第2501話 2021/06/24

年輪年代測定値の「100年誤り」説 (1)

 関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)が指摘された、炭素14年代測定での国際補正値と日本補正値とで、弥生時代や古墳時代では100年程の差が生じるケースについて調査していましたら、年輪年代測定値もAD640年以前では実際よりも100年古くなるという見解があることを知りました。鷲崎弘朋さんという方の説で、「考古学を科学する会」という団体のサイト(注)に次の記事がありました。

【以下転載】
第80回 2019年5月24日 年輪年代法による「弥生古墳時代の100年遡上論」は誤り(鷲崎弘朋)

 年輪年代法で、弥生中後期および古墳開始期が通説より100年遡上した(池上曽根遺跡等)。しかし、肝心の標準パターンと基礎データは非公開でブラックボックス。また、飛鳥奈良時代の建造物でAD640年以前を示す事例(法隆寺五重塔等)は、記録と全て100年以上乖離があり100年修正すると整合する。
 光谷実拓氏のヒノキ新旧標準パターンのうち旧パターンは飛鳥時代で接続を100年誤り、弥生古墳時代の100年遡上は全てこの誤った「旧標準パターン」に起因する。なお、新標準パターンは正しいが、古代の測定事例はまだほとんど無い。

①旧標準パターン:1990年作成(BC317~AD1984) 全国各地のパターンの寄せ集め。
②新標準パターン:2005~2007年作成(BC705~AD2000) 木曽系ヒノキだけで2700年間をカバー。
 (後略)
【転載終わり】

 わたしは年輪年代測定法は1年単位で年代が判断できる優れた方法と評価してきましたので、この鷲崎さんの指摘に驚いています。もちろん、その当否を判断できるほどの知見を持っていませんので、何とも言えないのですが、もしこの指摘が妥当であれば、古田学派での研究や諸仮説についても影響を受けるものがありそうです。知り合いの考古学者にたずねてみたところ、鷲崎さんの説は有名で、考古学界内では賛否両論があるとのことでした。(つづく)

(注)考古学を科学する会 https://koukogaku-kagaku.jimdofree.com/%E6%A6%82%E8%A6%81%EF%BC%98/80/


第2500話 2021/06/23

関川尚功さんとの古代史談義(3)

―なぜ古墳から木簡が出土しないのか―

関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)は様々な問題意識をお持ちで、その中に〝なぜ古墳から木簡が出土しないのか〟というものがあり、わたしも同様の疑問を抱いていたので、意見交換を行いました。
国内で出土した木簡は7世紀中頃のものが最古で、紀年が記されたものでは、前期難波宮址の「戊申年」(648年)木簡が最も古く(注①)、次いで芦屋市の三条九之坪遺跡からの「元壬子年」(652年、九州年号の白雉元年)木簡があります(注②)。
一般的には水分を多く含んだ地層から出土しており、普通の地層では木簡は腐食し、残りにくいとされています。古墳石室内の環境では腐食が進み、木簡が遺らないのではないかと推定しています。あるいは木簡を埋納する習慣そのものがなかったのかもしれません。
他方、中国では漢代の竹簡が出土しており、油分を含む竹であれば材質的に遺存しやすいようにも思います。ところが、関川さんによれば、古墳時代の日本には竹簡に使用できるような竹がなかったとのことでした。孟宗竹のわが国への伝来は遅かったということを聞いたことはありますが、竹取物語など竹に関する古い説話(注③)があるので、古代から竹は日本列島にあったのではないかと文献を根拠に反論すると、「古墳から出土しない以上、古墳時代の日本には竹は伝来していなかったと判断せざるをえない」と、関川さんは考古学者らしく、出土事実に基づいて説明されました。しかし、鏃が出土しているので、細い〝矢竹〟はあったはずとのことでした。
古代の日本と中国における木簡と竹簡の採用事情が、情報記録文化の差によるものか、湿度などの自然環境の差によるものなのか、興味深い研究テーマです。先行研究論文などを読んでみることにします。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」419話(2012/05/30)〝前期難波宮の「戊申年」木簡〟
古賀達也「洛中洛外日記」1984~1985話(2019/09/07-08)〝難波宮出土「戊申年」木簡と九州王朝(1)~(2)〟
②古賀達也「木簡に九州年号の痕跡 ―「三壬子年」木簡の史料批判―」『「九州年号」の研究 ―近畿天皇家以前の古代史―』ミネルヴァ書房、2012年。
古賀達也「『元壬子年』木簡の論理」同上。
③『万葉集』(巻十六、3791番長歌の詞書)に「竹取の翁」の説話が見える。


第2499話 2021/06/22

関川尚功さんとの古代史談義(2)

―古墳の巨大化は畿内から―

 6月19日の古代史講演会後の関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)との古代史談義の一つに、〝古墳の巨大化〟についてがありました。関川さんによれば、古墳が巨大化するのは大和からであり、弥生時代の先進地域である北部九州ではないとのこと。なぜ大和で最初に古墳が大型化したのか、その理由の解明が必要とされました。
 おそらく、通説では大和で自生した大和政権(後の大和朝廷)が箸墓古墳などの大型前方後円墳を造営し、全国に影響力を拡げたということになるのですが、古田説(九州王朝説)ではこの現象をあまりうまく説明できていません。従来は、高句麗との交戦状態にあった九州王朝(倭国)には、大型古墳を造営する余力がなかったためと説明してきました。古田学派内ではこの説明で納得してもらえるのですが、通説を支持する人への説得力は残念ながら有していません。なぜなら、〝列島内最大規模の巨大古墳群を造営できる大和・河内の勢力こそが列島の代表王朝〟とする単純簡明な論理構造が「頑強」だからです。
 関川さんは、通説とも異なる視点でこの問題を考えておられました。畿内大和の箸墓古墳などを造営した勢力は、北部九州の鉄器製造技術を受容し、東海地方や吉備の土器も多数出土することから両地域の影響も色濃く受けています。他方、古墳を大型化する〝文化・風習〟は山陰・北陸などの弥生時代の大型墳丘墓の影響を受けたのではないかとされました。
 こうした古墳時代前期の大和の考古学的事実は、どのような歴史的背景の存在があって成立したのか、多元史観・九州王朝説による説明が必要です。(つづく)


第2498話 2021/06/21

『古代に真実を求めて』25集の原稿募集

 過日の「古田史学の会」会員総会でも紹介しましたように、『古代に真実を求めて』編集長が服部静尚さんから大原重雄さんに交替となりました。服部さんには7年間にわたり、「古田史学の会」発行書籍の編集責任者を担当していただき、後世に残る優れた書籍を発行していただきました。本稿末尾にその一覧を掲載しています。まだお持ちでない方は、ぜひ書店・アマゾンにてご注文ください。出版不況が続いており、本会発行書籍の販売部数も伸び悩んでいます。皆様のご支援をお願いいたします。
 新編集長の大原さんには、既にリモート編集会議を主宰していただき、来春発行予定の『古代に真実を求めて』25集の企画検討を進めています。25集への投稿を下記の通り募集します。会員の皆様のご投稿をお待ちしています。

□古田史学論集 第25集『古代に真実を求めて』原稿募集

1.特集テーマは「古代史の争点」として、邪馬壹国・倭の五王の時代・聖徳太子・大化改新を扱います。
 ○一般論文 1万5千字以内  ○コラム 2千字程度
2.原稿は、PDFではなく、WORDファイルを添付してメール送信してください。
3.採否は編集部にお任せください。
4.締め切り 2021年9月末
5.宛先 大原重雄さん hidetya@kyoto.zaq.ne.jp

□服部静尚さんが編集された「古田史学の会」書籍一覧

『古代に真実を求めて』明石書店
18集 盗まれた「聖徳太子」伝承 (2015年)
19集 追悼特集 古田武彦は死なず (2016年)
20集 失われた倭国年号《大和朝廷以前》 (2017年)
21集 発見された倭京 ―太宰府都城と官道― (2018年)
22集 倭国古伝 ―姫と英雄(ヒーロー)と神々の古代史― (2019年)
23集 「古事記」「日本書紀」千三百年の孤独 ―消えた古代王朝― (2020年)
24集 俾弥呼と邪馬壹国 ―古田武彦『「邪馬台国」はなかった』発刊50周年― (2021年)

『邪馬壹国の歴史学 ―「邪馬台国」論争を超えて―』ミネルヴァ書房(2016年)


第2497話 2021/06/20

関川尚功さんとの古代史談義(1)

―炭素14年代測定の国際補正値と日本補正値―

 昨日、奈良新聞本社ビルで開催された古代史講演会(注)での関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)の講演は、考古学者として出土事実にこだわる氏の気概と熱意、そして学問に対しての誠実なお人柄を感じさせるものでした。講演会後の懇談の場においても様々な知見を紹介していただきました。また、関川さんは長野県出身とのことで、古田先生が松本深志高校で教鞭をとっておられたことをご存じでした。そうしたこともあって、会話が弾みました。そこでの貴重な意見や古代史談義を紹介します。
 関川さんの一貫した主張は、考古学は出土事実に基づかなければならず、文献史学や理化学に〝寄りかかる〟のではなく、それぞれが対等な立場で切磋琢磨すべきというもので、考古学者として真っ当なご意見と思いました。その上で、それぞれの結論が一致すれば、より強力な見解となり、異なっていれば更に研究・検討を深めることになるとのこと。わたしも、この考え方や姿勢に大賛成です。
 講演でも、炭素14年代測定値について、国際標準補正値(IntCal)と日本補正値(JCal)とでは、弥生時代から古墳時代にかけてズレが大きく、国内の出土物の場合はより正確な国内補正値を使用しなければならないと指摘されました。たとえば、纒向遺跡出土物(桃の種)の測定に国際補正値を使用すると古くなり(100~250年)、それが「邪馬台国」時代とする根拠に使われたりするが、国内補正値であれば4世紀となるので、「邪馬台国」大和説に有利となる国際補正値による年代発表は問題であるとされました。
 この他にも、大きな木材の場合は年輪差があり、サンプリング部位によっては遺跡より古い年代を示すことがあり(「古木効果」と呼ばれる)、測定値をそのまま遺跡の年代判定に使用すべきではないことを、同一遺跡の複数の測定値を示して指摘されたのが印象的でした。(つづく)

(注)「古田史学の会」他、関西の古代史研究団体の共催による古代史講演会。6月19日(土)、奈良新聞本社ビル。
 講師 関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)
 演題 考古学から見た邪馬台国大和説 ―畿内ではありえぬ邪馬台国―
 講師 古賀達也(古田史学の会・代表)
 演題 日本に仏教を伝えた僧 ―仏教伝来「戊午年」伝承と雷山千如寺・清賀上人―


第2496話 2021/06/19

関西例会、古代史講演会、会員総会を開催

 本日、先月に続いて奈良新聞社本社ビルで「古田史学の会」関西例会が開催されました。午後は元橿原考古学研究所員の関川尚巧(せきがわ・ひさよし)さんをお招きして、恒例の古代史講演会(共催)と「古田史学の会」会員総会を開催しました。7月例会は福島区民センター(参加費500円)で開催します。
 リモートテストには、西村秀己さん(司会担当・高松市)、冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)、野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)、別役政光(古田史学の会・会員、高知市)らが参加されました。
 今回、最も注目されたのが、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の発表でした。薬師寺東塔擦銘は後代(11世紀)に追刻されたとする町田甲一説などを紹介され、同擦銘の分析により、藤原京にあった本(もと)薬師寺は九州王朝の中宮天皇らによる寺であったとする仮説です。質疑応答の中で、同仮説が更に展開され、飛鳥における「天皇」「皇子」木簡なども九州王朝のものとする見解が示されました。わたしとしては賛成することに躊躇する内容でしたが、根拠や論理性が明確な鋭い仮説で、従来の服部説をより徹底した見解でもあることから、論文発表を要請しました。
 なお、発表者はレジュメを30部作成されるようお願いします。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

 コロナ禍と雨天にもかかわらず、古代史講演会には50名のご参加があり、盛況でした。その後、講師の関川先生を囲んで、古代史談義に花が咲きました。
 会員総会では、事業報告・予算・決算・会計監査報告・人事など全てが滞りなく承認されました。また、『古代に真実を求めて』編集長を7年間勤められた服部さんに替わり、大原重雄さんが就任されました。ご出席いただいた皆さん、ありがとうございました。詳細は『古田史学会報』次号にて報告されます。

〔6月度関西例会の内容〕
①共存はしていない倭王武と武寧王(大山崎町・大原重雄)
②本薬師寺は九州王朝の寺(八尾市・服部静尚)
③「驛」記事についてのまとめ(東大阪市・萩野秀公)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(「三密」回避に大部屋使用の場合は1,000円)
07/17(土) 10:00~17:00 会場:福島区民センター
 ※コロナによる会場使用規制のため、緊急変更もあります。最新の情報をホームページでご確認下さい。

《関西各講演会・研究会のご案内》
 ※コロナ対応のため、緊急変更もあります。最新の情報をご確認下さい。

◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 参加費500円
 06/22(火) 10:00~12:00 会場:奈良新聞社本社西館3階
 「伊勢王④」 講師:正木 裕さん(大阪府立大学講師)

◆「市民古代史の会・東大阪」講演会 会場:東大阪市 布施駅前市民プラザ(5F多目的ホール) 資料代500円
 06/26(土) 14:00~16:30 「天孫降臨と神武東征 ―神話と歴史―」 講師:服部静尚さん
 07/24(土) 14:00~16:30 「邪馬壹国と卑弥呼の世界」 講師:服部静尚さん

◆「市民古代史の会・京都」講演会 会場:キャンパスプラザ京都 参加費500円
 07/22(木・祝) 13:30~16:30
「考古学から見た邪馬台国 ―畿内ではありえぬ邪馬台国―」 講師:関川尚巧さん(元橿原考古学研究所員)
「考古学から見た邪馬壹国 ―博多湾岸説―」 講師:正木 裕さん(古田史学の会・事務局長)

◆誰も知らなかった古代史の会 会場:福島区民センター 参加費500円
 《未定》

◆「和泉史談会」講演会 会場:和泉市コミュニティーセンター(中集会室)
 《未定》


第2495話 2021/06/18

「倭の五王」以前(3~4世紀)の銅鐸圏

 ―倭国(銅矛圏)と狗奴国(銅鐸圏)の衝突―

 関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)が『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)で、弥生時代の纒向遺跡がその終末期には銅鐸使用の終焉を迎えており、4世紀になると箸墓古墳の造営が始まったことを紹介されました。これは大和における〝銅鐸勢力の滅亡〟を意味する考古学的出土事実と思われます。
 古田先生が考古学について著された『ここに古代王朝ありき』(注②)を併せ読むと、弥生時代終末期には西日本各地の銅鐸勢力(狗奴国:古田説)が圧迫され、箸墓古墳などの前方後円墳を造営する勢力(倭国)が東へ東へと侵攻したことがわかります。
 こうした、銅矛勢力(倭国)から銅鐸勢力(狗奴国など)への軍事侵攻説話が『古事記』『日本書紀』中に記されていることを、古田先生は『盗まれた神話』(注③)で明らかにされてきました。近年では正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が、近江の後期銅鐸勢力圏への侵攻説話が『古事記』『日本書紀』にあることを発表されました。〝神功紀(記)の「麛坂王・忍熊王の謀反」とは何か〟(注④)という論文で、近江の銅鐸圏への侵攻説話が神功紀(記)に取り込まれているとする仮説です。
 この正木説は有力と思うのですが、正木稿では近江の銅鐸圏征討の年代を3世紀末とされており、大和の銅鐸終焉時期を弥生時代末期とする関川説と整合しているのか、精査が必要です。いずれにしても、銅鐸圏を制圧しながら、古墳文化が東へと拡大を続けるわけですから、九州王朝の全国制覇の時代として古墳時代を検討する必要に迫られています。
 なお、通説ではこの現象を〝大和政権による全国統一の痕跡〟とするのですが、関川さんによれば、北部九州の鉄器製造技術が箸墓造営時期に大和に入ったとされますから、やはり古田説のように、北部九州の勢力が大和の勢力(神武の子孫ら)を伴って銅鐸圏を制圧しながら全国統一を進めたと理解せざるを得ないと思います。鉄器製造技術を北部九州から導入した大和の勢力が同時期にその北部九州にも侵攻し、前方後円墳を造営しながら、東西へ将軍を派遣し全国統一したとする通説は論理的ではありません。それでは、北部九州の勢力があまりに〝お人好し〟過ぎるからです。
 そうすると、大阪難波から出土した古墳時代中期(5世紀)最大規模の都市遺構(注⑤)は、九州王朝(倭国)による東征軍の軍事拠点とする理解へと進みそうです。この理解は、通説だけではなく、従来の古田説(近畿天皇家による関西地方制圧)にも修正を迫ることになりますので、別途、詳述したいと思います。

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古田武彦『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』「第二章 銅鐸圏の滅亡」朝日新聞社、昭和五四年(1979)。ミネルヴァ書房より復刻。
③古田武彦『盗まれた神話 記・紀の秘密』「第十章 神武東征は果たして架空か」朝日新聞社、昭和五十年(1975)。ミネルヴァ書房より復刻。
④正木裕〝神功紀(記)の「麛坂王・忍熊王の謀反」〟『古田史学会報』156号、2020年2月。
⑤杉本厚典「都市化と手工業 ―大阪上町台地の状況から」(『「古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―」資料集』、大阪市博物館協会大阪文化財研究所、2018年12月)に次の解説がある。
 「難波宮下層遺跡は難波宮造営以前の遺跡の総称であり、5世紀と6世紀から7世紀前葉に分かれる。大阪歴史博物館の南に位置する法円坂倉庫群は5世紀、古墳時代中期の大型倉庫群である。ここでは床面積が約90平米の当時最大規模の総柱の倉庫が、16棟(総床面積1,450㎡)見つかっている。」
 南秀雄「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」(『研究紀要』第19号、大阪文化財研究所、2018年3月)には次の指摘がなされている。
 「何より未解決なのは、法円坂倉庫群を必要とした施設が見つかっていない。倉庫群は当時の日本列島の頂点にあり、これで維持される施設は王宮か、さもなければ王権の最重要の出先機関となる。」
 「全国の古墳時代を通じた倉庫遺構の相対比較では、法円坂倉庫群のクラスは、同時期の日本列島に一つか二つしかないと推定されるもので、ミヤケではあり得ない。では、これを何と呼ぶか、王権直下の施設とすれば王宮は何処に、など論は及ぶが簡単なことではなく、本稿はここで筆をおきたい。」


第2494話 2021/06/17

「倭の五王」の王都、もう一つの古田説

―「南朝劉宋時代」(5世紀)は朝倉・小郡市中心―

 本年11月開催予定の八王子セミナーにて、〝「倭の五王」の時代の考古学 ―古田武彦「筑後川の一線」の再評価―〟という研究発表をさせていただく予定ですが、その準備として古田先生の関連著作の精読を続けています。中でも、その時代(5世紀)の王都の所在地についてがテーマの一つとされていますので、古田説がどのように変遷してきたのかについて調査し、「洛中洛外日記」2470話(2021/05/24)〝「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(11) ―古田説の変遷とその論理構造―〟で次のように報告しました。要約して転載します。

(1)『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(1973)。
〝五世紀末には、太宰府南方の基肄城あたりを中心としていた時期があったように思われる。〟同書「第五章 九州王朝の領域と消滅」「遷都論」、557頁

(2)『古代の霧の中から 出雲王朝から九州王朝へ』徳間書店、昭和六十年(1985)。
〝以上の分析によってみれば、この倭国の都、倭王の居するところ、それは九州北岸、すなわち博多湾岸以外にありえないのではあるまいか。〟同書「第五章 最新の諸問題について」、308頁

(3)「『筑後川の一線』を論ず ―安本美典氏の中傷に答える―」『東アジアの古代文化』61号、平成元年(1989)。
〝これに対し、もし、遠く時間帯を「五世紀後半~七世紀」の間にとってみれば、いわゆる装飾古墳が、まさに、「筑後川以南」に密集し、集中している姿を見出すであろう。(中略)直ちに北方より「侵入」されやすい北岸部を避け、「筑後川という、大天濠の南側」に“神聖なる墳墓の地”を「集中」させることになったのではあるまいか、(後略)。〟同書115~116頁

(4)『古田武彦の古代史百問百答』東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)編、ミネルヴァ書房、平成二六年(2014)。
〝「博多湾岸が中心であったのは弥生時代。高句麗からの圧力を感じるようになってからは後退していきます。久留米中心に後退します。(中略)筑後川流域に中心が移るわけです。移ったからと言って、太宰府を廃止して移ったのではなく、表は太宰府、実際は久留米付近となるわけです。二重構造になっているわけです。」〟同書「Ⅶ 白村江の戦いと九州王朝の滅亡」「32 九州の紫宸殿について」、212頁

 このように、古田先生はそのときどきの著作で、「倭の五王」の王都について論じられてきました。昨日、古田先生の晩年の著書『俾弥呼』(注①)を再読したところ、次の記述があることに気づきました。

〝「女王国」を、弥生時代の博多湾岸中心と考えても、あるいは「南朝劉宋時代」の朝倉・小郡市中心と考えても、いずれにせよ「東方、千里」は、瀬戸内海をはるかに越え、大阪府茨木市の「東奈良遺跡」を中心とする領域へと至らざるをえない。そういう表記なのである。〟144頁

 これは狗奴国の所在地を、『後漢書』「倭伝」(注②)に記された「東方、千里」を長里とみなして、大阪府茨木市の「東奈良遺跡」を中心領域とする説明部分です。ここでは、〝「南朝劉宋時代」の朝倉・小郡市中心〟とあるように、『宋書』の「倭の五王」時代(5世紀)の王都を「朝倉・小郡市中心」とされています。同書は2011年発刊ですから、古田先生最晩年頃の見解と思われます。
 なお、『古田武彦の古代史百問百答』(注③)では王都の所在地が「久留米市付近」とありますが、同書は東京古田会で『古田武彦と「百問百答」』として、2006年に出版されたものをリニューアルして2014年に刊行されたものです。2006年の旧版には(4)の記事はみつかりませんから、再版に際して付加されたようです。従って、どちらの見解が古田先生の最終的な認識かは、今のところ不明です。

(注)
①古田武彦『俾弥呼(ひみか)』ミネルヴァ書房、平成二三年(2011)。
②范曄(398~445年)『後漢書』では「拘奴国」と表記。
③古田武彦『古田武彦が語る多元史観』ミネルヴァ書房、東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)編、平成二六年(2014)。


第2493話 2021/06/16

近畿の古墳時代開始の古田説と関川説

 「倭の五王」研究においては、文献史学と考古学の双方の整合と両立が不可欠です。特に考古学においては、古墳時代の編年の問題を避けては語れません。この点、古田学派の研究動向をみると、考古学分野の論考が残念ながら充分とはいえません。何よりも、わたし自身の勉強不足を痛感してきたからです。そうしたこともあって、元橿原考古学研究所員の関川尚巧さんの『考古学から見た邪馬台国』(注①)はとても勉強になっています。
 同書をもう十回近くは読みましたが、面白いことに気づきました。それは古田先生の見解と重要な部分で一致、あるいは対応しているケースが散見されることでした。一例をあげれば、近畿(畿内)における古墳時代の開始年代が一致しているのです。それは次の通りです。
 「洛中洛外日記」で紹介してきたところですが、関川さんは最古の大型前方後円墳とされる箸墓古墳の造営年代について次のように述べられています。

〝最古の大型前方後円墳である箸墓古墳の年代というものは、実際の所、前期後半とされる4世紀後半頃より大きく遡ることは考えられないということになる。〟『考古学から見た邪馬台国』131頁

 古田先生は『ここに古代王朝ありき』(注②)で、次のように説明されています。

〝噂はともあれ、確かなこと、それは”近畿の「弥生中期」「弥生後期」は九州の「弥生中期」「弥生後期」よりもおくれている”――この事実だ。そのことは当然、次のことを意味するであろう。”近畿の古墳時代の開始は、九州の古墳時代よりもおくれているのではないか”という問いだ。
 (中略)
 そしてそのことは、近畿における古墳時代の開始は、右の三一六年よりもあとに、ずれおちることを意味する。つまり、近畿における古墳時代の開始は、早くても、四世紀中葉を遡らない、ということになるのである。〟『ここに古代王朝ありき』251頁

 表現は若干異なりますが、両者とも従来説とは異なる視点により、近畿(畿内)の古墳造営開始を四世紀前半頃とされています。古田先生の著作は昭和五四年(1979)のものですから、四十年以上も前の論理的考察結果が、最新の橿原考古学研究所による考古学的発掘事実に基づいた、関川さんの見解にほぼ一致していることに驚きました。
 この一致は、ただ単に近畿(畿内)の古墳時代の開始年代にとどまるものではありません。というのも、古田先生は続いて次の重要問題を提起されているからです。

〝このことは一体、何を意味するか。――すなわち、応神ー仁徳ー履中ー反正ー允恭ー安康ー雄略の各「天皇陵」を、五世紀の倭の五王と結びつけてきた、あの時間帯の定点――考古学上の根本定式の崩壊である。〟『ここに古代王朝ありき』252頁

 このように「倭の五王」を考古学的に検証するにあたり、古墳時代編年そのものから検証し、論じなければなりません。これにはかなりの研鑽が必要となります。本年11月に開催される八王子セミナーまでに、どれだけ勉強が進むかはわかりませんが、古田先生の関連著作だけはしっかりと精読するつもりです。

(注)
①関川尚巧『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古田武彦『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』「第四部 失われた考古学」朝日新聞社、昭和五四年(1979)。ミネルヴァ書房より復刻。

※「考古学上の根本定式」などについては別の機会に詳述します。


第2492話 2021/06/15

「倭の五王」以前(4世紀)の畿内大和

―大和の銅鐸の終焉を示す纒向遺跡―

 関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)は『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)において、4世紀に大和で政権が成立し、その政権が5世紀には河内・大和の巨大前方後円墳群を造営した「倭の五王」へ続くとされ、最古の大型前方後円墳とされる箸墓古墳の造営時期について4世紀後半頃とされています。

〝最古の大型前方後円墳である箸墓古墳の年代というものは、実際の所、前期後半とされる4世紀後半頃より大きく遡ることは考えられないということになる。〟131頁

〝箸墓古墳と纒向遺跡の発展は4世紀
 このようにみると、箸墓古墳の造営が始まり、纒向遺跡が最も拡大化する庄内式末期から布留式の初めにかけての時期というものは、やはり4世紀に入ってからのことであろう。近畿大和に邪馬台国の痕跡というものが確認できない以上、ここに邪馬台国の同時代の箸墓古墳や纒向遺跡が存在するなどということは、ありえることではないからである。〟158頁

 そして箸墓古墳がある纒向遺跡について、示唆に富む数々の考古学的事実を紹介されています。その一つが、大和における〝銅鐸圏勢力の滅亡〟についてです。

〝大和の銅鐸と銅鏡
 (前略)大和地域は、「銅鐸文化圏」とされる近畿地方の中で、銅鐸の出土数や生産においても、その中心地といえることはない。
 また大福・脇本遺跡では、鋳造関連遺物と出土した銅鐸片により、青銅製品の原料としての再利用が考えられているが、その時期はほぼ弥生時代の終末であり、庄内期には銅鐸の使用は終わっているとみられる。
 銅鐸は大和の弥生社会では重要な役割を果たしたと思うが、その出土地は、西方地域から導入されながらも次第に東方地域を志向しており、後半期には近江・東海系の銅鐸も出土しているのである。(中略)
 そして、大和の銅鐸使用の終焉を示すところが纒向遺跡であるということは、最も象徴的なことといえよう。銅鐸自体も、本来、銅鏡のように大陸と共通する遺物ではなく、その発達も九州以東の地域の中でのことであり、古墳につながるような遺物ではないことは明らかである。〟69~70頁

 〝纒向遺跡が最も拡大するのは、箸墓古墳の造営時期という、かなり新しい時期のことであることも、古墳群との関係性をよく示している。
 また、出土遺物についても、これまでの大和の弥生遺跡の傾向と、ほぼ同様であることが知られる。それは、金属器や大陸系遺物の少なさ、それに対する東方地域の土器の多さなど、いくつもの共通性に現れているのである。(中略)
 このように、弥生時代から続く大和の遺跡のもつ特質というものが、箸墓古墳の造営の直前までそのまま受け継がれていることは、大型前方後円墳出現の基盤ともなる遺跡の内容としては、やや意外ともいえる。〟74頁

 ここで関川さんが述べられていることは重要です。要約すれば次のことを意味しています。

(1)弥生時代の大和の遺跡は北部九州や大陸の影響がほとんど見られず、むしろ東海地方などの東方地域との交流の強さを示している。
(2)弥生時代の近畿は銅鐸圏に属しているが、大和はその中心地ではない。
(3)纒向遺跡は、箸墓古墳の造営が始まる直前(4世紀前半頃か)までは銅鐸圏としての様相を見せている。
(4)箸墓古墳が造営されるときには銅鐸勢力は大和から駆逐され、纒向遺跡は銅矛圏の領域として最も拡大した。

 以上の事実は、弥生時代終末期には大和から銅鐸勢力が駆逐され、箸墓古墳などの巨大前方後円墳を造営する勢力が侵攻・台頭したことを示しています。
 古田先生は『盗まれた神話』『ここに古代王朝ありき』(注②)において、神武東征説話は銅矛圏(天国勢力。後の九州王朝)から銅鐸圏への軍事侵攻であるとされました。そしてその数百年後、神武の子孫達は奈良盆地を制圧し、更に銅鐸圏の中枢領域である大阪方面(大阪湾岸・淀川流域)へと支配領域を拡張したことが『古事記』(神武記・崇神記・他)に記されていることを論証されました。この文献史学による古田説と、関川さんが紹介された考古学的出土事実は対応しているのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古田武彦『盗まれた神話 記・紀の秘密』「第十章 神武東征は果たして架空か」朝日新聞社、昭和五十年(1975)。ミネルヴァ書房より復刻。
 古田武彦『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』「第二章 銅鐸圏の滅亡」朝日新聞社、昭和五四年(1979)。ミネルヴァ書房より復刻。


第2491話 2021/06/14

「倭の五王」大和説と南・北九州説

 『宋書』に記された「倭の五王」を九州王朝(倭国)の王とする古田説は文献史学に基づく最も妥当な説ですが、他方、通説では大和の王達(後の大和朝廷)のこととされ、それは考古学に基づいた説とされています。たとえば、「邪馬台国」北部九州説を支持されている関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)は『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)において、4世紀に大和で政権が成立し、その政権が5世紀には「倭の五王」へ続くと述べられています。その根拠は他地域を凌駕する河内・大和の巨大古墳群の存在です。この論理(解釈)が、大和朝廷一元史観成立のための重要な根拠となっています。
 古田説と通説の他に、「倭の五王」南九州説というものもあります。江戸時代の学者、鶴峯戊申は『襲国偽僣考』(文政三年、1820年の序文を持つ。注②)において次のように主張しています。

 「允恭天皇十年。襲の王。讃。使を宋につかわす。」

 鶴峯は襲国を南九州の薩摩・大隅地方に比定していますから、「倭の五王」南九州説に立っています。
 このように、管見では「倭の五王」について、古田先生の北部九州説(九州王朝説)と通説の大和説、そして鶴峯の南九州説があります。これら三説にはそれぞれに根拠があり、それは次のようなことです。

〔古田説:王都は北部九州〕
 『宋書』の史料批判により、北部九州にあった邪馬壹国の後継王朝であることは明らか。→文献史学の成果に基づく。

〔通説:王都は大和〕
 5世紀における河内・大和の巨大古墳群の存在や、列島最大規模の都市遺構も難波から出土しており、それらは倭国・倭王の墳墓・都市にふさわしい。→考古学的事実に基づく。

〔鶴峯説:王都は南九州〕
 『宋書』など中国正史に見える倭国は大和朝廷ではない。南九州には九州島内最大規模の西都原古墳群がある。→文献史学と考古学的事実に基づく。

 ちょっと大雑把な説明ですが、おおよそ以上のようになります。三説の中で、文献史学と考古学の双方に根拠を持つのが、江戸時代の鶴峯説であることは意外な感じがします。わたしたち古田学派にとっても、この三説の優劣を検証することが、一元史観の論者を説得するためにも学問的に必要な作業です。(つづく)

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②鶴峯戊申『襲国偽僣考』「やまと叢誌 第壹号」(養徳會、明治二一年、1888年)所収。


第2490話 2021/06/14

『古田史学会報』164号の紹介

 先週、『古田史学会報』164号が発行されましたので紹介します。一面に掲載された服部稿は、わが国おける仏教や仏典受容に関する考察で、古田学派における同分野での先駆的な研究の一つです。古田史学での仏典受容史研究については、古田先生が『失われた九州王朝』(第三章 高句麗王碑と倭国の展開 「阿蘇山と如意宝珠」)で触れられたのが最初です。そこでの示唆を受けて、わたしも論稿(注)を発表したことがあります。

 今回の服部稿は、九州王朝の時代において、女性が法華経と無量寿経(阿弥陀信仰)をどのような経緯で受け入れたのか(支持したのか)という従来にない新たな視点で論じられたもので、注目されます。女性の仏教信仰や関連仏典に関しては、「女人成仏」をテーマとした多くの論考が宗教関連学界で発表されていますが、多元史観・九州王朝説に基づく研究はまだ少なく、過去には古田先生が講演会で、「トマスの福音書(ナグ・ハマディ文書)」研究に関わって触れられたことがあり、今井俊圀さん(古田史学の会・全国世話人、千歳市)により、「『トマスによる福音書』と『大乗仏典』 古田先生の批判に答えて」(『古田史学会報』74号、2006年6月)が発表されたことがある程度です。今後の後継研究の登場が待たれます。

 164号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』164号の内容】
○女帝と法華経と無量寿経 八尾市 服部静尚
○会員総会と古代史講演会のお知らせ
○九州王朝の天子の系列(中) 川西市 正木 裕
利歌彌多弗利から、「伊勢王」へ
○何故「俀国」なのか 京都市 岡下英男
○斉明天皇と「狂心の渠」 今治市 白石恭子
○飛鳥から国が始まったのか 八尾市 服部静尚
○「壹」から始める古田史学・三十
多利思北孤の時代Ⅶ ―多利思北孤の新羅征服戦はなかった― 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○編集後記 西村秀己

(注)古賀達也「九州王朝仏教史の研究 ―経典受容記事の史料批判」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。