第1127話 2016/01/23

百済王亡命地が南郷村の理由

 1126話で韓国南部と宮崎県に前「三角錐」後円墳が存在していることを述べましたが、これが偶然ではなく両地域の被葬者に深い関係があるのではないかと考えています。
 宮崎県の前「三角錐」後円墳が分布する西都市の近隣に百済王伝説で有名な南郷村があります。白村江戦などで滅亡した百済王族が南郷村まで漂着逃亡したという伝承ですが、なぜ亡命地に宮崎県が選ばれた理由がわたしにはわかりませんでした。唐軍による追跡から逃れるのであれば、多くの百済亡命人が逃げた摂津難波や近江などの遠隔地こそ相応しいと思われるのですが、ところが宮崎県南郷村を百済王族が亡命地に選んだ理由が不明だったのです。
 この疑問を解く鍵が両地域(韓国南部と宮崎県)に共通して存在する前「三角錐」後円墳ではないでしょうか。すなわち、韓国南部(百済)で前「三角錐」後円墳を造営した倭国の豪族と宮崎県西都市に前「三角錐」後円墳を造営した勢力は深い関係を持っていたと考えると、亡命百済王族はその勢力の庇護のもとに南郷村に亡命したとする仮説が成立すると思われるのです。


第1126話 2016/01/22

韓国と南九州の前「三角錐」後円墳

 昨日から仕事で東京に来ています。東京駅に着いてちょっと時間があったので八重洲ブックセンターに寄り、吉村靖徳著『九州の古墳』(海鳥社。2015年12月発行)を購入しました。同書の解説は典型的な大和朝廷一元史観によっており、あまり学問的に有益ではありませんが、九州の代表的な古墳約120カ所がカラー写真で紹介されていることが気に入りました。
 その中で興味深い古墳がありました。近年、韓国で発見が続いている「前方後円」墳によく似たものがあったのです。韓国の「前方後円」墳は正確に表現すると、前方部の形状が三角錐に近く、それを「前」から見ると、前方部の形が「台形」ではなく、上部が尖った「三角形」なのです。ですから立体的には「三角錐」が後円部に繋がっているような形状をしています。いわば前「三角錐」後円墳とでも言うべき形状です。これは日本列島の前方後円墳には見られない珍しい形状ですので、韓国内で独自に発展した形状かと思っていました。ところがその韓国の前「三角錐」後円墳によく似た古墳の写真が『九州の古墳』に掲載されていたのです。
 最終的には正式な調査報告書を見てからでなければ断定はできませんが、次の三つの古墳の形状が写真では前「三角錐」後円墳に似ているように見えました。一つは宮崎県西都市の松本塚古墳で墳長104mで5世紀末から6世紀初頭の頃の前方後円墳と説明されています。
 二つ目は熊本県山鹿市岩原古墳群の双子塚古墳で、墳長102mの前方後円墳で5世紀中頃の築造と説明されています。
 三つ目は写真からはやや不確かですが、宮崎県児湯郡新富町祇園原古墳群の弥吾郎塚古墳で、墳長94mの6世紀代の前方後円墳とされています。
 『祇園原古墳群1』(1998年、新富町教育委員会)掲載の測量図によれば、弥吾郎塚古墳以外にも次の古墳が前「三角錐」後円墳に似ています。

 ○百足塚古墳 墳長76.4m
 ○機織塚古墳 墳長49.6m
 ○新田原52号墳 墳長54.8m
 ○水神塚古墳 墳長49.4m
 ○新田原68号墳 墳長60.4m
 ○大久保塚古墳 墳長84.0m

 韓国独特の前「三角錐」後円墳に似た古墳が宮崎に多数あることは九州王朝(南九州)と古代韓国の関係を考えるうえで興味深い現象です。もちろん、九州以外にもこの前「三角錐」後円墳があるかもしれませんので、引き続き慎重に調査したいと思います。この他の前「三角錐」後円墳についてご存じの方がおられればご教示ください。


第1125話 2016/01/21

合田洋一さんが愛媛大学で講演

 1月20日(水)に「古田史学の会」全国世話人(古田史学の会・四国 事務局長)の合田洋一さん(松山市)が愛媛大学に招かれ、学生に対し「古代に真実を求めてー聖徳太子を事例として」と題し講演を行なわれました。
 講演では、「一元史観」と「多元史観」という視点から、神武天皇に始まる大和の天皇家が日本列島を連綿と統治していたとする「一元史観」と、古代には日本列島各地に王国・王朝があったとする「多元史観」のどちらが真実なのかについて、志賀島の「漠委奴国王」の金印や『三国志』「魏志倭人伝」の邪馬壹国と女王・卑弥呼、「日出ずる処の天子」と「聖徳太子」、『旧唐書』に別国と記される「倭国」「日本国」などを例にあげ、「古田史学」が追及してきた問題を解りやすく解説しました。工学部など理系の学生(2回生)が中心でしたが約110人が熱心に聴講されたとのことです。
 古田先生はご逝去されましたが、追悼講演会が大阪府立大学で盛大に開催され、その直後に国立愛媛大学でも古田史学に基づく講演が開催されたことは、多元史観にもとづく古代史学のうねりを感じます。今後も、各地の会員の皆さん、友好団体の方々のご協力を得て、講演活動を積極的に展開し、古田武彦先生の切り開かれた多元史観の発展に努めていきたいと思います。


第1124話 2016/01/19

盛況と感動の古田先生追悼講演会

 17日の古田先生追悼講演会は大盛況でした。ご来賓をはじめ、ご来場いただいた皆様や運営にご協力いただいたスタッフの方々、追悼文をお寄せいただいた皆様に心より御礼申し上げます。懇親会も服部静尚さんの名司会もあって、盛況でした。ご遺族を代表してご挨拶していただいたご子息の古田光河さんの涙には、わたしももらい泣きしてしまいました。
 新井宏先生のご講演は、銅鏡の鉛成分の解析という科学的手法による新発見の紹介で、とても勉強になりました。もっと充分に時間をとって説明していただく機会を作りたいと考えています。
 24日は東京でのお別れ会です。わたしも出席し、先生の業績紹介をさせていただくことになっています。無事お別れ会を終えることができましたら、次は『古代に真実を求めて』古田先生追悼号の発行です。今後とも「古田史学の会」会員の皆様や関係者の皆様のお力添えを賜りますよう、お願い申し上げます。
 最後に追悼講演会の様子を正木事務局長がご自身のfacebookに綴っておられますので、転載させていただきました。

〔正木裕さんのfacebookより〕
 日曜日古代史研究者の古田武彦先生の追悼会・講演会が大阪府大I-siteなんばで開催され、東京古田会・多元的古代史研究会や古田史学の会仙台・長野・東海・関西・四国・九州の代表ほか全国から学者・研究者・古代史ファンが多数参加し、会場が埋め尽くされました。
 各会からの弔辞に加え荻上紘一大妻大学学長、池田大作創価学会インターナショナル会長、中山千夏、桂米團治さんはじめ多彩な方々から弔意文が寄せられ、古田氏の逝去を惜しみました。
 追悼会後、金属学の研究者元韓国国立慶尚大学招聘教授の新井宏氏による「鉛同位体から視た平原鏡から三角縁神獣鏡」と題した講演会が催され、鏡に含まれる鉛の分析をもとに客観的で説得力ある「三角縁神獣鏡国産説」が語られました。
 懇談会にも80名近い参加で、I-site横のオルケスタは満席。参加者は次々に先生の思い出を語り、大いに盛り上がりました。先生が亡くなられても、各地の会員、他の友好団体の方々の熱意は衰えることなく、先生の切り拓いた多元史観の発展に努めていくことが確認でき有意義な会となりました。


第1123話 2016/01/16

倭人伝「その北岸、狗邪韓国」大激論

 新年最初の関西例会が本日開催されました。関西例会らしく、新年早々から大激論となりました。冒頭、正木事務局長から明日に迫った古田先生追悼講演会の入念な打ち合わせがあり、例会参加者の協力を要請しました。
 出野さんから『三国志』倭人伝の「その北岸、狗邪韓国に到る、七千余里」の理解として、韓国の外側を水行した船から見て北側にある「北岸」とされ、古田説の韓国内陸行に反対する説が示されました。それに対して多くの批判が参加者から出され、厳しい論争が続きました。「学問は批判を歓迎する」とわたしは考えていますから、実に関西例会らしい素晴らしい論争でした。
 わたしは出野さんの読解のうち、「郡から倭に到る」とある倭人伝の「倭」が、「倭国の都」ではなく朝鮮半島内の「倭」である狗邪韓国までとする理解に、有力な見解であると賛意を表明しました。出野さんは狗邪韓国を日本列島内の倭国とは別国の朝鮮半島内の「倭」とされているのですが、わたしは倭国は対馬海峡にまたがる海峡国家とする古田説が妥当であり、狗邪韓国がその倭国の「北岸」と考えています。しかし、その「郡から倭に到る」の「倭」とは、倭国との国境(狗邪韓国)までと理解する点については出野さんの読解も成立すると思いました。ちなみに、古田先生は『「邪馬台国」はなかった』では「郡から倭に到る」の「倭」を「倭国の都」(倭国の中心領域)とされています。
 今回の出野さんの発表により気がついたのですが、郡から倭の都まで至ることを示す記事は、行程記事の終わりの方に「郡より女王国に至る、万二千余里」とあります。ここでは倭国の都がある「女王国」に至るという表記となっており、狗邪韓国までの行程を示す「郡より倭に至る」とは目的地表記(「倭」と「女王国」)が異なっているのです。すなわち、到着点(通過点)が倭との国境(狗邪韓国、七千余里)と倭の都(女王国、万二千余里)と書き分けられているのです。この点、古田先生も後の著作で触れておられたように記憶しています。
 韓国内を陸行とするのか水行とするのか、狗邪韓国を倭国の北岸とするのか、朝鮮半島内の別国の「倭」とするのかで、出野さんとは意見が異なりますが、論争により倭人伝行程記事に対する認識が深まりました。まさに「学問は批判を歓迎する」を実感できた論争でした。
 1月例会の発表は次の通りでした。

〔1月度関西例会の内容〕
○明日の「古田先生追悼講演会」の打ち合わせ(正木事務局長)

①狗邪韓国についての再考察(奈良市・出野正)
②代始改元と九州年号(八尾市・服部静尚)
③「名太子為利」の訓みの疑問(高松市・西村秀己)
④『日本書紀』宣化紀に盗用された磐井と「磐井の乱」記事の実際(川西市・正木裕)

○水野顧問報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生追悼文(森嶋瑤子様)・堂門冬二著『楠木正成』を読む・寄手塚味方塚訪問の想い出・室伏志畔著『薬師寺の向こう側』贈呈受・その他


第1122話 2016/01/13

本年5月に講演を2件行います

 昨日は大阪市西区の大阪科学技術センターにて近畿化学協会・機能性色素部会の定例会で講演(草木染から機能性色素へ -染料と染色の化学史-)しました。講師はわたしの他に、村中厚哉さん(理化学研究所)と高坂貴浩さん(セーレン)でした。最先端研究開発に携わっている化学者が相手でしたので緊張しましたが、「染料と染色の化学史」という切り口が思いのほか好評で、近畿化学協会誌への寄稿や大阪市立工業研究所の方から講演依頼をいただきました。
 新年も年始から講演依頼が続いていますが、特に5月は既に2件の講演が決まりました。5月20日(金)に大阪でTES会西日本支部の年次大会での特別講演を行います。講演テーマは古代史と化学の二分野でとのご依頼でしたので、「理系が読む倭人伝」と「草木染から機能性色素へ」としました。(TES:繊維製品品質管理士)
 28日(土)には久留米大学で古代史の講演を行う予定です。当日は正木裕さん(古田史学の会・事務局長)も講演されるとのことでしたので、正木さんと相談のうえ、昨年、東京家政学院大学で行った「九州王朝の『聖徳太子』」をテーマとすることにしました。二人で講演内容を分担し、参加者にわかりやすいように工夫したいと考えています。「多利思北孤は久留米にいた」という内容で構想を練っています。


第1121話 2016/01/12

古田先生追悼講演会、迫る! 済み

 大阪府立大学i-siteなんばでの古田武彦先生追悼講演会(17日)が迫ってきました。当日、ご披露させていただく各界からの追悼メッセージや先生の著作目録を収録した案内パンフレットももうすぐ完成します。このパンフレットは当日来場者に無料で進呈いたします。
 追悼会に先だって、追悼文を送っていただいた方々のお名前をご紹介します。(順不同)

荻上紘一様(大妻女子大学学長・新東方史学会会長)
池田大作様(創価学会インターナショナル会長)
高島忠平様(旭学園理事長・考古学者)
佐藤弘夫様(東北大学教授・日本思想史学会前会長)
中山千夏様(作家・タレント)
桂米團治様(落語家)
森嶋瑤子様(経済学者森嶋道夫氏夫人)

 この方々の追悼メッセージは『古代に真実を求めて』19集(明石書店より今春発行)に掲載します。
 追悼会では友好団体の東京古田会の藤沢会長、多元的古代研究会の安藤会長からもご挨拶をいただきます。主賓としてミネルヴァ書房の杉田社長からは弔辞を賜ります。「古田史学の会」の地域の会などの代表からもご挨拶いただきます。わたしからは、古田先生の代表的著作と業績について解説させていただきます。ご遺族を代表され古田光河様からも最後にご挨拶していただく予定です。
 追悼会の後に新井宏先生(韓国国立慶尚大学招聘教授)のご講演「鉛同位体比から視た平原鏡から三角縁神獣鏡」となります。鉛同位体分析による銅鏡分析の最新研究成果をお話しいただけるとのことで、わたしも楽しみにしています。
 講演会終了後は会場の近くのレストラン(オルケスタ)で懇親会(有料)を催し、古田先生を偲びたいと思います。多くの皆様のご参加をお願い申しあげます。
 ※会場などの詳細は「古田史学の会」ホームページ掲載の案内をご覧ください。


第1120話 2016/01/01

シルヴィ・ギエムの「ボレロ」をみて年越し

 大晦日の夜はテレビで紅白歌合戦をみたあと、シルヴィ・ギエムの現代バレエ「ボレロ」をみました。その圧巻のパフォーマンスはとても50歳とは思えない迫力と躍動感溢れるもので、年越しに相応しい番組でした。
 シルヴィ・ギエムは1965年生まれのバレリーナで、デビュー時から100年に一人の逸材といわれました。18歳のときには国際バレエコンクールで金賞など三冠を受賞し、19歳のときには「白鳥の湖」で初主演し、フランスのトップバレリーナとなりました。1988年には所属していたパリ・オペラ座を退団したのですが、そのときフランスでは「国家的損失」といわれたそうです。
 現代バレエの女王、シルヴィ・ギエムの代表作「ボレロ」をテレビで初めてみたのですが、なんと2015年で引退するということで、今回がファイナル公演でした。世界的バレリーナが大晦日の深夜に日本でファイナル公演したのですから、驚きとともに、それをテレビでみながら新年を迎えることができ、とても幸運でした。
 今から思えば、昨年8月に行われたKBS京都のラジオ番組「本日、米團治日和。」での収録が古田先生の「ファイナル公演」でした。そのとき、米團治師匠からの「これからはどのような研究をされますか」という問いかけに古田先生は「やるべきことはやりました。」と答えられました。いつもなら「こんな発見がありました」とか「○○の研究をやります」と言われてきた先生でしたが、このときは違っていました。そしてわたしたちにあとを託されたのでした。
 2016年、古田先生のあとを託されたわたしたちによる、古田史学・多元史観の第二幕の始まりです。

 昨年12月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルは次の通りです。配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記【号外】」は「古田史学の会」会員限定サービスです。

 12月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル
2015/12/02 古田先生追悼会への御来賓とメッセージ
2015/12/04 「東京古田会ニュース」古田先生追悼特集号が届く
2015/12/05 荻上さんと八王子セミナー再開の相談
2015/12/09 「古田史学の会・東海」竹内会長・林さんと
2015/12/12 学問の方法に関する小論執筆
2015/12/18 30年ぶりに訪問「つかしん」
2015/12/21 繊維機械学会誌「せんい」へ寄稿要請
2015/12/25 学振第120委員会から講演要請
2015/12/27 facebookの輪が広がっています
2015/12/29 日本刀の祖「丙子椒林剣」


第1119話 2015/12/31

筑後国府「前身官衙」が出土

 今年最後の「洛中洛外日記」となりますが、地元久留米市の研究者、犬塚幹夫さんから教えていただいた筑後国府「前身官衙」の出土について紹介します。
 筑後国府の研究は江戸時代には行われており、17世紀後半頃には真辺仲庵(まなべちゅうあん)は高良山西麓の「府中」(御井町付近)に国府跡があると『北筑雑藁』に記しています。幕末の久留米藩士の矢野一貞は合川町の「フルゴウ」付近としました。付近には字地名「コミカド」(小朝廷)などもあり、久留米藩最後の御用絵師・三谷有信(1842〜1928)はその「小朝廷」の復元図『御井郡国府図』を書いています。
 現在までの発掘調査によれば、筑後国府は場所を移動させながら1期から4期までの遺跡が知られています。1期は最も西に位置し、高良山麓へ移動しながら4期が最も東側となります。このことから筑後国府は他の国府には見られないほど長期間にわたり存続したことになります。しかも、最新の発掘調査では1期の遺構にそれよりも古い「前身官衙」が発見されたとのこと。
 現在の考古学編年ではこの「前身官衙」を7世紀中頃から末としていますが、北部九州の7世紀頃の編年は大和朝廷一元史観の影響により50年ほど新しく編年されている可能性が高いので、おそらくこの「前身官衙」は6世紀末から7世紀前半までさかのぼるのではないかと、わたしは考えています。
 今までの九州王朝研究の成果から考えると、九州年号の倭京元年(618)に多利思北孤が太宰府遷都するまで、5〜6世紀頃は九州王朝の国王・天子は「玉垂命」を襲名しながら筑後に都をおいたと考えられていますから、その宮殿遺構の候補として筑後国府跡や同「前身官衙」が比定できるのではないかと考えています。これからの考古学調査と分析が必要です。同時に文献史学との整合性をもった研究も重要です。おそらく2016年はこうした研究が一層進展することでしょう。そのためにも犬塚さんら地元研究者への期待が高まります。
 それでは読者の皆様、よいお年をお迎えください。新年も「洛中洛外日記」をさらに充実させていきますので、お力添えをお願い申しあげます。


第1118話 2015/12/31

久留米市高三潴から出土した銅鐸

 久留米の実家でテレビを見ていると太宰府天満宮の初詣のコマーシャルなどがあり、九州ならではと感じます。
 昨日、犬塚幹夫さんから久留米市高三潴遺跡から銅鐸が出土していたことを教えていただきました。このことをわたしは全く知りませんでした。しかも出土した場所が高三潴ということで更に驚いたのです。高三潴といえば、大善寺玉垂宮の近くで初代の玉垂命の墳墓があるところです。この墳墓は貝殻で造られており、弥生時代の遺跡で銅剣などが出土しています。その地域から小型銅鐸が出土したのです。昨年の発掘調査で出土したとのことで、まだ発掘調査報告書は出ていないそうです。
 玉垂命は後の「倭の五王」へと続くのですが、初代はおそらく天孫降臨の時代(弥生時代前期末頃)の人物と思われますが、その故地から天孫降臨により滅ぼされた側のシンボルである銅鐸が出土したのですから、とても興味深く感じています。この銅鐸は筑後で出土した唯一のものとのことですから、なおさらです。出土状況や出土層の編年など、調査報告書の発行が待たれるところです。(つづく)


第1117話 2015/12/30

吉野河尻の井戸と威光理神(井氷鹿)

 今日は久留米に帰省し、JR久留米駅で犬塚幹夫さん(久留米市在住)とお会いしました。久留米市にある威光理神社の調査にご協力いただいたことは、「洛中洛外日記」925話でご紹介したところです。その犬塚さんと初めてお会いし、2時間以上にわたり筑後地方の古代史(神籠石・筑後国府・威光理神社)や九州年号についての調査報告をお聞きしました。
 さすがは地元の研究者の強みで、わたしが知らないことや、思いもつかなかった仮説や視点が次から次へと出てきました。中でも素晴らしい仮説と思ったのが、『古事記』神武記に見える吉野の河尻で井戸から井氷鹿が出現することに着目されたことで、なぜ川のそばなのに井戸があるのかという問題でした。
 川が近くにあれば井戸など不要なはずなのですが、佐賀や筑後の有明海付近の弥生時代の遺跡からは井戸が数多く見つかっているとのことで、その理由は、干満の差が大きい有明海付近では塩水が逆流することから、川からは安定して真水を得られないため、近くに川があるにもかかわらず真水を得るために井戸が掘られているとのことなのです。従って、有明海付近の筑後や肥前こそ、近くに川があっても井戸が必要な地域だというのです。
 従って、『古事記』に見える「吉野の河尻」とは奈良県の山奥の吉野川の上流付近(「河尻」ではない)が舞台ではなく、吉野ヶ里付近から有明海に流れ込んだ嘉瀬川下流域(河尻)付近の伝承とするわたしの説(神武東遷記事中の「天神御子」説話は天孫降臨説話「肥前侵略譚」からの盗用)を支持するものでした。
 このように『古事記』神武記の「河尻」にいた井氷鹿が「井戸」から登場するという記事には、深い背景があったわけです。このことに気づかれた犬塚さんの着眼点と解説には脱帽しました。犬塚さんのお話はさらに続きます。(つづく)


第1116話 2015/12/30

2015年の回顧『古田史学会報』編

 2015年に発行した『古田史学会報』126〜131号の掲載稿を下記に記しました(例会報告など事務連絡の類は省略しました)。
 昨年に続いて正木裕さんは精力的な研究発表を続けられました。また、古田史学入門編として「壹から始める古田史学」の連載も129号から開始されました。古田先生が亡くなられたことにより、わたしは「追憶・古田武彦先生」の連載を開始しました。
 常連組が安定した研究レベルにより優れた論稿を発表される一方、平田さん(“たんがく”の“た”)、安随さん(「唐軍進駐」への素朴な疑問)、清水さん(四国・香川県の史跡巡り)が会報デビューされました。中でも印象に残っているのが、安随さんの「『唐軍進駐』への素朴な疑問」です。意表を突かれたという意味でも好論でした。
 また、古田先生の最後の対談をラジオ番組でされた桂米團治さんのオフィシャルブログからの転載も感慨深いものとなりました。投稿していただいた皆様に御礼申し上げます。

『古田史学会報』126号(2月)
○平成二十七年、賀詞交換会のご報告  京都市 古賀達也
○犬を跨ぐ  山東省曲阜市 青木英利
○「室見川銘板」の意味するもの  奈良市 出野 正
○盗用された任那救援の戦い -敏達・崇峻・推古紀の真実-(下)  川西市 正木 裕
○先代旧事本紀の編纂者  高松市 西村秀己
○四天王寺と天王寺  八尾市 服部静尚
○盗用された「仁王経・金光明経」講話  川西市 正木 裕
○倭国(九州王朝)遺産10選(上)  京都市 古賀達也
○年頭のご挨拶  代表 水野孝夫

『古田史学会報』127号(4月)
○「張家山漢簡・居延新簡」と「駑牛一日行三百里」  川西市 正木 裕
○短里と景初 誰がいつ短里制度を布いたのか?  高松市 西村秀己
○“たんがく”の“た”  大津市 平田文男
○邪馬台国畿内説と古田説はなぜすれ違うのか  八尾市 服部静尚
○学問は実証よりも論証を重んじる  京都市 古賀達也
○「唐軍進駐」への素朴な疑問  芦屋市 安随俊昌
○『書紀』の「田身嶺・多武嶺」と大野城  川西市 正木 裕
○倭国(九州王朝)遺産10選(下)  京都市 古賀達也
○断念  古田武彦

『古田史学会報』128号(6月)
○網野銚子山古墳の復権  京丹後市 森茂夫
○「短里」の成立と漢字の起源  川西市 正木裕
○「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について  札幌市 阿部周一
○長者考  八尾市 服部静尚
○九州王朝の丙子椒林剣  京都市 古賀達也
○「漢音」と「呉音」 皇帝の国の発音  札幌市 阿部周一

『古田史学会報』129号(8月)
○孫権と俾弥呼 -俾弥呼の「魏」への遣使と「呉」の孫権の脅威-  川西市 正木裕
○鞠智城と神籠石山城の考察  京都市 古賀達也
○四国・香川県の史跡巡り  神戸市 清水誠一
○大化改新論争  八尾市 服部静尚
○「相撲の起源」説話を記載する目的  京都市 岡下英男
○九州・四国に多い「みょう」地名  京都市 古賀達也
○会代表退任のご挨拶  水野孝夫
○代表就任のご挨拶  古賀達也
○「壹」から始める古田史学1  古田史学の会事務局長 正木裕

『古田史学会報』130号(10月)
○「・多利思北孤・鬼前・干食」の由来  川西市 正木裕
○「権力」地名と諡号成立の考察  京都市 古賀達也
○「仲哀紀」の謎  千歳市 今井俊國
○九州王朝にあった二つの「正倉院」  松山市 合田洋一
○「熟田津」の歌の別解釈(一)  札幌市 阿部周一
○「壹」から始める古田史学2
 古田武彦氏が明らかにした「天孫降臨」の真実  古田史学の会・事務局長 正木裕
○「桂米團治さんオフィシャルブログ」より転載
○『盗まれた「聖徳太子」伝承』出版記念講演会の報告  服部静尚
○「坊ちゃん」と清  高松市 西村秀己

『古田史学会報』131号(12月)
○古田武彦先生ご逝去の報告  古田史学の会・代表 古賀達也
○古代の真実の解明に生涯をかけた古田武彦先生  古田史学の会・事務局長 正木裕
○追憶・古田武彦先生(1)
 蓮如生誕六百年に思う  古田史学の会・代表 古賀達也
○「桂米團治さんオフィシャルブログ」より転載
 「古田武彦先生、逝去」
○昭和44年11月12日 読売新聞第二社会面
 邪馬台(ヤマタイ)国ではなく邪馬壹(ヤマイ)国
○「みょう」地名について -「斉明」と「才明」-  松山市 合田洋一
○垂仁紀の謎  千歳市 今井俊國
○「熟田津」の歌の別解釈(二)  札幌市 阿部周一
○「ものさし」と「営造方式」と「高麗尺」  八尾市 服部静尚
○「壹」から始める古田史学3
 古代日本では「二倍年暦」が用いられていた  古田史学の会・事務局長 正木裕
○割付担当の穴埋めヨタ話⑧ 五畿七道の謎  高松市 西村秀己