第2029話 2019/10/31

多層石塔(臼杵市・満月寺石塔)の年代観(5)

 本シリーズ冒頭で、ご町内の北村美術館庭園(四君子苑)で多くの石造物(五輪塔・多層石塔・石仏など)を拝観させていただいたことを紹介しましたが、そのとき、わたしが最も関心を払ったのが古そうな三重石塔の年代でした。というのも、満月寺五重石塔の年代検討のため、わたしは日本各地の鎌倉時代の多層石塔をインターネットで調査し、その様式による年代観を勉強していたからです。ですから、その年代観がどの程度のものか、北村美術館の石塔で確かめたいと考えたわけです。その結果、その三重石塔は鎌倉時代のものと判断し、美術館の方に確認したところ、ほぼ当たっていました(鎌倉前期頃とのこと)。
 わたしがインターネットで調査した多層石塔は次のものでした(ネットで写真を見ることができます。付されていた解説も一部転載しました)。こうした同時代の他の多層石塔の様式からも、満月寺五重石塔の造立年代を鎌倉時代後期の「正和四年乙卯」(1315)とすることは極めて妥当との結論に至りました。と同時に、九州年号「正和四年」(529)とするのは困難というのが学問的判断と思われます。(おわり)

【以下、転載】
http://www5e.biglobe.ne.jp/~truffe/to-kanto.html
石塔(層塔・宝塔・宝篋印塔・五輪塔)
(1)東日本(関東以北)の石塔巡拝

○元箱根賽の河原層塔(神奈川県箱根町元箱根)
 初層軸部(塔身)は、四方に輪郭をとり、二字づつの梵字を刻んである。写真の塔身左側から四仏の不空成就(アク)と釈迦(バク)、正面は観音(サ)と四仏の阿弥陀(キリーク)と続き、さらに左回りで、地蔵(カー)と四仏の宝生(タラーク)、四仏の阿しゅく(ウーン)と薬師(バイ)がセットになって彫られているのである。金剛界四仏だけでは事足らず、信仰の対象として馴染み深い釈迦、観音、地蔵、薬師という仏たちまで彫り込んだ意欲には脱帽であろう。
 基礎正面の中央輪郭部に、正和三年(1314)という鎌倉後期の年号が彫られているそうである。残欠塔とはいえ、関東には鎌倉時代の在銘層塔は数基しかなく、まことに貴重な存在なのである。

○城願寺五重塔(神奈川県湯河原町)
 塔身(初重軸部)は、周辺に関東様式ともいえる輪郭を巻き、金剛界四仏の梵字を彫り込んでいる。写真に写っているのは、アク(不空成就)である。やや力の無い書体である。
 各層の屋根は、軒裏に垂木型が刻んであり荘重なシルエットを創出している。軒の反りは鎌倉風の剛健な様式で美しい。相輪の存在が記された本があったが、現在は失われてしまったようだ。塔身に嘉元二年(1304)という、貴重な鎌倉後期の年号が刻まれているのである。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~truffe/to-chugoku.html
石塔紀行(層塔・宝塔・宝篋印塔・五輪塔)
(10)中国・四国・九州(大分以外)の石塔巡拝

○薬師寺七重塔(広島県尾道市因島原ノ町)
 正和四年(1315)鎌倉後期に建てられた石塔で、全体にほぼ完存する秀麗な遺構と言えるだろう。
 基礎には輪郭を巻いた中に格狭間を彫り、塔身には金剛界四仏の種子が刻まれている。梵字の彫りは、この時代にしては華奢で、同じ鎌倉後期でも次掲の光明院塔に比べると、鎌倉の豪快さはかなり失われてしまっているようだ。
 それでも、笠や相輪の優美さは見事で、軒の反りや厚さには鎌倉後期の特徴を十分に見ることが出来る。屋根の裏に一重の垂木型が彫り出されており、繊細な美意識も感じ取れる。笠の幅の逓減率も理想的で全てが美しいのだが、優等生だがやや個性に欠ける、といった評価が出来るのかもしれない。
 基礎は低いが、背の高い塔身(初層軸部)には、輪郭の巻かれた中に金剛界四仏が薄肉彫りされている。各仏の名称は方位から推測するしかないが、いずれもほのぼのとした情緒に満ちた彫像である。

○青目寺五重塔(広島県府中市本山町)
 やや摩滅しているが、四面に胎蔵界四仏の種子(梵字)が薬研彫りされている。
 各層の屋根を見ると、軸部と一体に作られていることと、軒の厚さや反り具合が何とも大らかに造られていることに気が付く。のびのびとした表現は鎌倉後期以後の様式通の範疇からは抜けており、案の定案内板によれば、基礎正面に「正応五年(1292)」という鎌倉後期の初めの年号が刻まれているのだった。
 相輪が失われているのは残念だが、全体に漂う飛び切りの古塔ならではのオーラのような雰囲気が感じられて感動した。各層の屋根はそれぞれが上の軸部と一体となる彫り方で、適度な厚さのある軒は緩やかな反りを示している。五層の屋根の幅の逓減率が自然なので、見るからに品位のある落ち着いた姿をしている。
 塔身東面の仏像(阿閦如来か)の下に、寛元元年(1243)という鎌倉中期の銘が入っているそうだったが、肉眼では判然としなかった。各部の特徴が、いかにもこの魅力的な造立銘に相応しい佇まいであることに感動した。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~truffe/to-kyoto-n.html
石塔(層塔・宝塔・宝篋印塔・五輪塔)
(5) 京都(北部)の石塔巡拝

○金輪寺五重塔(京都府亀岡市宮前町)
 延応2年(1240)という鎌倉前中期の作との事だが、総体的に古調を示していて格調高い。特に反りの少ない笠の緩やかさは、石塔寺のイメージにも似て素晴らしい。初層軸部に四方仏が彫られ、その下の基礎石には梵字の四方仏が彫られていた。梵字にはアやアンが見られることから胎蔵界四仏だろう。


第2028話 2019/10/31

多層石塔(臼杵市・満月寺石塔)の年代観(4)

 満月寺五重石塔の「正和四年乙卯夘月五日」を九州年号「正和」とするには、年干支の不一致や「夘月」という表記成立時期の問題があるため困難なのですが、それら以外にも下部に大きく記された「梵字」の伝来時期という課題も横たわっています。
 満月寺五重石塔の下部の四角四面部分に「梵字」四文字が大きく彫られています。この「梵字」も中近世の石造物(五輪塔や多層石塔、板碑など)によく見られるものです。この満月寺石塔の「梵字」は大日如来を囲む金剛界四仏のこととされ、キリーク(阿弥陀)・タラーク(寶生)・ウーン(阿閦)・アク(不空成就)の四文字が彫られています。
 「梵字」とはウィキペディアによれば、「日本で梵字という場合は、仏教寺院で伝統的に使用されてきた悉曇文字を指すことが多い。これは上述のシッダマートリカーを元とし、6世紀頃に中央アジアで成立し、天平年間(729年-749年)に日本に伝来したと見られる。」と説明されています。もちろん、この解説は大和朝廷一元史観に基づいていると思われますから、梵字や密教の九州王朝(倭国)への伝来がいつ頃かは不詳とせざるを得ません。しかし、六世紀の金石文や七世紀の史料などに「梵字」は見えませんから、満月寺五重石塔の造立を六世紀とすることはやはり困難と言わざるを得ません。(つづく)


第2027話 2019/10/31

多層石塔(臼杵市・満月寺石塔)の年代観(3)

 鶴峯戊申が『臼杵小鑑』で紹介した満月寺石仏の「正和四年卯月五日」の刻銘は現存しないようですが、満月寺には「正和四年乙卯夘月五日」と刻銘された五重石塔が現存しています。その下部から次のような刻銘が読み取れます。

【満月寺五重石塔刻銘】
「正和四年乙卯夘月五日願主阿闍梨隆尊敬白」
「滅罪証覚利益衆生所奉造立供養如件」
「右為先師聖霊尊全及隆尊之先考先妣」
「合力作者 阿闍梨圓秀」

 このように「正和四年乙卯夘月五日」とあり、年干支が「乙卯」と記されていますので、九州年号「正和四年」の年干支「己酉」と一致しません。
 他方、「正和」という年号は鎌倉時代にもあります。その正和四年(1315)の年干支は「乙卯」であることから、この五重石塔は鎌倉時代の正和四年乙卯(1315)の造立であることがわかります。この石塔の刻銘の写真を拝見しますと、干支の「乙卯」は縦書きの「正和四年乙卯夘月五日」とある文字列の中で「二行割注」のように横書きで「卯乙」と記されています。このように干支部分のみを小文字二行の横書きに記す例は中近世史料では普通に見られる書法で、同石塔に刻された「正和四年」(1315)の年次と矛盾なく対応しています。
 たとえば年干支二文字を小文字で横書きにされた金石文として、九州年号「朱鳥」が記された「鬼室集斯墓碑」が著名です。没年について次のように記されています。

 「朱鳥三年戊子十一月八日殞」

 一行の縦書きですが、年干支「戊子」部分の二字は小文字の横書きです。なお、年干支部分を小文字で横書きにするのは、鎌倉時代頃の金石文からよく見られるようになるといわれています。
 また、「夘月」という表記も六世紀前半にまで遡る例は国内史料には見えず、10世紀初頭頃に成立した『古今和歌集』136番歌(紀利貞)の詞書に見える「うつき(卯月)」の例が国内史料では最も古いようです。このことも同石塔を九州年号の「正和四年」(529)とする理解を困難としています。その点、鎌倉時代の「正和四年」(1315)であれば全く問題はありません。(つづく)


第2026話 2019/10/30

多層石塔(臼杵市・満月寺石塔)の年代観(2)

 臼杵市満月寺の多層石塔や石仏については、「洛中洛外日記」1818〜1822話(2019/01/08〜12)〝臼杵石仏の「九州年号」の検証(1)〜(5)〟で取り上げたことがあります。というのも、臼杵石仏に九州年号「正和(五二六〜五三〇)」が刻されたものがあるとする文献(鶴峯戊申『臼杵小鑑』)があり、もしその記事が正しければ現存最古の九州年号金石文になるかもしれず、わたしも早くから注目してきたからです。それは次のような記事です。

『臼杵小鑑』(国会図書館所蔵本。冨川ケイ子さん提供)
 「満月寺
 (前略)〈満月寺は宣化天皇以前の開基ときこゆ〉十三佛の石像に正和四年卯月五日とあるハ日本偽年号〈九州年号といふ〉の正和四年にて、花園院の正和にてハあらず。さて其偽年号の正和ハ継体天皇廿年丙午ヲ為正和元年と偽年号考に見えたれば、四年ハ継体天皇の廿四年にあたれり。然れば日羅が開山も此比の事と見えたり。(後略)」
 ※〈〉内は二行割注。旧字は現行の字体に改め、句読点を付した。

 この記事などに対して、わたしは次のように「洛中洛外日記」1822話(2019/01/12)〝臼杵石仏の「九州年号」の検証(5)〟で考察しました。

【以下、転載】
①鎌倉時代の正和四年(1315)卯月(旧暦の4月とされる)五日に石仏と五重石塔が造営され、石仏には「正和四年卯月五日」、石塔には「正和四年乙卯夘月五日」と刻銘された。その後、石仏の文字は失われた。

②九州年号の「正和四年(五二九)」に石仏が造営され、「正和四年卯月五日」と刻銘された。鎌倉時代にその石仏の刻銘と同じ「正和」という年号が発布されたので、既に存在していた石仏の「正和四年卯月五日」と同じ月日に「正和四年乙卯夘月五日」と刻した五重石塔を作製した。その後、石仏の文字は失われた。

 ②のケースの場合、石仏の「正和四年」は九州年号と判断できるのですが、そのことを学問的に証明するためには、「正和四年卯月五日」と刻銘された石仏が鎌倉時代のものではなく、6世紀まで遡る石像であることを証明しなければなりません。しかし、現在では刻銘そのものが失われているようですので、どの石像に刻されていたのかもわかりません。そうすると、せめて満月寺近辺に現存する石仏に6世紀まで遡る様式を持つものがあるのかを調査する必要があります。
【転載おわり】

 以上の考察の結論として、
 「今のところ臼杵石仏に6世紀まで遡るものがあるという報告は見えません。」
 「6世紀の倭国において『卯月』という表記方法が採用されていたのかという研究も必要です。」
 として、わたしは臼杵石仏に彫られていたとされる「正和四年卯月五日」を九州年号と断定することは学問的に困難と判断しました。(つづく)


第2025話 2019/10/29

多層石塔(臼杵市・満月寺石塔)の年代観(1)

 京都では八月に庶民の伝統行事「地蔵盆」が各町内で行われます。町毎にお地蔵さんを祀り、子供たちが主役の行事です。いわば「ハロウィンの京都版」です。わたしが住むご町内でも、毎年この地蔵盆を盛大に行い、昼間は子供たちによるスイカ割りやソーメン流しで盛り上がり、夜は大人たちと手伝ってくれた若者とで打ち上げ(食事会)を行い、ご町内の親睦に努めます。
 わたしは来年から町内会長を引き受けるということもあり、今年の地蔵盆には最初から最後まで参加しました。当日の朝、お地蔵さんをお堂から会場の北村美術館のガレージに運び込むのですが、そのときわたしは初めてご町内のお地蔵さんをまじまじと見ることができたのですが、どう見てもおかしいのです。その石像物はお地蔵さんではなく、なんと道祖神だったのです。おそらく京都市内の地蔵盆で道祖神を祀っているのはこのご町内だけではないでしょうか。
 古くからの町民の方々にこの「お地蔵さん」の由来をたずねると、近所の鴨川に流れ着いていたのを町内で祀ったとおじいさんから聞いた、などの諸説が出されました。夜の親睦会では、「これはお地蔵さんではなく道祖神だが、町や町民を守護する神として日本では古くから祀られており、大変ありがたい神様ですので、これからも大切にお祀りしていきたい」と、次期町内会長としてご挨拶しました。それにしても面白いご町内です。
 ご町内の北村美術館さんのご好意により、地蔵盆会場として同館ガレージをお借りしているのですが、その日は、特別に同美術館の庭園も拝観させていただくことができました。それほど広くはない庭園を一巡して、いくつもの石仏や石塔が並んでおり、恐らく鎌倉時代のものと思われる重要文化財もあって、ご町内にこれほどの文化財があることに驚きました。特に多層石塔については臼杵市満月寺の石塔の研究をしたこともあって、その年代観を理解する上でも勉強になりました。(つづく)


第2024話 2019/10/28

『日本思想史学』第51号のご紹介
 〝冥界からの贈り物〟

 「日本思想史学会」から機関誌『日本思想史学』第51号が届きました。わたしは「古田史学の会」の他にも各地の古代史研究会や、仕事関係では「繊維学会」「繊維応用技術研究会」などにも参加しています。また、学会として高名な「日本思想史学会」の会員でもあります。これは古田先生からのご指示で入会したもので、先生に促されて筑波大学での総会で「古代の二倍年歴」、京都大学では「九州年号」についての研究発表を行ったことがあります。化学系学会で講演することには慣れているのですが、人文系の伝統ある「日本思想史学会」で、その大勢の専門家を前にしての発表にはちょっと足が震えました。
 古田ファンにはご存じの方も多いと思いますが、日本思想史学は東北大学の村岡典嗣先生が提唱された学問領域であり、それが引き継がれて「日本思想史学会」が発足しました。ですから、村岡先生の「最後の弟子」である古田先生は同学会の重鎮でした。そうしたご縁もあり、大阪府立大学なんばキャンパスで執り行った古田先生の追悼式典には、「日本思想史学会」の会長だった佐藤弘夫さん(東北大学教授、中世思想史研究者)から御弔文をいただけました(『古田武彦は死なず』明石書店刊に収録)。
 今回の『日本思想史学』第51号の論文で特に興味深く拝読したのが尾留川方孝さんの「神漏伎・神漏弥および天神の性質と役割」です。尾留川さんは『日本書紀』などに見える「天神」とは誰のことなのかというテーマを論じ、「天神は命じるのみで、自ら行動せず客体にもならない」とされ、「天孫降臨にいたる一連の出来事のなかで、天神は天下の統治を天孫に命じている」という例をあげられ、神武東征も同様に天神の命令を受けて開始されていることを指摘されました。
 わたしは『記紀』の神武東征説話中の「天神子」「天神御子」説話部分は天孫降臨説話からの転用とする仮説を発表(注)していますが、尾留川さんの視点(仮説)を採用すれば、その転用は神武東征説話の冒頭部分にもなされていたと考えなければならないかもしれません。そうした意味から、『日本思想史学』第51号は古代史研究にも関わる貴重な一冊であり、冥界におられる古田先生からの贈り物のような気がしました。

(注)
 古賀達也「盗まれた降臨神話 ー『古事記』神武東征説話の新・史料批判ー」、『古田史学会報』48号、2002年2月。
 古賀達也「続・盗まれた降臨神話 ー『日本書紀』神武東征説話の新・史料批判ー」、『古代に真実を求めて』第六集、2003年4月。古田史学の会編、明石書店。


第2023話 2019/10/27

『九州倭国通信』No.196のご紹介

 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.196が届きましたので紹介します。
 同号には拙稿「九州王朝説で読む『大宰府の研究』〝凍りついた発想〟大和朝廷一元史観の『宿痾』〈後編〉」を掲載していただきました。本稿は『大宰府の研究』(大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会編)に掲載された注目すべき論文をピックアップして、九州王朝説の視点で解説したものです。
 今回の後編には次の収録論文を取り上げ、高倉論文の先進性を評価し、他方、森論文と井形論文が大和朝廷一元史観の『宿痾』に冒されていることを指摘し、批判的に解説しました。

○高倉彰洋「観世音寺伽藍朱鳥元年完成説の提唱」
○森弘子「筑紫万葉の風土」
○井形進「大宰府式鬼瓦考」


第2022話 2019/10/26

即位礼正殿の儀の光景(3)
〝古代の伝統を継ぐ茶色染料〟

 本シリーズの最後に、一般の方々にはまず知られていない現在におけるウールの茶色染色が「黄櫨染御袍」と同様の染色の設計思想に基づいていることをお教えします。
 茶色の染色が難しいことは本稿二節で触れましたが、「黄櫨染御袍」では櫨(黄色)と蘇芳(赤色)の二色を混ぜて茶色にしています。というのも、きれいで高堅牢度の茶色の天然染料はありそうでなかなかありません。そのため、こうした配合染色により茶色にするわけですが、現在のウールでも同様なのです。ウールの茶色染色には、カラーインデックスナンバー(染料の国際分類番号)で「モルダント・ブラウン・15」(Mordant Brown 15)と呼ばれる金属媒染染料が最も使用されています。この染料も実はオレンジ色と青色の配合染料なのです。もちろん、一成分だけで茶色になる染料もあるにはあるのですが、価格や性能において「モルダント・ブラウン15」が抜きん出ているため、結果として他の茶色染料は淘汰されつつあります。
 わたしの勤務先はこのウール用茶色染料を国内で製造している唯一の会社ですから、その製造の難しさや原材料調達の困難さなど、身にしみて知っています。この度の即位礼正殿の儀での「黄櫨染御袍」を拝見して、こうした伝統文化の末端に関わってこられたことに感謝し、これらの技術を次世代に伝えなければならないと思いました。(おわり)


第2021話 2019/10/24

「評制」時期に関する古田先生の認識(3)

 「評制」の開始時期を七世紀中頃と古田先生は考えておられましたが、それ以前は「県(あがた)」の時代とされていました。このことを示すエビデンス(古田先生の著書)を紹介します。
 『古代は輝いていた3』(一九八五年、朝日新聞社刊)の「第五章 二つの『風土記』」には次のように記されています。

 「九州王朝の行政単位 (中略)
 その上、重大なこと、それは五〜六世紀の倭王(筑紫の王者)のもとの行政単位が「県」であったこと、この一事だ。
 この点、先の『筑後国風土記』で、「上妻県」とある。これは、筑紫の王者(倭王)であった、筑紫の君磐井の治世下の行政単位が「県」であったこと、それを明確に示していたのである。」(七〇頁、ミネルヴァ書房版)

 ここでのテーマは、行政区画名が「県」と「郡」の二種類の風土記について述べたもので、九州王朝による『風土記』が「県」風土記であり、その成立時期について考察されたものです。その中で、「五〜六世紀の倭王(筑紫の王者)のもとの行政単位が『県』であった」「筑紫の君磐井の治世下の行政単位が『県』であった」とされています。すなわち、七世紀中頃の評制開始の前の行政区画を「県制」とされているのです。なお、「県」は「あがた」と訓まれていますが、古田先生はなんと訓むかは不明と、用心深く述べられています。
 また、『古代史の十字路 万葉批判』(東洋書林、二〇〇一年)では次のように記されています。

 「しかも、万葉集の場合、明白な、その証拠を内蔵している。巻一の「五」歌だ。
 『讃岐国安益郡に幸(いでま)しし時、軍王の山を見て作る歌』
 この歌は、『舒明天皇の時代』の歌として配置されている。
 『高市岡本宮に天の下知らしめし天皇の代、息長足日広額天皇』
の項の四番目に位置している。
 舒明天皇は『六二九〜六四一』の治世である。とすれば、明白に『郡制以前』の時代である。七世紀前半だから、『評』に非ずんば『県』などであって、まかりまちがっても『郡』ではありえない時間帯だ。」(二一九頁。ミネルヴァ書房版)

 ここに「七世紀前半だから、『評』に非ずんば『県』などであって」と記されているように、評制開始は七世紀中頃という認識が前提にあって、七世紀前半の行政区画名として「評」かそれ以前の「県」などであるとされているのです。もし評制開始が六世紀にまで遡ると古田先生が考えておられたのであれば、「『評』に非ずんば『県』など」とは書かず、「評の時代」と書かれたはずです。このように、古田先生が評制開始時期を七世紀中頃とされ、それ以前が「県」とされてきたのは明白です。
 最後にお願いがあります。「評制開始を六世紀以前」とする仮説を発表されるのも「学問の自由」であり、それがたとえ古田説と異なっていたとしても「師の説にな、なづみそ」(本居宣長)ですから、全くかまいません。しかし、古田先生ご自身がどのように認識されていたのかを論じられる場合は、せめて事前調査の一つとして、古くから古田先生の下で古代史学を学んできた〝長老〟格の方々に直接確認していただけないでしょうか。たとえば、学生時代(京都大学)から古田先生の謦咳に接してこられた谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)もおられます。
どのような自説の発表も「学問の自由」ですが、「○○の認識はこうだ」とされる場合は、その方に直接確認するか、お亡くなりになっておられるのであれば、その方を最も知る方々に直接確認するというのが、古田先生が示されてきた学問の方法です。たとえば、好太王碑研究において、古田先生は酒匂大尉のご遺族を探しだし、そのご遺族から直接聞き取り調査をされ、最終的には好太王碑の現地調査もされ、碑文改ざんがなかったことを明らかにされました(『失われた九州王朝』)。このことは、古田ファンや古田学派の研究者には周知のことでしょう。
 もし、「古田史学を継承する」といわれる方があれば、口先だけではなく、実践されることを望みます。古田先生は、あの和田家文書偽作キャンペーンと古田バッシングが酸鼻を極め、「市民の古代研究会」が分裂したとき、津軽の地を訪れ、現地での聞き取り調査を実施されました。私も何度も現地に行かせていただきましたが、そうした実践が古田史学を継承し、発展させていくうえで重要だと考えます。


第2020話 2019/10/24

即位礼正殿の儀の光景(2)
「黄櫨染御袍」に使用された蘇芳(すおう)

 新天皇の「即位礼正殿の儀」で着用された「黄櫨染御袍」は、光源の変化により色調が変化することを紹介しました。これにはかなりの技術が必要なのですが、それよりもすごい染色技術が京都の匠(染織家)により発明されています。それは五年ほど前にお会いしたご高齢の匠から見せていただいたもので、「貴婦人」と名付けられたシルクの染色糸です。
 「貴婦人」は「黄櫨染御袍」よりも青みの茶色をしていました。ところが、同じ室内光(蛍光灯)下でも糸束をねじったり角度を変えると、色調が茶色から濃緑色に変化するのです。ここまで変化するシルク糸は初めて見ました(化学繊維であれば機能性色素を用いて簡単にできます)。恐らく「演色性」だけではなく、シルクの成分であるフィブロインやセリシンを複数の染料で染め分けているのではないかと思い、使用した染料をたずねましたが、教えてはいただけませんでした。しかし、その糸束をわけていただくことができ、わたしは勤務先の科学分析機器を駆使して、染料成分分析や繊維構造解析を行いました。恐らく、自らが発明した「貴婦人」の染色技術を次世代の技術者に継がせたいとの思いから、貴重な糸束をわけていただいたものと感謝しています。
 話を「黄櫨染御袍」に戻します。使用された蘇芳は南方の国(インド、マレーシア)が原産地であり、〝輸入〟しなければならないのですが、もしかすると入手はそれほど困難なことではなかったのではないでしょうか。
 「洛中洛外日記」2006〜2014話(2019/10/06〜13)で連載した〝九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(1)〜(9)〟において、わたしは九州王朝(倭国)の東西南北の「道」の「方面軍」という仮説を発表し、その「南海道」の終着点を今の沖縄・台湾とする説と中南米とする説を提起しました。いずれにしても、強力な海軍力を有してした九州王朝であれば、「南国」の蘇芳を入手することは可能と思われますし、あるいはその「南国」からの使者が九州王朝へお土産として持参した可能性さえあります。「黄櫨染御袍」の製造のため蘇芳を九州王朝が欲しがっていたとすれば、少なくとも「西国」百済から贈呈された七支刀と比べれば、自国に自生している蘇芳の木の贈呈は輸送コストはかかるものの、手間をかけて〝製造〟する必要もない〝お安いご用〟ですから。
 こうした視点を重視しますと、日本列島内を軍事的に展開(侵略)する「東山道」「北陸道」の「方面軍」とは異なり、「海道」の「方面軍」の主目的は「軍事」というよりも「交易」だったのではないかとの考えに至りました(軍事的側面を否定するものではありません)。大型船造船技術と航海技術があれば、大量の物資運搬にも海上郵送は便利です。一つの仮説として検討の俎上に乗せたいと思います。


第2019話 2019/10/23

「評制」時期に関する古田先生の認識(2)

 古田先生が「評制」開始を七世紀中頃とされていたことは、30年にわたるお付き合いから、わたしにとっては自明のことだったのですが、わたしの説明が不十分だったようで、納得していただけない方がおられるようです。そこで、新たなエビデンス(先生の著作)を紹介することにします。
 2015年にミネルヴァ書房から発行された『古田武彦の古代史百問百答』(古田武彦著、古田武彦と古代史を研究する会編)に〝「庚午年籍の保存」について〟という一節があり、その中に大和朝廷により「評」史料が隠されたり廃棄された実例として次の三例が示されていますので、その部分を引用します。

(イ)正倉院文書では「評」の文書がない。
(ロ)『万葉集』にも「評」は出現しない。(「郡」ばかり、九十例)。
(ハ)『日本書紀』でも、六四五〜七〇一の間すべて「郡」とされている。
 (『古田武彦の古代史百問百答』218頁)

 ここに〝(ハ)『日本書紀』でも、六四五〜七〇一の間すべて「郡」とされている。〟と古田先生が記されているように、「評制」の期間が「六四五〜七〇一の間」との認識に立たれていることがわかります。なんとなれば、『日本書紀』には「六四五」より前も「郡」表記がなされており、もし古田先生が「評制開始を六世紀以前」と認識されていたのなら、それこそ「五〇一〜七〇一の間すべて」などと書かれたはずです。しかし、古田先生は「評制」開始を七世紀中頃と考えられていたので、『日本書紀』の中の「評」が「郡」に書き換えられた範囲として「六四五〜七〇一の間」と表現されたのです。そうでなければ、「六四五」という年次を記す理由は全くありません。
 同時に、「六四五」よりも前は「評」ではなく、「県」であると古田先生は考えられていました。このことについてもエビデンス(古田先生の著書)を示します。(つづく)

〔補注〕正確に言えば、「評制」は「七〇〇年」までで、「七〇一年」には「郡制」に変わったことが、出土木簡から判明しています。また、『日本書紀』の記述対象範囲は持統十一年(六九七年)までです。もちろん、本稿の論旨には影響しません。


第2018話 2019/10/22

即位礼正殿の儀の光景(1)
「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」

 本日、執り行われた新天皇の「即位礼正殿の儀」をテレビで拝見いたしました。まるで平安時代の王朝絵巻を見ているようで、感動しました。そして何よりもわたしが着目したのは、やはり職業柄か、両陛下や皇族方の装束の色彩でした。
 わたしの本職は染料化学・染色化学のケミストですので、どうしても衣装の色に目が行ってしまい、古代において使用されたであろう染料の分子構造式と染色技術(草木染めか)、そして衣装の繊維素材は何だろうかと、そうした疑問が頭の中をぐるぐると廻ります。そうやって出した科学的結論を妻に説明しようとすると、「やめてッ!」と言われてしまいました。そこで、「洛中洛外日記」読者の皆さんにさわりだけ説明させていただきますので、ちょっとお付き合い下さい。
 わたしが最も注目したのが天皇しか着ることが許されないという「黄櫨染御袍」でした。高御座の幕が開かれたとき、その色調に驚きました。想像していたよりも赤みが強い茶色だったからです。近代では合成染料が発達して、容易に茶色が出せるようになりましたが、以前は茶色を再現性良く出すことは高度な染色技術が必要とされていました。古代であればなおさらです。
 「黄櫨染御袍」も古代から伝わる染料と染色技術により、あの色相が出されていますので、それはまさに〝匠の技〟と言えます。しかも「黄櫨染御袍」は朝夕と昼間では異なる色調を発します。それは「演色性」という光学現象を利用したもので、太陽光中の光の波長分布が朝夕と昼間では異なって地上に届くという現象により、大きく色調が変化する染料(複数)が使用されていることによります。ですから、テレビを見ていて、「黄櫨染御袍」に使用された染料の推定とその分子構造が瞬時に脳裏を駆け巡ったのです。そのときの、わたしの推論は次のようなものでした。

①「黄櫨染」というからには、「櫨(はぜ・はじ)」の色素(フラボノール系色素:fustin)が使用されているはず。
②しかも「黄」とあるから、櫨の木の黄色の成分を用いて、アルミ明礬で媒染染色されているはず。
③というのも、金属で媒染染色しなければ草木染めの天然染料は日光堅牢度が劣り、使用に耐えない。
④従って、高堅牢度の黄色に発色させるためにはアルミ明礬か木材(主に椿)の灰に含まれるアルミ成分(+微量のカルシウム成分)の使用が考えられる。古代の染色において、「灰」の使用は『延喜式』などに見える既知の技術。
⑤しかし、「櫨」だけではあの赤みの茶色にはならず、更に青みの赤色染料も使用されているはず。
⑥古代において使用されている青みの赤色染料としては、「茜(あかね)」(アリザリン系色素)と「蘇芳(すおう)」(色素成分はbrazilein)が有名。
⑦「茜」は『万葉集』にも詠まれているように国内に自生しており、入手は容易。他方、「蘇芳」は南方の国(インド、マレーシア)が原産地とされ、〝輸入〟しなければならない。
⑧入手し易さでは「茜」だが、「黄櫨染御袍」のあの深みのある赤みの茶色を出すには「蘇芳」が望ましい。
⑨染色技術的にはどちらもアルミで媒染により赤色が出せるので、どちらを使用したのかは判断し難い。

 概ね以上のような思考が堂々巡りしたため、インターネットで確かめることにしました。その結果、「櫨」と「蘇芳」が「黄櫨染御袍」には使用されているとありましたので、わたしの推論はほぼ当たっていました。それにしても、とても美しく神々しい「黄櫨染御袍」でした。(つづく)