第2616話 2021/11/19

水城築造年代の考古学エビデンス (1)

  先日開催された八王子セミナー(注①)では、エビデンスを重視するという姿勢が従来以上に強調されました。他方、古代山城や水城の造営年代を「倭の五王」の頃(5世紀)とする見解が複数の方から発表されましたが、発掘調査報告書には造営年代が五世紀まで遡るという確かな考古学エビデンスは見えず、七世紀後半代とするものがほとんどであるとわたしは理解しています。セミナーでは説明時間が充分になかったこともあり、改めてそれらの考古学エビデンスを紹介します。
 まず古代山城ですが、鞠智城は七世紀初頭(多利思北孤の時代)まで造営年代が遡る可能性があります。その考古学エビデンスは、出土した炭化米の炭素同位体比年代測定で、AD590~640年(6世紀後半~7世紀中葉)の値が出されています。このことは「洛中洛外日記」などで紹介してきたところです(注②)。
 その他の古代山城の造営年代についても、たとえば鬼ノ城からの500余点の出土遺物は飛鳥Ⅳ~Ⅴ期(7世紀末~8世紀初頭)のものであり、古墳時代的な古い杯Hは出土していません。永納山城では城の東南隅の谷奥で築造当時の遺構面が発見され、7世紀末から8世紀初めの須恵器が出土しています。御所ヶ谷城からは7世紀第4四半期の須恵器長頸壺と8世紀前半の土師器(行橋市 2006年)、鹿毛馬城からは8世紀初めの須恵器水瓶などが出土しています。これらの出土事実も「洛中洛外日記」(注③)で紹介しました。仮に土器編年にぶれや誤りがあったとしても、5世紀まで200年も遡るとは考えられないのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古田武彦記念 古代史セミナー2021 ―「倭の五王」の時代― 。公益財団法人大学セミナーハウス主催、2021年11月13~14日。
②古賀達也「洛中洛外日記」1201話(2016/06/05)〝鞠智城出土炭化米のC14測定年代〟
 古賀達也「鞠智城創建年代の再検討 ―六世紀末~七世紀初頭、多利思北孤造営説―」『多元』135号、2016年9月。
③古賀達也「洛中洛外日記」2609話(2021/11/05)〝古代山城発掘調査による造営年代〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2612話(2021/11/11)〝鬼ノ城、礎石建物造営尺の不思議〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2613話(2021/11/12)〝鬼ノ城、廃絶時期の真実〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2614話(2021/11/13)〝古代山城の廃絶と王朝交替〟


第2615話 2021/11/18

「倭の五王」通説2論を拝聴

 先日開催された八王子セミナー2021のテーマ「倭の五王」について、通説に基づくお二人の講演・講義を拝聴しました。一人は、同セミナーで特別講演(注①)された河内春人さん(関東学院大学准教授)。もう一人は、三重大学のリモート公開講座(注②)で講義された小澤毅さん(三重大学教授)です。小澤さんの著書『古代宮都と関連遺跡の研究』(注③)については「洛中洛外日記」などで紹介したことがあり(注④)、以前から注目してきた研究者です。
 両氏は通説に基づいておられ、『宋書』に見える「倭の五王」を「大和朝廷」の天皇とする点は共通しており、古田先生が批判された論点を超えたものとは思われませんが、『宋書』と『日本書紀』との齟齬について、新たな解釈を試みられています。他方、河内や大和の巨大前方後円墳と『日本書紀』の天皇を自説のエビデンスとしており、この点は従来説と変わりありません。
 このような通説に対して、古田先生は『宋書』の史料批判により「倭の五王」と『日本書紀』の天皇は一致しないことを既に論証されています。古田学派に残された最大の課題は、次の考古学的事実の九州王朝説による合理的な説明です。

(1)なぜ前方後円墳の巨大化は四世紀の大和で始まったのか。
(2)なぜ大和や河内に日本列島最大の巨大古墳群が誕生したのか。
(3)なぜ九州島内最大の前方後円墳群が五世紀の日向・大隅で誕生したのか。

 これらは「九州王朝説に刺さった三本の矢」(注⑤)の《一の矢》として問題視してきたテーマとその関連事象です。通説よりも説得力のある論証を作り上げたいと、わたしは何年も考え続けています。

(注)
①河内春人「五世紀の倭王権とその実態」、古田武彦記念 古代史セミナー2021 ―「倭の五王」の時代― 特別講演。公益財団法人大学セミナーハウス主催、2021年11月13日。
②小澤毅「倭の五王とは誰か」、三重大学人文学部公開講座。2021年11月17日。同公開講座の開講を竹内順弘氏(古田史学の会・事務局次長)よりお知らせ頂いた。
③小澤毅『古代宮都と関連遺跡の研究』吉川弘文館、2018年。小澤氏は「邪馬台国」北部九州説論者である。
④古賀達也「洛中洛外日記」1963話(2019/08/14)〝〔書評〕小澤毅著『古代宮都と関連遺跡の研究』一元史観からの「最大古墳は天皇陵」説批判〟
 古賀達也「〔書評〕小澤毅著『古代宮都と関連遺跡の研究』 天皇陵は同時代最大の古墳だったか」『古田史学会報』156号、2020年2月。
⑤古賀達也「九州王朝説に刺さった三本の矢」『古田史学会報』135、136、137号、2016年8、10、12月。
 古賀達也「洛中洛外日記」1221~1254話(2016/07/03~08/14)〝九州王朝説に刺さった三本の矢(1)~(15)〟において、古田学派が説明しなければならないテーマとして、次の3点を指摘した。
【九州王朝説に突き刺さった三本の矢】
《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿(河内・大和)。
《二の矢》六世紀末から七世紀にかけての列島内での寺院(現存・遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿。
《三の矢》全国に評制施行した九州王朝最盛期の七世紀中頃において、国内最大の宮殿・官衙群遺構は北部九州(大宰府政庁)ではなく大阪市の前期難波宮(面積は大宰府政庁の約十倍。東京ドームが一個半入る)であり、国内初の朝堂院様式の宮殿でもある。


第2614話 2021/11/13

古代山城の廃絶と王朝交替

 鬼ノ城の廃絶・縮小が九州王朝から大和朝廷への王朝交替を契機として発生したことを前話(注①)で説明しましたが、熊本県の鞠智城でも同様の大変化がこの時期に発生したことがわかっています。向井一雄さんの「鞠智城の変遷」(注②)には次の説明があります。

〝少なくとも8世紀初頭以降、鞠智城は新規の建築はなく、停滞期というよりも一旦廃城となっている可能性が高い。貯水池の維持停止もそれを裏付けよう。最前線の金田城が廃城になり、対大陸防衛の北部九州~瀬戸内~畿内という縦深シフトからも外れ、九州島内でも防衛正面から最も遠い鞠智城が8世紀初頭以降も大野城と同じように維持されたというのは、これまで大きな疑問であったが、『8世紀代一時廃城』説が認められるのならば、疑問は解消される。〟89頁

 鞠智城「8世紀代一時廃城」説を裏付ける出土土器量の変化について、木村龍生さん(熊本県立装飾古墳館分館歴史公園鞠智城温故創生館)からいただいた報告集(注③)によれば、鞠智城は築城から廃城まで5期に分けて編年されています。次の通りです。

【Ⅰ期】7世紀第3四半期~7世紀第4四半期
【Ⅱ期】7世紀末~8世紀第1四半期前半
【Ⅲ期】8世紀第1四半期後半~8世紀第3四半期
【Ⅳ期】8世紀第3四半期~9世紀第3四半期
【Ⅴ期】9世紀第4四半期~10世紀第3四半期

 Ⅰ期は鞠智城草創期にあたり、663年の白村江の敗戦を契機に築城されたと考えられています。城内には堀立柱建物の倉庫・兵舎を配置していたが、主に外郭線を急速に整備した時期とされています。
 Ⅱ期は隆盛期であり、コの字に配置された「管理棟的建物群」、八角形の堂宇的構造物が建てられ、『続日本紀』文武二年(698年)条に見える「繕治」(大宰府に大野城・基肄城・鞠智城の修繕を命じた。「鞠智城」の初出記事)の時期とされています。
 Ⅲ期は転換期とされており、堀立柱建物が礎石建物に建て替えられます。しかしこの時期の土器などの出土が皆無に等しいとのことです。次のようです。

〔参考資料〕鞠智城出土土器数の変化(注④)
年代          出土土器個体数
7世紀第2四半期    10
7世紀第3四半期    23(鞠智城の築城)
7世紀第4四半期~8世紀第1四半期 181
8世紀第2四半期     0
8世紀第3四半期     0
8世紀第4四半期    40
9世紀第1四半期     5
9世紀第2四半期     4
9世紀第3四半期    88
9世紀第4四半期    30
10世紀第1四半期     0
10世紀第2四半期     0
10世紀第3四半期     8(鞠智城の終焉)

 Ⅱ期に相当する7世紀第4四半期~8世紀第1四半期には181個の土器が出土していますが、次のⅢ期の50年間(8世紀第2四半期~8世紀第3四半期)は0となり、鞠智城は〝無土器化・無人化〟の様相を呈します。この現象から、鞠智城も鬼ノ城と同様に701年(ONライン)の王朝交替による激変を迎えたことがわかります(注⑤)。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2613話(2021/11/12)〝鬼ノ城、廃絶時期の真実〟
②向井一雄『鞠智城跡Ⅱ ―論考編2―』熊本県教育委員会編、2014年11月。
③貞清世里「肥後地域における鞠智城と古代寺院について」『鞠智城と古代社会 第1号』熊本県教育委員会、2013年。
④柿沼亮介「朝鮮式山城の外交・防衛上の機能の比較研究からみた鞠智城」『鞠智城と古代社会 第2号』熊本県教育委員会、2014年。

繕治された大野城・基肄城・鞠智城とその他の古代山城 P291 第3図 肥後跡の遺構と遺物

繕治された大野城・基肄城・鞠智城とその他の古代山城 P291 第3図 肥後跡の遺構と遺物
柿沼亮介「朝鮮式山城の外交・防衛上の機能の比較研究からみた鞠智城」『鞠智城と古代社会 第2号』熊本県教育委員会、2014年。

⑤古賀達也「洛中洛外日記」981話(2015/06/14)〝鞠智城のONライン(701年)〟


第2613話 2021/11/12

鬼ノ城、廃絶時期の真実

 造営尺に前期難波宮と同じ1尺29.2cmが採用されている鬼ノ城の礎石建物群(7棟を検出)ですが、その縮小・廃絶時期にも興味深い現象がありました。『史跡鬼城山2』(注①)によれば、鬼ノ城礎石建物群の造営から廃絶までを次のように説明しています。

〝出土した土器の様相から礎石建物群が機能していた時期の中心は8世紀前半と考えられるが、今回の調査で柱痕跡から柱間を計測した建物6や建物7は、造営尺が29.2~29.5㎝付近と古い傾向を示しており、礎石建物群の建設は7世紀後半代にさかのぼる可能性も十分ある。〟144頁
〝建物群は7世紀末の飛鳥時代に整備され、8世紀前半を中心に機能し、8世紀後半まで存続していたと考えられる。〟145頁

 土器編年では7世紀末から8世紀前半が中心とされた礎石建物群ですが、造営尺(29.2~29.5㎝付近)は前期難波宮造営尺と近似していることから、7世紀後半代の可能性が十分にあるとの指摘です。すなわち、飛鳥編年を基準とした既存土器編年が、鬼ノ城では25年(四半世紀)ほどずれている可能性を示唆しています。この傾向は太宰府や鞠智城出土須恵器(杯G、杯B)でもうかがえました(注②)。
 『史跡鬼城山2』に掲載された鬼ノ城の活動時期を示す「第185図 鬼城山城内各地区の消長」(注③)によれば、鬼ノ城内はⅠ~Ⅴの5地区に分けられ、礎石建物群はⅡ区にあります。このⅡ区以外は「8世紀初頭」に一斉に活動を停止しており、Ⅱ区の礎石建物群も同時期に活動の痕跡が激減し、9世紀になると再び〝備蓄倉庫〟としての再利用が始まるとされています。実年代と土器編年にぶれ(土器編年では25年ほど新しく編年される)があることを考慮すると、7世紀中葉頃から同末期まで活発な活動を示していた鬼ノ城がその直後に廃絶、あるいは縮小していることになり、これは九州王朝から大和朝廷への王朝交替が背景にあったと考えられます。すなわち、王朝交替した701年(大宝元年)のONラインの時期に鬼ノ城の廃絶・縮小が起こっているのです。
 他方、『史跡鬼城山2』では通説(大和朝廷一元史観)に基づき、次のように説明しています。

〝Ⅰ区では片付けによる土器の廃棄行為により土器溜まり1が形成されたと考えられている。以後、Ⅰ区では顕著な遺構が見られなくなることから、この時期に鬼城山の運営に何らかの変化を読み取ることができる。この土器の廃棄時期は8世紀初頭ごろと考えられ、これに関して想起されることは、この時期の文献記事に古代山城の廃城記事が見られることである(701年高安城廃城、719年茨城・常城廃城)。鬼城山もこのような古代山城をめぐる情勢と無関係ではなかったと考えられ、Ⅰ区の廃絶は、まさにそのような時代の情勢を反映している可能性が高い。
 その後、鬼城山は礎石建物群を中心に機能したと考えるが、その役割は、山城としての軍事施設から、倉庫としての備蓄施設へと変化したものと推測される。礎石建物群は8世紀後半ごろまで存続したものと思われるが、礎石建物群の廃絶をもって、築城以来続いてきた鬼城山の役割はここで終焉を迎えたものと考えられる。〟175頁

 ここにいう「古代山城をめぐる情勢」とは具体的に何なのか、「701年高安城廃城、719年茨城・常城廃城」がなぜこの時期に発生したのかについては説明されていません。しかし、考古学報告書にこの説明を求めるのは〝酷〟というもので、文献史料の説明責任は文献史学側にあります。そして、この事象を最も合理的に説明できる仮説が、古田説(多元史観・九州王朝説)に基づいた九州王朝から大和朝廷への王朝交替であることはわたしたち古田学派にとっては自明のことです。
 以上のように、古代山城研究においても多元史観・九州王朝説の視点は不可欠であると思われます。

(注)
①『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告書236 史跡鬼城山2』岡山県教育委員会、2013年。
②古賀達也「鞠智城と神籠石山城の考察」『古田史学会報』129号、2015年8月。
③「第185図 鬼城山城内各地区の消長」、①の174頁。

史跡 鬼城山2 2013 岡山縣教育委員会

史跡 鬼城山2 2013 岡山縣教育委員会

第185図鬼城山各地区の消長 第186図鬼城山における時期別変遷

『史跡鬼城山2』P174
鬼城山における時期別変遷、各地区の消長


第2612話 2021/11/11

鬼ノ城礎石建物造営尺の不思議

 向井一雄さんの著書『よみがえる古代山城』(注①)に、鬼ノ城の礎石建物の造営尺を1尺29.2cmとする記事があることを「洛中洛外日記」などで紹介しました(注②)。そこで、同遺跡発掘調査報告書を探したところ、『史跡鬼城山2』(注③)に詳述されており、鬼ノ城の建造物には複数の造営尺が使用されているようです。
 鬼ノ城内からは古代の礎石建物跡が7棟発見されています。何れも計画的に配置されており、同時期の造営と見られ、報告書では次のように説明されています。

〝鬼城山で検出した礎石建物群は、総柱建物の高床倉庫と側柱建物の管理棟で構成されていた。建物群は7世紀末の飛鳥時代に整備され、8世紀前半を中心に機能し、8世紀後半まで存続していたと考えられる。建物の規模はいずれも大きく、規格性や配置に計画性が認められるほか、高床倉庫と考えられる総柱建物は、郡衙正倉に共通した特徴があり、単に軍事施設の倉庫としてだけではなく、備蓄施設としての役割も担っていたと考えられる。〟145頁

 「規格性や配置に計画性が認められる」とあるように、礎石建物1~7の使用された基準尺は次の通りです。

 建物名 桁基準尺 梁基準尺 面積  機能(推定)
 建物1 31.0㎝ 32.2㎝ 43㎡  高床倉庫
 建物2 29.2㎝ 29.2㎝ 27.5㎡ 高床倉庫
 建物3 29.6㎝ 29.0㎝  44㎡  高床倉庫
 建物4 31.8㎝ 31.4㎝ 51㎡  高床倉庫
 建物5 29.3㎝ 29.5㎝ 114㎡  管理棟
 建物6 29.2㎝ 29.2㎝ 112㎡  管理棟
 建物7 29.5㎝ 29.2㎝ 38㎡  高床倉庫
  ※「表3 城内礎石建物一覧」(143頁)より抜粋。

 この基準尺について、次のような説明がなされています。

〝建物の上屋部分の構造について検討する材料として、建物6で2か所、建物7で2か所の礎石確認柱痕跡がある。総柱建物、側柱建物の両方で丸柱を利用しており、直径は45~50㎝程度と大きなものである。建物造営時の基準尺については、表3に示した。数値にばらつきがあるが、今回の調査で全容が判明した建物で、なおかつ柱痕跡から柱間寸法を計測できる建物については、29.2~29.5㎝の範囲でそろっている。〟143頁

 このように前期難波宮の基準尺29.2㎝と近似の尺で造営されていることは、鬼ノ城の築城年代や築城勢力を推定するうえで重要です。他方、31㎝以上の基準尺が併用されている可能性もあり、そうであれば、前期難波宮でも宮と条坊で異なった基準尺が採用されていることとの類似も注目すべきと思われます。前期難波宮の場合、宮(1尺29.2㎝)と条坊(1尺29.49㎝)が異なる尺により同時期に造営されており(注④)、この点も鬼ノ城礎石建物と同様の現象といえそうです。同じ遺構の造営に、異なる基準尺が併用されているという現象は、異なる基準尺を採用する複数の技術者集団により、その遺構が造営されたと考えざるを得ませんが、それにしても不思議な現象ではないでしょうか。
 なお、鬼ノ城礎石建物の造営尺に前期難波宮と同じ29.2㎝が採用されていることは、築城時期についても7世紀中葉の可能性を示唆するものと注目しています。調査報告書にも次のような指摘があり、このことも注目されます。

〝出土した土器の様相から礎石建物群が機能していた時期の中心は8世紀前半と考えられるが、今回の調査で柱痕跡から柱間を計測した建物6や建物7は、造営尺が29.2~29.5㎝付近と古い傾向を示しており、礎石建物群の建設は7世紀後半代にさかのぼる可能性も十分ある。〟144頁

(注)
①向井一雄『よみがえる古代山城 国際戦争と防衛ライン』吉川弘文館、2017年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2589話(2021/10/11)〝鬼ノ城と前期難波宮の使用尺が合致〟
 古賀達也「古代山城研究の最前線 ―前期難波宮と鬼ノ城の設計尺―」(未発表)
③『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告書236 史跡鬼城山2』岡山県教育委員会、2013年。
④古賀達也「都城造営尺の論理と編年 ―二つの難波京造営尺―」『古田史学会報』158号、2020年6月。


第2611話 2021/11/10

『多元』No.166掲載

「『古事記』序文の『皇帝陛下』」の紹介

 先日、友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.166が届きました。同号の一面に拙稿「『古事記』序文の『皇帝陛下』」を掲載していただきました。ご評価頂き有り難いことです。
 同稿は、15年ほど前に古田先生との意見交換(内実は論争)で何度も対立したテーマを紹介しました。それは、『古事記』序文に見える「皇帝陛下」を唐の天子とするのか、通説通り元明天皇とするのかという問題で、ついには古田先生のご自宅まで呼び出され、長時間の論争となった、いわく付きのテーマでした。今となっては懐かしい限りですが、当時は先生から散々叱られて、泣きそうになりました。しかし、自らが正しいと思うことについては頑張ってみるもので、最終的には通説でよいとする論文を先生は『多元』(注)で発表されました。
 ご自宅での論争の数日後、先生は書き上げたばかりの二百字詰め原稿用紙30枚に及ぶ「お便り」を拙宅まで持参され、その最後には「わたしは古賀さんを信じます」の一言が付されており、激しい〝師弟論争〟も「破門」されることなく終わりました。31歳のあの日、古田先生の門をたたいてから35年が過ぎました。先生からはよく叱られ、何歳になっても震え上がったものです。

(注)古田武彦「古事記命題」『多元』80号、2007年7月。


第2610話 2021/11/06

古田先生と安徳大塚古墳の想い出

 最近、安徳大塚古墳(注①)を邪馬壹国の女王俾弥呼(ひみか)の墓ではないかとする見解があることを知りました。20年ほど前の話しですが、わたしも同じことを古田先生に述べ、叱られたことがありましたので、当時のことを懐かしく想い出しました。
 それは2003年5月26日のことでした。福岡市で開催された古田先生の講演会の翌日、小林嘉朗さん(古田史学の会・現副代表)や当地の会員さんら(クルマ2台を出していただきました)と共に古田先生と那珂川町の安徳台遺跡調査を行いました(注②)。小雨が降る中、ぬかるみに足をとられ泥だらけになりながらの調査でしたので今でもよく憶えています(クルマの中も泥だらけにしてしまいました)。
 当日は、春日市の「奴国の丘歴史資料館」・熊野神社(須玖岡本山に鎮座)を初め、那珂川町の安徳台(あんとくだい)遺跡・裂田溝(さくたのうなで)・現人(あらひと)神社・安徳大塚古墳等を訪れたのですが、主たる目的は「奴国の丘歴史資料館」に展示されている須玖岡本出土の虁鳳鏡見学と、古田先生が俾弥呼の墓の候補とされた春日市須玖岡本山にある熊野神社社殿下の墳丘墓調査でした。
 笹などに覆われた安徳大塚古墳(墳丘全長約64m)に登りましたが、樹木に遮られて視界があまり良くなく、墳丘の全体像は確認できませんでした。那珂川町のパンフレットには福岡平野最古の前方後円墳とあり、後円部の規模が倭人伝の表記「径百余歩」(約25m)に近いので、わたしは不用意にも「卑弥呼の墓ではないでしょうか」などと口走ってしまい、先生から叱られました。
 その理由は、倭人伝には「径百余歩」とあることから、円墳と解さざるを得ないという点にあり、〝『三国志』の著者陳寿を信じとおす〟という学問の方法を貫かれた古田先生らしいものでした。今思えば、文献史学(倭人伝の史料批判)や考古学(古墳の編年)の研究成果や学問の方法を軽視した思いつきでした。
 わたしは、先生からは褒められるよりも叱られることの方が多かった〝不肖の弟子〟でしたが、どのようなことに対して古田先生が叱るのかについては、お陰さまでわかるようになりました。それは学問研究に関する〝不公正〟と古田学派内への〝非学問的対立〟の持ち込みでした。このことについてのわたしの体験も、おいおい紹介したいと思います。

(注)
①福岡県那珂川町安徳にある前方後円墳(方部が細長い手鏡型)。墳丘の全長約64m(前方部幅約20m、同長さ30m、後円部径約35m)。4世紀後半の福岡平野最古の前方後円墳とされる。
②古賀達也「五月二六日、卑弥呼(ひみか)の墓調査報告 安徳台遺跡は倭王の居城か」『古田史学会報』57号、2003年8月。


第2609話 2021/11/05

古代山城発掘調査による造営年代

 昨日、「古田武彦記念古代史セミナー2021」(八王子セミナー。注①)の予稿集が送られてきました。自説とは異なる論稿も収録されており、学問的刺激を受けています。わたしは〝学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる〟と考えていますので、こうした予稿集は自説を検証する上でも貴重であり、勉強になります。
 古墳や土器の他に神籠石山城なども当日のテーマになりそうですし、神籠石山城の築城年代を「倭の五王」の時代(5世紀)とする見解が古田学派内に以前からありますので、この機会に古代山城についてのわたしの知見を紹介しておきます。
 古代山城研究に於いて、わたしが最も注目しているのが向井一雄さん(注②)の諸研究です。向井さんの著書『よみがえる古代山城』(注③)から関連部分を下記に要約紹介します。

(1) 1990年代に入ると史跡整備のために各地の古代山城で継続的な調査が開始され、新しい遺跡・遺構の発見も相次いだ(注④)。
(2) 鬼ノ城(岡山県総社市)の発掘調査がすすみ、築城年代や城内での活動の様子が明らかになった。土器など500余点の出土遺物は飛鳥Ⅳ~Ⅴ期(7世紀末~8世紀初頭)のもので、大野城などの築城記事より明らかに新しい年代を示している。鬼ノ城からは宝珠つまみを持った「杯G」は出土するが、古墳時代的な古い器形である「杯H」がこれまで出土したことはない。
(3) その後の調査によって、鬼ノ城以外の文献に記録のない山城からも7世紀後半~8世紀初め頃の土器が出土している。
(4) 最近の調査で、鬼ノ城以外の山城からも年代を示す資料が増加してきている。御所ヶ谷城―7世紀第4四半期の須恵器長頸壺と8世紀前半の土師器(行橋市 2006年)、鹿毛馬城―8世紀初めの須恵器水瓶、永納山城―8世紀前半の畿内系土師器と7世紀末~8世紀初頭の須恵器杯蓋などが出土している。
(5) 2010年、永納山城では三年がかりの城内遺構探索の結果、城の東南隅の比較的広い緩やかな谷奥で築造当時の遺構面が発見され、7世紀末から8世紀初めの須恵器などが出土している。

以上のように古代山城の築城年代に関する考古学エビデンスは増え続けています。そして、その多くが7世紀後半以降の年代を示しています。古墳時代5世紀の築城とする遺物の出土報告は見えませんから、古代山城の築城年代は古く見ても7世紀頃であり、5世紀の倭の五王時代とする考古学エビデンスは見つからないとするのが、学問的な判断だとわたしは思います。

(注)
①古田武彦記念 古代史セミナー2021 ―「倭の五王」の時代―。主催:公益財団法人大学セミナーハウス。開催日:2021年11月13日~14日。共催:多元的古代研究会・東京古田会・古田史学の会・古田史学の会・東海。
②古代山城研究会代表。
③向井一雄『よみがえる古代山城 国際戦争と防衛ライン』吉川弘文館、2017年。

よみがえる古代山城 -- 国際戦争と防衛ライン

 

 

 

 

 

 

 

④播磨城山城(1987年)、屋島城南嶺石塁(1998年)、阿志岐山城(1999年)、唐原山城(1999年)など。


第2608話 2021/11/04

大化改新詔「畿内の四至」の諸説(4)

 佐々木高弘さんの「『畿内の四至』と各都城ネットワークから見た古代の領域認知 ―点から線(面)への表示―」(注①)には、畿内の四至以外にも重要な指摘がありました。それは大津京が畿内の外にあり、古代の都城ネットワークのなかでも異質の存在であるとの指摘です。近江大津宮が大和朝廷の畿内の外にあることは、今までも指摘されてきたことですが、歴史地理学の佐々木論文でも次のように記されています。

〝大津京を語る場合、当時の政治的問題や時代背景を無視できないのは周知のことであるが、ここでは図化されたものから論ずるにとどめる。
 第一に、大津京は畿外にあって王城の地「畿内」という定義をくずしている。(中略)「畿内の四至」の外に都城があるという絶対的な問題は解消できず、この時より従来の畿内制とは大きく変わって来ているという事が指摘できる。〟30~31頁

 ここで指摘されているように、大津京は畿内の定義をくずしており、従来の畿内制の概念とは大きく異なります。すなわち大津京は大和朝廷の畿内制から外れた都城ということです。これは近江大津宮を九州王朝の都とする古賀説(注②)や、同じく九州王朝系近江朝とする正木説に有利な指摘ではないでしょうか。
 歴史地理学にも多元史観を導入する事により、古代史研究に新たな視点や方法論が得られるように思われます。

(注)
①佐々木高弘「『畿内の四至』と各都城ネットワークから見た古代の領域認知 ―点から線(面)への表示―」『待兼山論叢』日本学篇20、1986年。
②古賀達也「九州王朝の近江遷都」『古田史学会報』61号、2004年4月。
③正木 裕「『近江朝年号』の実在について」『古田史学会報』133号、2016年4月。


第2607話 2021/11/02

大化改新詔「畿内の四至」の諸説(3)

 『日本書紀』大化二年正月条(646年)の大化改新詔には、畿内の四至を次のように記しています。

 「凡そ畿内は、東は名墾の横河より以来、南は紀伊の兄山(せのやま)より以来、〔兄、此をば制と云ふ〕、西は赤石の櫛淵より以来、北は近江の狭狭波の合坂山より以来を、畿内国とす。」『日本書紀』大化二年条(646年)

 各四至は次のように考えられています。。

(東)名墾の横河 「伊賀名張郡の名張川。」
(南)紀伊の兄山 「紀伊国紀川中流域北岸、和歌山県伊都郡かつらぎ町に背山、対岸に妹山がある。」
(西)赤石の櫛淵 「播磨国赤石郡。」
(北)近江の狭狭波の合坂山 「逢坂山。狭狭波は楽浪とも書く。今の大津市内。」

 最近、この畿内の四至をテーマとした興味深い論文を拝読しました。佐々木高弘さんの「『畿内の四至』と各都城ネットワークから見た古代の領域認知 ―点から線(面)への表示―」(注①)です。同論文は1986年に発表されており、わたしは不勉強のため近年までその存在を知りませんでした。佐々木さんは歴史地理学という分野の研究者のようで、同論文は次の文から始まります。

〝歴史地理学の仕事の一つは、過去の地理を復原することであり、つまりは人間の過去の地理的行動を理解するということにある。〟(注②)21頁

 このような定義に始まり、続いて同論文の学問的性格を次のように紹介します。

〝本稿では、そのいわば学際的立場をとっている歴史地理学の利点を更に拡張する意図もあって、行動科学の成果の導入を試みる。〟21頁

 そして大化改新詔の畿内の四至を論じます。その中で、当時の都(難波京)から四至の南「紀伊の兄山」についての次の指摘が注目されました。その要旨を摘出します。

(1) 難波京ネットワーク(官道)から南の紀伊国へ向かう場合、孝子峠・雄ノ山峠越えが最短距離である。このコースから兄山は東に外れている。
(2) このことから考えられるのは、この時代に直接南下するルートが開発されていなかったか、この記事が大化二年(646年)のものではなかったということになる。
(3) 少なくとも、難波京を中心とした領域認知ではなかった。
(4) 従って、この「畿内の四至」認識は飛鳥・藤原京時代のものである。
(5) 飛鳥・藤原京ネットワークは大化改新を挟んで前後二回あり、大化前代の飛鳥地方を中心(都)とした領域認知の可能性が大きい。

 以上が佐々木論文の概要と結論です。確かに兄山は飛鳥から紀伊国に向かう途中に位置し、もし難波からですと大きく飛鳥へ迂回してから紀伊国に向かうことになり、難波京の「畿内の四至」を示す場合は適切な位置にはありません。
 佐々木論文は通説(近畿天皇家一元史観)に基づいたものですから、その全てに納得はできませんが、都の位置により四至の位置は異なるという次の視点には、なるほどそのような見解もあるのかと勉強になりました。

〝日本の古代国家においては、都城の変遷が激しく、そのたびにこのネットワークが変化し、そして領域の表示も変化したのではないかと思われる。〟24頁

 この他にも佐々木論文には重要な指摘がありました。(つづく)

(注)
①佐々木高弘「『畿内の四至』と各都城ネットワークから見た古代の領域認知 ―点から線(面)への表示―」『待兼山論叢』日本学篇20、1986年。同論文はWEB上で閲覧できる。
②この視点はフィロロギーに属するものであり、興味深い。


第2606話 2021/11/01

大化改新詔「畿内の四至」の諸説(2)

 『日本書紀』大化二年正月条(646年)に見える大化改新詔について、古田学派内では次の三説が有力視されています。

(a) 九州年号「大化」の時代(695~704年)に九州王朝が発した大化改新詔が、『日本書紀』編纂により50年遡って「大化」年号ごと孝徳紀に転用された。
(b) 七世紀中頃の九州年号「常色」年間(647~651年)頃に九州王朝により、難波で出された詔であり、『日本書紀』編纂時に律令用語などで書き改められた。
(c) 孝徳紀に見える大化改新詔などの一連の詔は、九州王朝により九州年号「大化」(695~704年)年間に出された詔と同「常色」年間(647~651年)頃に出された詔が混在している。

 わたしは古田先生が主張された(a)の見解に立ち、大化改新詔(646年)に見える次の「建郡・郡司任命」記事を九州年号「大化」二年(696年)での〝廢評建郡〟の詔勅であったとする仮説(注)を発表し、この詔が出されたのは藤原宮としました。

 「凡そ郡は四十里を以て大郡とせよ。三十里以下、四里以上を中郡とし、三里を小郡とせよ。其の郡司には並びに国造の性識清廉(いさぎよ)くして時の務に堪ふる者を取りて大領・少領とし、強(いさを)しく聡敏(さと)しくして書算に工(たくみ)なる者を主政・主帳とせよ。」『日本書紀』大化二年正月条

 従って、この詔を発した実質的権力者は近畿天皇家の持統ではないでしょうか。他方、『日本書紀』には「大化二年」の「詔」と記され、九州王朝の年号「大化」を隠そうとしていないことから、大義名分上は九州王朝の天子による詔であったと考えました。王朝交代にあたり、おそらく「禅譲」という形式を持統は採用し、九州年号「大化二年(696)」に〝廢評建郡〟を九州王朝の天子に宣言させ、その事実を『日本書紀』では「大化」年号を50年遡らせて、九州王朝が実施した七世紀中頃の「天下立評」に換えて、大和朝廷が646年に「大化の建郡」を実施したとする歴史造作を行ったとしました。
 しかし、その後に服部静尚さんから「大化改新詔」を七世紀中頃のこととする(b)説が出され、正木裕さんからは(c)説が出されました。そうした研究を受けて、わたしは(a)説から(c)説へと見解を変えることになりました。こうした諸仮説に触発され、その中心的論点の一つとして畿内の四至問題について改めて調査研究を始めたところ、とても興味深い論文に出会いました。(つづく)

(注)古賀達也「大化二年改新詔の考察」『古田史学会報』89号、2008年12月。


第2605話 2021/10/31

大化改新詔「畿内の四至」の諸説(1)

 『日本書紀』大化二年正月条(646年)に見える大化改新詔については、通説(近畿天皇家一元史観)はもとより九州王朝説でも諸研究が発表され、その論点は多岐にわたります。
 現在では、大阪市法円坂から巨大な前期難波宮が出土したことにより、それまで古代史学界で有力視されていた大化改新虚構説が後退し、孝徳天皇の時代に難波を舞台として大化改新がなされ、『日本書紀』編纂時に律令用語(国司、郡司など)を用いて脚色されたとする大化改新実在説が通説(最有力な多数説)となりました。
 他方、古田学派内でも、九州王朝説に立つ「大化改新」説が発表されてきました。わたしの見るところ、次の三説が有力視されています。

(a) 九州年号「大化」の時代(695~704年)に九州王朝が発した大化改新詔が、『日本書紀』編纂により50年遡って「大化」年号ごと孝徳紀に転用された(注①)。
(b) 七世紀中頃の九州年号「常色」年間(647~651年)頃に九州王朝により、難波で出された詔であり、『日本書紀』編纂時に律令用語などで書き改められた(注②)。
(c) 孝徳紀に見える大化改新詔などの一連の詔は、九州王朝により、九州年号「大化」(695~704年)年間に出された詔と、同「常色」年間(647~651年)頃に出された詔が混在している(注③)。

 こうした論争が「古田史学の会」で本格化したのは2015年頃からでした。その時の様子を「洛中洛外日記」896話(2015/03/12)〝「大化改新」論争の新局面〟で次のように紹介しました。

〝古代史学界で永く続いてきた「大化の改新」論争ですが、従来優勢だった「大化の改新はなかった」とする説から、「大化の改新はあった」とする説が徐々に有力説となってきています。前期難波宮の巨大な宮殿遺構と、その東西から発見された大規模官衙遺跡群、そして7世紀中頃とされる木簡などの出土により、『日本書紀』に記された「大化の改新」のような事件があったと考えても問題ないとする見解が考古学的根拠を持った有力説として見直されつつあるのです。
 古田学派内でも服部静尚さんから、7世紀中頃に九州王朝により前期難波宮で「(大化の)改新」が行われたとする説が発表されており、九州年号の大化年間(695~703)に藤原宮で「改新」が行われたとする、「九州年号の大化の改新」説(西村秀己・古賀達也)と論争が展開されています。
 さらに正木裕さんからは、『日本書紀』の大化改新詔には、九州年号・大化期(7世紀末)の詔勅と7世紀中頃の「常色(九州年号)の改新」詔が混在しているとする説が発表されており、関西例会では三つ巴の激論が交わされているところです。〟

 現在も論争は継続しており、〝決着〟がつきつつある古代史学界での大化改新論争を超える、多元史観・九州王朝説に基づく「新・大化改新論争」の時代を古田学派は迎えています。今回は改新詔に見える都の四至(東西南北)に関する諸説を紹介します。
 大化改新詔には「畿内」の範囲を規定する次の四至記事があります。

 「凡そ畿内は、東は名墾の横河より以来、南は紀伊の兄山(せのやま)より以来、〔兄、此をば制と云ふ〕、西は赤石の櫛淵より以来、北は近江の狭狭波の合坂山より以来を、畿内国とす。」

 岩波の『日本書紀』頭注には、四至について次の解説があります。

(東)名墾の横河 「伊賀名張郡の名張川。」
(南)紀伊の兄山 「紀伊国紀川中流域北岸、和歌山県伊都郡かつらぎ町に背山、対岸に妹山がある。」
(西)赤石の櫛淵 「播磨国赤石郡。」
(北)近江の狭狭波の合坂山 「逢坂山。狭狭波は楽浪とも書く。今の大津市内。」

 「大化改新はあった」とする通説では、この四至の中心地、すなわち同詔を発した都は難波と解されるに至っています。(つづく)

(注)
①古田武彦「大化改新批判」『なかった』第五号、ミネルヴァ書房、2008年。
 古田武彦「蘇我氏と大化改新」『古田武彦の古代史百問百答』ミネルヴァ書房、2015年。
②服部静尚「畿内を定めたのは九州王朝か ―すべてが繋がった―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』十八集)明石書店、2015年。
 服部静尚「改新詔は九州王朝によって宣勅された」『古田史学会報』160号、2020年10月。
③正木 裕「『佐賀なる吉野』へ行幸した九州王朝の天子とは誰か(上・中・下)」『古田史学会報』140・141・142号、2017年6・8・10月。