記』や神武紀などはその用法を引き継ぎ、他方、雄略紀・継体紀などの歌謡には音韻変化後の「倭」の字を採用したと考えることができる。
⑨ただし、「倭」の音韻変化の時期とそれを歌謡の「わ」表記に採用し始めた時期は未詳であり、とりあえずは「『日本書紀』成立以前」のこととし、可能性としては九州王朝が南朝から独立し、北朝(北魏、隋、唐など)と交流し始めた六~七世紀頃としておくのが学問的に慎重な姿勢である。

 以上のような考察の結果、「倭」の字の音韻変化と『記紀』歌謡への採用過程について、一応の「解答」は出せたのですが、森博達さんの『日本書紀』研究の成果を援用することにより、更に理解は進展しました。(つづく)


第2178話 2020/06/29

九州王朝の国号(7)

 「倭」から「委」に至る国号変更の過程(思考経緯)を推定しました。次に、『隋書』には九州王朝の国号が「委」ではなく、帝紀には「倭」、夷蛮伝には「俀国」とあることについて考察します。
 九州王朝の天子、多利思北孤は隋に国書を出しており、そこには自国の国名として「大委国」と記したと思われます。その史料根拠は先に紹介した『法華義疏』冒頭に見える「大委国」の表記です。すなわち、音韻変化に対応して自国の国号表記を「倭」から「委」に代えた九州王朝は、更に尊称の「大」の字を国号に冠したのです。その理由として考えられるのが、『隋書』俀国伝に見える次の記事です。

 「大業三年(607)、其王多利思北孤遣使朝貢使者曰、聞海西菩薩天子重與佛法故遣朝拜。兼沙門數十人來學佛法。其國書曰、日出處天子致書日没處天子無恙云云。(中略)
 其王與清相見大恱。曰、我聞海西有大隋禮義之國故遣朝貢我夷人僻在海隈不聞禮義。」『隋書』俀国伝

 九州王朝の天子(多利思北孤)が国書の中で、隋の天子(煬帝)を「日没處天子」と呼び、自らも「日出處天子」と対等の「天子」を称していることは有名です。更に多利思北孤が隋使(裴清)に対して、「大隋禮義之國」と述べていることも注目されます。隋のことを「大隋」と呼んでいることから、自らの国も「大委」と称して対等であると主張していたとしても不思議ではありません。隋の天子と対等な天子と自負していたのですから、むしろ当然のことではないでしょうか。
 このように『隋書』の史料事実から、多利思北孤の時代の九州王朝が自国の国号を「大委」としていたとする理解は、『法華義疏』の「大委国」とも対応しており、有力です。それではなぜ『隋書』にはこの「大委国」表記が採用されなかったのでしょうか。(つづく)


第2177話 2020/06/28

九州王朝の国号(6)

 『古事記』『日本書紀』の歌謡から、「倭」の字が「wi」から「wa」へ音韻変化していることや、『法華義疏』の文から九州王朝が自国の国号を「倭国」から「大委国」へと変更していたことを実証的に紹介しました。次に、なぜ音韻変化により九州王朝が国号表記を変更したのかについて論理的に考察(論証)します。
 最初に、「倭」の字の「wi」から「wa」への音韻変化がどこでどのような事情で発生したのかを考えてみます。同一言語を使用する同一文明圏内でも音韻変化が起こらないとは言えませんが、そうであってもそれはかなりの長期間の中で徐々に発生し、定着するのではないでしょうか。その点、中国は王朝交替を繰り返し、異民族支配により言語や音韻に変化が生じたことを疑えません。従って、「倭」の字の音韻変化は中国側で発生し、後に九州王朝もそれを受容したと考えるのが穏当です。
 こうした視点に立てば、中国内の南朝の滅亡と北朝の成立、そして南朝に臣従していた九州王朝の〝独立〟と北朝との交流開始(六世紀頃か)を背景として、まず中国で南朝系の「倭(wi)」の音韻が北朝系の「倭(wa)」に置き換わり、そのことに気づいた九州王朝が国号変更に至ったとわたしは推察しています。九州王朝の国号変更に至る過程は次のようなものではないでしょうか。

①九州王朝は建国以来、自国を「wi」と名乗っていた。
②中国の漢字文化を受け入れて、「wi」の音を持つ「委」の字を国号表記に採用した。あるいは、中国側がこの「委」の字を九州王朝の国号「wi」の表記に採用し、九州王朝もそれに従った。
③ところが中国で南朝が滅び北朝が成立すると、北朝の人々は九州王朝の国号「倭」を「wa」の音で呼ぶようになった。
④伝統ある自国の国号を「wi」とする九州王朝は、従来の「倭」表記では「wa」と北朝側に呼ばれることになり、そのことを是としなかった。
⑤そこで、「志賀島の金印」に使用されていた古い国号表記「委奴国」の「委」は北朝でも「wi」と発音されていることを知り、「倭」の字に代えて「委」を国号表記とした。

 国号変更に至る、以上のような過程(思考経緯)が、九州王朝内で起こったのではないかと、わたしは推定しています。(つづく)


第2176話 2020/06/27

九州王朝の国号(5)

 『法華義疏』冒頭の次の記事から、多利思北孤(上宮王)はそれまでの「倭国」ではなく、「大委国」の字を使用していたと考えられますが、その理由について思い当たる節があります。

 「此是大委国上宮王私集非海彼本」『法華義疏』(皇室御物)

 九州王朝内における国号表記の変更は、恐らく六世紀から七世紀にかけての「倭」の字の音韻変化が理由だったのではないでしょうか。文献史学において、「倭」の字が、「wi」から「wa」へ音韻変化していることが知られています。
 『古事記』『日本書紀』には漢字一字一音表記で歌謡が記されています。その為、「わ」の音にどの漢字が使用されているかで、当時の漢字の音韻復元が可能です。たとえば『古事記』ではほとんどが「和」の字が「わ」の表記に使用されていますが、『日本書紀』ではかなり様相が変わります。有名な神武歌謡などでは『古事記』と同じ「和」の字が使用されているのですが、雄略紀の歌謡から「倭」の字の使用が顕著になり、その傾向はその後の歌謡でも主流となります。
 このように古い時代の天皇紀には、「わ」の音韻表記に「和」が使用され、ある時期から「倭」が主流になるという『日本書紀』の史料事実から、本来は「wi」の音であった「倭」が、『日本書紀』成立以前の恐らくは六世紀から七世紀前半頃の間に、「wa」に音韻変化していることがわかるのです。
 こうした「倭」の字の音韻変化により、九州王朝は国号表記を「倭国」から「大委国」に変更したと、わたしは考えています。(つづく)


第2175話 2020/06/25

九州王朝の国号(4)

 『三国志』以降の歴代中国史書には九州王朝の国号を「倭」「倭国」と表記されるのが通例でした。次に国内成立の史料を紹介します。まず重要な史料として、『法華義疏』(本文の成立年代は不明)冒頭にある六世紀末から七世紀初頭の記載と思われる次の記事です。

 「此是大委国上宮王私集非海彼本」『法華義疏』(皇室御物)

 この『法華義疏』は上宮王が集めたものとの説明がなされており、古田先生はこの「大委国上宮王」を九州王朝の天子、多利思北孤のこととされました。ここで注目されるのが「大委国」と記された九州王朝の国号です。人偏が無い「委」の字が用いられていることは重要です。「大」は国名に付された尊称と思われますが、「倭」ではなく、「委」が使用されていることは、九州王朝内の上宮王に関わる記事だけに注目されます。
 この『法華義疏』の「大委国」の国号について、古田先生と検討したことがありました。なぜ多利思北孤(上宮王)はそれまでの「倭国」ではなく、「大委国」を使用したのだろうか。もしかしたら「委奴国王」とある「志賀島の金印」を多利思北孤は見ており、人偏がない「委」の字を国号表記に使用されていたことを知っていたのではないかと述べたところ、古田先生は「志賀島の金印で押印された印影が九州王朝内に残されていたのかもしれない」と言われました。たしかにそのケースならあり得るかもしれないと思いました。
 それではなぜ多利思北孤らの時代に「倭国」から「大委国」としたのでしょうか。(つづく)


第2174話 2020/06/24

九州王朝の国号(3)

 「倭」「倭国」の国号表記は、『三国志』以降『旧唐書』までの歴代中国史書にも受け継がれます。岩波文庫『魏志倭人伝』の解説によれば、次の通りです。

 書名   編者(生没年、編纂王朝) 九州王朝の国号
『後漢書』 范曄(398-445、南朝宋)  倭
『三国志』 陳寿(233-297、西晋)   倭
『晋書』  房玄齢(578-648、唐)   倭
『宋書』  沈約(441-513、南朝梁)  倭
『南斉書』 蕭子顕(489-537、南朝梁) 倭
『梁書』  姚思廉(?-637、唐)    倭
『南史』  李延寿(?、唐)      倭
『北史』  李延寿(?、唐)      俀
『隋書』  魏徴(580-643、唐)    俀・倭
『旧唐書』 劉呴(887-946、五代晋)  倭

 以上のように、歴代中国正史の成立年代時の九州王朝の国号は、『三国志』以来『旧唐書』成立の十世紀まで「倭」とされており、例外的に『北史』『隋書』の夷蛮伝に「俀」表記が見られます。この「俀」表記を巡って古田学派内では永く論争が続いています。
 ちなみに、古田説では夷蛮伝に見える「俀」を九州王朝、帝紀に見える「倭」を近畿天皇家のこととされています。他方、近年の古田学派内では、『隋書』の「俀」も「倭」も共に九州王朝のこととする説が多く発表されています。(つづく)


第2173話 2020/06/23

九州王朝の国号(2)

 一世紀の金石文「志賀島の金印」に次いで古い同時代史料による九州王朝の国号は、有名な『三国志』倭人伝に見える「倭」「倭国」です。倭人伝には次の表記が有り、三世紀頃には人偏の「倭」の字が国号表記に使用されていたと判断できます。なお、当時の「倭」の発音は「わ」ではなく、金印の「委奴国」の「委」と同じ「ゐ(wi)」と考えられています。

 「景初二年六月。倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。太守劉夏遣吏、將送詣京都。其年十二月詔書報倭女王、曰制詔親魏倭王卑彌呼。帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利、奉汝所獻男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢獻。是汝之忠孝、我甚哀汝。今以汝爲親魏倭王、假金印紫綬。」(『三国志』魏志倭人伝)

 景初二(238)年六月に魏の明帝に謁見した倭国の使者に対して、同年十二月に明帝は「詔」を下し、その中で卑弥呼を「親魏倭王」と為して「金印紫綬」を授けたとあります。このように『三国志』では一貫して人偏の「倭」を国号に使用しています。
 『三国志』の著者は陳寿(233-297年)で、成立は西晋の時代三世紀末頃(280年以降)とされています。西晋は魏の禅譲を受けた王朝であり、『三国志』は魏王朝を継承した西晋内において成立した同時代史料です。従って、その倭人伝に記された明帝の「詔」に見える「親魏倭王」という表記は当時の九州王朝の国号が「倭」「倭国」であったことを示す有力な史料根拠なのです。この国号「倭」「倭国」は、後の史書にも受け継がれており、遅くとも三世紀からは人偏の「倭」が九州王朝の国号表記として中国から認知されていたと思われます。
 なお、国号を「委」から「倭」の字に変更したのは九州王朝側なのか中国側(魏王朝)なのか、そしてその理由は何なのかという興味深いテーマもありますが、本稿では立ち入りません。(つづく)


第2172話 2020/06/22

九州王朝の国号(1)

6月の関西例会で論議になったテーマに九州王朝の国号や『隋書』での表記問題がありました。これらの問題の論点整理とこれまでの研究到達点を紹介することにします。
 九州王朝の国号を論じる上で重要なことは、その根拠が同時代史料に基づいていることです。歴代中国史書や海外史料の場合はその同時代性が、『古事記』『日本書紀』などの大和朝廷による国内史料の場合は史料性格への配慮が不可欠です。こうした視点を明示しながら、私見を述べていきます。
 九州王朝の国号を示す最古の同時代史料は「志賀島の金印」です。同印には「漢委奴国王」とあり、日本列島の代表国名は「委奴国」です。この場合、人偏がついた「倭奴国」ではないことに留意が必要です。後漢の光武帝による金印授与のことを記した『後漢書』には「倭奴国」とありますが、『後漢書』の成立はずっと後代の五世紀であることから、同時代(一世紀)金石文の金印に印された「委奴国」が当時の国名表記とする理解が優先します。五世紀時点では人偏の「倭」の文字が国号として使用されていたため、「倭奴国」と『後漢書』には記されたと思われます。
 また、後漢時代における「委奴」の発音には諸説ありますが、わたしは「ゐの(wino)」とするのが最有力と考えています。ちなみに、通説の「漢のわのなの国王」などと訓めないことは『失われた九州王朝』で古田先生が指摘された通りです。(つづく)


第2171話 2020/06/21

『古代に真実を求めて』24集の特集決定

 昨日の関西例会終了後、服部編集長はじめ編集部員の方と『古代に真実を求めて』24集(2021年春発行)の特集を何にするのかについて意見交換を行いました。8月に編集会議を開催しますが、服部編集長から提案されている〝『「邪馬台国」はなかった』発刊50周年記念〟を特集テーマにすることで参加者の意見がまとまりました。
 50年前、古田武彦古代史の処女著作『「邪馬台国」はなかった』が学界や古代史ファンに与えた衝撃ははかりしれません。朝日新聞社から出版された同書は版を重ね、まさに洛陽の紙価を高からしめた名著です。古田ファンはもとより、わたしたち古田学派の研究者は、同書を読んで古田史学の下に結集したと言っても過言ではありません。
 『古代に真実を求めて』24集は同書刊行50周年を記念し、これからの50年を展望できるような特集を組みたいと願っています。同書に関することであれば、研究論文にかかわらず採用検討対象となります。歴史を繋ぐ一冊の上梓にご協力をお願いし、会員の皆様の投稿をお待ちしています。投稿規定は『古代に真実を求めて』末尾の「募集要項」をご参照下さい。


第2170話 2020/06/20

「倭」の名を悪(にく)んだ王朝

 本日、四ヶ月ぶりに「古田史学の会」関西例会が開催されました。司会の西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)はコロナ禍の影響により参加できないとのことで、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が進行を担当されました。皆さんの元気なお顔を久しぶりに拝見でき、とても嬉しく思いました。インターネットやFACEBOOKを見て初参加された方も数名おられ、論議も活発になされました。なお、7月もドーンセンターで開催します。
 今回も意表を突いた仮説や半信半疑の面白い仮説、なかなか決着がつかない論議など、今まで以上に関西例会らしい学問的刺激に満ちた例会となりました。中でも「なるほど」と思ったのが、『新唐書』の記事にある「咸亨元年(670)―倭の名を悪(にく)み更め日本と号」した国は大和朝廷ではないという服部さんの指摘でした。大和朝廷は自らの都をおいた本拠地(奈良県)の地名「やまと」に「倭」「大倭」の字を当てており、天武や持統らは「倭」の字を忌避していないとされたのです。言われてみれば「目から鱗」の指摘でした。その上で、咸亨元年(670)に国号を日本に変更したのは近江朝にいた九州王朝の天子とそれを補佐する天智とされました。
 服部説の登場により、七世紀後半の倭国内の権力状況がいかなるものであったのか、諸仮説が少しずつ同方向に収斂しているように感じました。
 今回の例会発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔6月度関西例会の内容〕
①天武天皇は筑紫都督倭王だった(八尾市・服部静尚)
②半熟卵と半殺し(大山崎町・大原重雄)
③宇佐八幡宮をめぐる諸問題について(茨木市・満田正賢)
④「女王国より以北」の論理(姫路市・野田利郎)
王の都の位置の諸問題(神戸市・谷本 茂)
⑥『隋書』国伝を考える(その4)(京都市・岡下英男)
⑦九州王朝と大和政権の関係について(たつの市・日野智貴)
⑧九州王朝説と乙巳の変(川西市・正木 裕)
⑨北魏孝文帝も「周制(短尺系)に復帰」した(川西市・正木 裕)

◆「古田史学の会」関西例会(第三土曜日開催) 参加費500円
 07/18 10:00~17:00 会場:ドーンセンター

《各講演会・研究会のご案内》

◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 参加費500円
 06/23(火) 10:00~12:00 (会場:奈良県立図書情報館)
    「古代の疫病と九州王朝の対外戦争」 講師:正木 裕さん。
 07/28(火) 13:00~17:00 (会場:奈良県立図書情報館)
    「聖徳太子(多利思北孤)と九州王朝①」 講師:正木 裕さん。
 08/18(火) 13:00~17:00 (会場:奈良県立図書情報館)
    日本書紀完成1300年記念講演会
    「『日本書紀』に息づく九州王朝」講師:古賀達也
    「箸墓古墳の本当の姿」講師:大原重雄さん
    「吉野行幸の謎を解く」講師:満田正賢さん
    「壬申の乱の八つの謎」講師:服部静尚さん
    「『海幸・山幸神話』と『隼人』の反乱」講師:正木 裕さん
 09/29(火) 13:00~17:00 (会場:奈良県立図書情報館)
    「聖徳太子(多利思北孤)と九州王朝②」 講師:正木 裕さん。

◆「古代史講演会in八尾」(会場:八尾市文化会館プリズムホール 近鉄八尾駅から徒歩5分) 参加費500円
 09/12(土) 14:00~16:30  ①「九州王朝」と「倭国年号」の世界 ②「盗まれた天皇陵」 講師:服部静尚さん。