第2441話 2021/04/23

『俾弥呼と邪馬壹国』読みどころ (その6)

大原重雄「メガーズ説と縄文土器 ―海を渡る人類」

 古田先生の『「邪馬台国」はなかった』で提起された諸説中、最も読者の評価が分かれたのが、同書最終章の一節「アンデスの岸に至る大潮流」に記された〝倭人の南米渡航説〟でした。倭人伝に見える次の記事を、倭人が太平洋を横断し、南米にあった裸国・黒歯国へ行ったと古田先生は理解されたのです。

 「また裸國・黑齒國有り。また其の東南に在り。船行一年にして至るべし。」『三国志』魏志倭人伝

 「この説は、読者がついてこれない。削除してはどうか」と編集者(注①)からの提案があり、刊行後も古田先生のご友人(最高裁判事)から「再版時に削除すべき」との忠告がありました。それでも古田先生は〝論理の導くところに従った結果〟であるため、そうした要請を謝絶されました。こうした〝いわくつきのテーマ〟を扱った論文を『俾弥呼と邪馬壹国』に収録しました。次の三編です。

○大原重雄「メガーズ説と縄文土器 ―海を渡る人類―」
○茂山憲史「古田武彦氏『海賦』読解の衝撃」
○古賀達也「バルディビア土器はどこから伝播したか ―ベティー・J・メガーズ博士の思い出―」

 なかでも大原論文は、バルディビア遺跡(エクアドル)から出土した南米最古の土器の製造技術を日本列島の縄文人が伝えたとするメガーズ博士(米、スミソニアン博物館)の説には同意できないというもので、南米大陸ではバルディビア土器よりも古い土器が出土しており、日本列島からの伝播とは断定できないとされました。もっとも、倭人が太平洋を渡った可能性までを否定されたわけではなく、考古学的出土事実に基づいて再検証を促されたものです。学問研究にとって貴重な提言ではないでしょうか。
 茂山論文は、『海賦』の記事に倭人が太平洋を横断した痕跡(イースター島のモアイ像やコンドルなどの描写、「裸人の国」「黒歯の邦」の表記がある)を古田先生が発見されたことの意義を改めて強調したものです。『海賦』は『文選』に収録された文章で、作者の木華は西晋の官僚です。すなわち、『三国志』を書いた陳寿と同時代の人物で、両者が南米にあった裸国・黒歯国を記録していたことは重要です。詳細は古田先生の『邪馬壹国の論理』(注②)をご覧下さい。
 わたしは、「縄文ミーティング」(注③)のために来日されたメガーズ博士の思い出と、当時のバルディビア土器についての学問論争を紹介しました。「洛中洛外日記」〝ベティー・J・メガーズ博士の想い出(1)~(4)〟で論じたテーマですので、ご参照下さい(注④)。

(注)
①『「邪馬台国」はなかった』は朝日新聞社から出版されたが、同書編集担当の米田保氏から「倭人の中南米への渡海説」削除の要請があった。古田先生はそれを拒絶され、米田氏も最終的に了解された。
②古田武彦『邪馬壹国の論理 ―古代に真実を求めて―』朝日新聞社、1975年。ミネルヴァ書房から復刊。
③1995年11月3日、東京の全日空ホテルで開催された。その内容は『海の古代史』(原書房、1996年)に載録されている。古田先生のご配慮により、わたしは録音係として傍聴する機会を得た。
④古賀達也「洛中洛外日記」2249~2252話(2020/10/04-6)〝ベティー・J・メガーズ博士の想い出(1)~(4)〟


第2440話 2021/04/22

「倭王(松野連)系図」の史料批判(7)

 ―祖先は天照大神か太伯か―

 多元史観・九州王朝説を支持する、わたしたち古田学派の研究者が「倭王(松野連)系図」を扱いにくかった理由として、史料批判の難しさがありましたが、より根源的には倭王の始祖を呉王夫差とする同系図の基本姿勢が、九州王朝の祖神を天照大神とする古田説と相容れなかったことにあります。すなわち、天孫降臨による〝建国〟なのか、中国からの移動による〝転国〟なのかという歴史の大枠に対する理解の問題があったのです。
 この問題は国家権力側にとっても、自らの権威の正統性にかかわる重要問題です。大和朝廷は『古事記』『日本書紀』で主張しているように、天照大神による「天壌無窮の神勅」(注①)による天孫降臨を自らの権威や支配の正統性の根拠としています。他方、日本の神々や皇祖と異国の君臣が混雑した系図系譜を厳しく取り締まっていることが『日本後紀』(注②)に記されています。

 「勅、倭漢惣歴帝譜図、天御中主尊標為始祖、至如魯王・呉王・高麗王・漢高祖命等、接其後裔。倭漢雑糅、敢垢天宗。愚民迷執、輙謂実録。宜諸司官人等所蔵皆進。若有挾情隠匿、乖旨不進者、事覚之日、必処重科。」『日本後紀』平城天皇大同四年(809年)二月五日条

 天御中主尊を始祖とし、中国や朝鮮の王家との繋がりが記されている『倭漢惣歴帝譜図』を「禁書」とする詔勅が記されています。この『倭漢惣歴帝譜図』の始祖伝承は、呉王夫差や太伯を始祖とする「倭王(松野連)系図」や『晋書』『梁書』の記述とは倭漢の関係性が真逆です。このような例もあることから、呉王夫差を始祖としながら、九州王朝の「倭の五王」へと繋がる「倭王(松野連)系図」の信頼性(史実性)を調べる作業、すなわち史料批判は困難を窮めるのです。(つづく)

(注)
①『古事記』「上巻」に次の記事がある。
 「この豊葦原水穂国は、汝知らさむ国ぞと言依さしたまふ。」
 『日本書紀』「神代下 第九段(一書第一)」に次の記事がある。
 「葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就(い)でまして治(し)らせ。行矣(さきくませ)。宝祚の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壌と窮(きわま)り無けむ。」
②『日本後紀』は『続日本紀』に続く正史で、六国史の第三にあたる。成立は承和七年(840年)で、延暦十一年(792年)から天長十年(833年)に至る42年間を記す。編者は藤原緒嗣ら。全40巻(現存10巻)。


第2439話 2021/04/21

「倭王(松野連)系図」の史料批判(6)

 ―「呉王夫差」始祖伝承の痕跡―

 前話に於いて、「倭王(松野連)系図」の少なくとも3世紀末・4世紀初頭から7世紀部分を編纂した松野連一族は、自らを「倭の五王」の後裔と主張していたとしました。次に、同系図のもう一つの主張、「呉王夫差」始祖伝承について検討します。
 鈴木真年氏の稿本「松野連倭王系図(静嘉堂文庫所蔵)」(注①)の冒頭部分には次の人物名が並びます。

 「夫差《呉王》 ― 公子慶父忌 ※― 阿弓《怡土郡大野住》 ― 宇閇《》 ― (後略)」《》内は傍注。
 「※― ○ ― ○― (中略) ―」(「公子慶父忌」からの枝分かれとして追記され、「阿弓」へと繫ぐ。)
 「※― 順《》 ― (八代略) ―」(「公子慶父忌」からの枝分かれとして追記され九代続き、同系図の「卑弥鹿文」の子供の位置に繫ぐ。)

 このように鈴木真年氏の稿本には複数の所伝が書き込まれており、複数の「松野連系図」に基づいて、異伝も加筆書写された姿を示しているようです。このことから、同系図のいずれかが現代も御子孫に伝わっている可能性があります。全国の松野姓の分布状況などを調査すれば、系図をお持ちの御子孫が見つかるのではないでしょうか(注②)。
 鈴木真年氏と親交のあった中田憲信氏による稿本「松野連倭王系図(国立国会図書館所蔵)」(注③)の冒頭部分は次のようです。

 「松野連 姫氏
 呉王夫差 ― 忌《字慶父》《孝昭天皇三年来朝 住火国山門菊池郡》 ― 順《字去□》《居于委奴》 ― 恵弓 ― (後略)」 《》内は傍注。□の字は、わたしの持つコピーからは読み取れない。

 鈴木真年氏の稿本とは異なっており、別の異本によるのかもしれません。しかし、呉王夫差を始祖とする点は同じですから、九州王朝内にこうした伝承を持ち、それを誇る氏族がいたと考えられます。このことを示唆する史料が中国史書にあります。唐代に成立した『晋書』と『梁書』です。

 「(前略)男子は身分の上下の別なく、すべて黥面文身(顔や身体に入墨)している。自ら、呉の太伯の後裔と謂う。(後略)」『晋書』倭人伝

 「倭は自ら呉の太伯の後裔と称している。風俗には、皆、文身(入墨)がある。(後略)」『梁書』倭伝

 『晋書』は3~5世紀の西晋・東晋、『梁書』は6世紀の梁を対象とした史書ですが、その著者は『晋書』が房玄齢(578~648年)、『梁書』が姚思廉(?~637年)。成立は『晋書』が648年、『梁書』が629年です。この7世紀前半に成立した両書に、「呉の太伯の後裔」記事が現れ、倭国からもたらされた情報であると記されています。
 史書ではありませんが、同じく唐代成立の『翰苑』(注④)の「倭国」条にも次の記事が見え、同条に引用されている『魏略』(注⑤)にも「自謂太伯之後」の記事があり、それによれば同伝承史料の存在が3世紀まで遡ることになり、注目されます。

 「文身黥面して、猶太伯の苗と称す。」『翰苑』30巻「倭国」

 「(前略)自帯方至女國万二千余里。其俗男子皆黥而文。聞其旧語、自謂太伯之後。昔夏后小康之子、封於会稽。断髪文身、以避蛟龍之害。今倭人亦文身、以厭水害也。」『翰苑』30巻「倭国」引用『魏略』

 これらの中国(唐)側の認識に対応しているのが、「倭王(松野連)系図」に記された〝主張〟です。同系図に遺された始祖伝承と通じる伝承(注⑥)が、7世紀前半成立の『晋書』『梁書』に記されていることから、同伝承の成立が7世紀前半以前であることがわかります。このことも、同系図の始祖伝承が後代の造作ではないことを指示しています。(つづく)

(注)
①尾池誠著『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』晩稲社、1984年、1頁。
②例えば、柿本人麻呂の御子孫「柿本氏」が佐賀県に分布しており、人麻呂を含む同氏の系図が伝わっている。その内の一つのコピーを古田先生からいただいている。機会があれば「洛中洛外日記」でも紹介したい。
③尾池誠著『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』晩稲社、1984年、4頁。
④唐代に張楚金によって書かれた類書。後に雍公叡が注を付けた。現在は、日本の太宰府天満宮に第30巻及び叙文のみが残る。
⑤中国三国時代の魏を中心に書かれた歴史書。著者は魚豢(ぎょかん)。成立年代は魏末から晋初の時期と考えられている。
⑥呉は中国の春秋時代に存在した国の一つで、国姓は姫(き)である。周王朝の祖の古公亶父の長子の太伯(泰伯)が次弟の虞仲と千余家の人々と共に建てた国とされ、紀元前12世紀から紀元前473年、7代の夫差まで続き、越王の勾践により滅ぼされた。従って、「倭王(松野連)系図」で始祖を呉王夫差とすることは、太伯を始祖とすることにもなる。


第2438話 2021/04/18

「倭王(松野連)系図」の史料批判(5)

 ―傍注「評制」記事の証言―

 「倭王(松野連)系図」に記されている傍注記事中に「評」や「評督」が見え、同系図の成立過程の一端をうかがうことができます。先に同系図傍注に次の評制(評督)記事があることを紹介しました(注①)。

 「牛慈」《金刺宮御宇 服従 為夜須評督》
 「長堤」《小治田朝評督 筑紫前国夜須郡松狭野住》
    ※「 」内は人物名。《》内はその傍注。

 これは7世紀頃の人物に付記されたもので、7世紀後半が評制期であることがわかっている現代のわたしたちにとっては当然の表記です。しかし、九州王朝から大和朝廷への王朝交替に伴い、8世紀から郡制に変更となります。この郡制は近代まで続いており、歴史学上の〝郡評論争(注②)〟以前の人々(系図蒐集者の鈴木真年を含む)には、そもそも評制という歴史概念さえありません。ですから後代(郡制の時代)において、「評」を「郡」に書き換えることはできても、「評」への改変造作は不可能なわけです。従って、同系図に見える「評制」記事は、7世紀後半時点であれば執筆可能な表記であり、すなわち、その記事原文は九州王朝時代に成立した可能性が高いのです。遅くとも、「評」の記憶が系図編纂者に残っている時代の成立と考えざるを得ません。
 こうした視点に立ったとき、同系図の次の傍注にわたしは着目しました。「倭の五王」の三世代前の「宇也鹿文」という人物の傍注です。

 「火国菊池評山門里住」(注③)

 「倭の五王」の三世代前なので、3世紀末から4世紀初頭に相当しますから、地名表記として「火国」は妥当ですが、「菊池評」という評制期の行政区画は存在しません。従って、この傍注は7世紀後半に成立したと考えられます。こうした史料状況により、少なくとも「宇也鹿文」から「牛慈」「長堤」までの系図部分は7世紀後半に成立したと考えることができます。同時に、このような「評制期」記事の後代造作は困難であるため、歴史事実を反映した傍注記事を持つ系図としての評価が可能です。
 こうした理解により、同系図の少なくとも3世紀末・4世紀初頭から7世紀部分を編纂した松野連一族は、自らを「倭の五王」の後裔と主張していたことになります。この理解は、「倭の五王」が近畿ではなく、北部九州(少なくとも肥後から筑後に至る範囲)を拠点とする王権(倭国)であったことを強く示唆します。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2436話(2021/04/16)〝「倭王(松野連)系図」の史料批判(4) ―松野連(まつのむらじ)と松野郷―〟。
②7世紀以前の行政区画名が『日本書紀』に見える「郡」とするのか、金石文や古代史料に遺る「評」とするのか、戦後の日本古代史学界で続いた学問論争。出土木簡などにより、650年頃から700年までは「評」、701年からは「郡」であることで決着した。古田武彦先生は、評制を九州王朝(倭国)が制定したものであり、王朝交替により大和朝廷が郡制に変更したとした。
③尾池誠著『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』晩稲社、1984年、63頁。「火国菊池評山門里」は熊本県菊池市付近が対応する。『和名抄』に「肥後国菊池郡山門郷」が見え、古代に遡る地名であることがわかる。


第2437話 2021/04/17

進展する7世紀の九州王朝研究

 本日、ドーンセンターにて「古田史学の会」関西例会が開催されました。5月もドーンセンター(参加費1,000円)開催です。今回はZoomシステムによるリモートテストとして、西村秀己さん(司会担当・高松市)、杉本三郎さん(古田史学の会・会計監査、伊丹市)、松中祐二さん(九州古代史の会・北九州市)、萩野秀公さん(古田史学の会・会員、東大阪市)が参加されました。「古田史学の会」会員でもある松中さんは二十年来の友人で、「古田史学の会」と「九州古代史の会」との交流開始にあたっては両会の橋渡し役をしていただきました。お昼休みの役員会もリモートで実施しました。
 今回の発表はいずれも7世紀の九州王朝を対象としたもので、ハイレベルで新たな視点があり、『日本書紀』や『万葉集』を読み込んでいなければ深く理解できないようなテーマでした。特に刺激を受けたのが、服部さんと正木さんの研究でした。服部さんは、九州王朝(倭国)が受容した仏典(法華経、無量寿経)の差異に着目され、十七条憲法は女性の推古よりも、男性の多利思北孤が公布したとする方が妥当と説明されました。このような着眼点は今までにはなかったもので、新鮮でした。
 正木さんは、『日本書紀』に見える持統の伊勢行幸記事(692年)は、その34年前の九州王朝の伊勢王による糸島半島「伊勢」行幸と蝦夷国への軍事行動記事が改変転記されたものとする仮説を発表されました。持統6年の伊勢行幸記事は矛盾や誇張が大きく、言われてみればおかしな内容でした。正木説はそれらを解決できる一つの仮説と思われました。

 なお、発表者はレジュメを30部作成されるようお願いします。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔4月度関西例会の内容〕
①日本書紀の前から作られた太子伝説 (大山崎町・大原重雄)
②仏教と聖徳太子 ―法華経と無量寿経― (八尾市・服部静尚)
③蘇我氏の時代の近畿に関する考察 (茨木市・満田正賢)
④柿本人麻呂「近江荒都歌」の解釈について (たつの市・日野智貴)
⑤「伊勢王」の呼称と糸島なる伊勢 (川西市・正木 裕)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費1,000円(「三密」回避に大部屋使用の場合)
05/15(土) 10:00~17:00 会場:ドーンセンター
06/19(土) 10:00~12:00 会場:福島区民センター
      ※午後は古代史講演会と会員総会を開催します。

◎古代史講演会 参加費:無料
 共催:古代大和史研究会、誰も知らなかった古代史の会、市民古代史の会・東大阪、市民古代史の会・京都、和泉史談会、古田史学の会
06/19(土) 13:00~16:00 会場:福島区民センター
「考古学から見た邪馬台国 ―畿内ではありえぬ邪馬台国―」 講師:関川尚功さん
 「考古学から見た邪馬壹国 ―博多湾岸説―(仮題)」 講師:正木 裕さん
 ※講演会終了後に「古田史学の会」会員総会を開催します。会員の皆さんのご参加をお願いします。

《関西各講演会・研究会のご案内》
 ※コロナ対応のため、緊急変更もあります。最新の情報をご確認下さい。

◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 参加費500円
 「古代大和史研究会」特別講演会のご案内
◇日時 2021/04/24(土) 13:00~17:00
◇会場 奈良新聞本社西館3階
◇参加費 500円
◇テーマ 卑弥呼と邪馬壹国『「邪馬台国」はなかった』出版50周年記念講演会
◇講師・演題(予定)
 古賀達也(古田史学の会・代表) 九州王朝官道の終着点 ―筑紫の都(7世紀)から奈良の都(8世紀)へ―
 大原重雄(『古代に真実を求めて』編集部) メガーズ説と縄文土器
 満田正賢(古田史学の会・会員) 欽明紀の真実
 服部静尚(『古代に真実を求めて』編集長) 日本書紀の述作者は中国人ではなかった
 正木 裕(古田史学の会・事務局長、大阪府立大学講師) 多賀城碑の解釈~蝦夷は間宮海峡を知っていた

 04/27(火) 10:00~12:00 会場:奈良県立図書情報館 交流ホールBC室
 「伊勢王」 講師:正木 裕さん(大阪府立大学講師)
 05/17(月) 13:00~17:00 会場:壽光寺コンサートホール
 「聖徳太子と仏教」 講師:服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)
 「能楽の淵源と筑紫の舞楽」 講師:正木 裕さん(大阪府立大学講師)
 05/25(火) 10:00~12:00 会場:奈良県立図書情報館 交流ホールBC室
 「伊勢王③」 講師:正木 裕さん(大阪府立大学講師)

◆誰も知らなかった古代史の会 会場:福島区民センター 参加費500円
 05/21(金) 18:30~20:00 「『神武東征説話』の再検討② 盗まれ地降臨神話」 講師:正木 裕さん

◆「市民古代史の会・東大阪」講演会 会場:東大阪市 布施駅前市民プラザ(5F多目的ホール) 資料代500円
 05/08(土) 14:00~16:30 「天孫降臨と神武東征 ―神話と歴史―」 講師:服部静尚さん

◆「市民古代史の会・京都」講演会 会場:キャンパスプラザ京都 参加費500円
 04/29(火) 13:00~16:00開催中止
開催中止 「聖徳太子と仏教」 講師:服部静尚さん
開催中止「九州王朝官道の終着点」 講師:古賀達也

◆「和泉史談会」講演会 会場:和泉市コミュニティーセンター(中集会室)
 《未定》


第2436話 2021/04/16

「倭王(松野連)系図」の史料批判(4)

 ―松野連(まつのむらじ)と松野郷―

 「松野連系図」と呼ばれている「倭王(松野連)系図」を初めて読んだとき、わたしは不思議に思ったことがありました。前話で述べたように、〝「長堤」は「筑紫前国夜須郡」の「松狭野」に住んでいたとあるが、松狭野(まつおの)あるいは「松野」という地名は管見では夜須郡やその付近には現存していないようである。江戸期の地誌にも見えない。〟のです。
 同系図にある「夜須評」「夜須郡」は福岡県朝倉郡筑前町の「夜須」地名に対応しますが、現代の地図や江戸期の古地図・地誌(注①)には、「松野」や「松狭野(まつおの)」(注②)という地名が見つかりません。似たような地名には「松延」(注③)がありますが、そのものずばりの「松野」地名が見つからないのです。このことをずっと不思議に思ってきました。ところが25年ほど前に「松野」という地名を記した本を目にしました。開米智鎧編『金光上人』(注④)という本で、次の記事が見えます。

 「上人は、筑後国松野郷、筑紫西海辺船関守、長安寺国平安直、其の室女平小路良子を父母として、松野城に御生まれになりました。時に寿永「久寿の誤り」二年(一一五五)一月一日。幼名を白龍丸と称しました「疑問状」。松野城「実は館」は地名に因み、弥生館は旧名、白雲城は、唐風に新築してからの名で、松野の地は秋風録に太刀洗郷だとあります。」(同書10頁)
 「略年表
 久寿二年 一一五五 当才
  一・一 筑後国松野郷「太刀洗、秋風録」、弥生館に生まる。父は長安寺国平、母は平小路良子「要」。」(278頁)

 金光上人の両親と誕生についての所伝を記したもので、ここに見える「疑問状」「秋風録」「要」とは「和田家文書」(注⑤)と思われます。同書によれば、松野郷は「筑後国太刀洗(たちあらい)」(注⑥)にあったとされ、そこは「夜須郡(評)」と隣接する筑後川北岸の地です。金光上人生誕伝承はその年次を平安末期(久寿二年、1155年)と伝えており、平安末期には当地に松野郷という地名が存在していたことをうかがわせます。現在、地元でも見つからない松野連の故地名「松野郷」が、平安末期頃の伝承として遺されている和田家文書の史料価値は高いのではないでしょうか。
 このように、松野連の名前の由来となった「松野郷」が平安末期に存在していたことを示す史料が見つかり、「倭王(松野連)系図」の地名に関する7世紀段階の傍注記事の信頼性が高まったことは、史料批判における一定の成果です。(つづく)

(注)
①杉山正仲・小川正格『筑後志』(1777年成立)、貝原益軒『筑前国続風土記』(1709年成立)、他。
②地名ではないようだが、筑前町栗田に「松狭(まつお)八幡宮」があり、注目される。天徳四年(960年)の創建と伝えられている。
③福岡県朝倉郡筑前町松延。当地には松延池もある。
④開米智鎧編『金光上人』1964年、藤本幸一発行、非売品。
⑤青森県五所川原市の和田家(和田喜八郎氏)に伝わった大量の史料群。江戸期成立の『東日流外三郡誌』を代表とする伝承史料集。
 『金光上人』巻末に収録された「新出史料」(和田家文書のこと)一覧に「建保四年(一二一六) 甲野 秋風録」が見える。
⑥現、福岡県三井郡大刀洗町。


第2435話 2021/04/15

「倭王(松野連)系図」の史料批判(3)

  — 庚午年籍と松野連(まつのむらじ)

 鈴木真年氏が収集した「倭王(松野連)系図」は、通常「松野連系図」と呼ばれています。今回は松野連について検討します。同系図では松野連の始祖を呉王夫差としますが、9世紀初頭に成立した『新撰姓氏録』(注①)の「右京諸藩上」には、松野連について次の様に記されており、自らを呉王夫差の末裔とする松野連が古代に於いて存在していたことは確かなようです。

 「松野連 出自呉王夫差也」(『新撰姓氏録の研究 本文篇』295頁)

 同系図(注②)によれば、「倭の五王」の「武」の後に「哲」(傍注「倭国王」)、次に「満」と〝中国風一字名称〟の人物が続き、その後に「牛慈」「長堤」「大野」「廣石」「津萬呂」へと続きます。ここで注目されるのが次の傍注です。

 「牛慈」《金刺宮御宇 服従 為夜須評督》
 「長堤」《小治田朝評督 筑紫前国夜須郡松狭野住》
 「津萬呂」《甲午籍負松野連姓》
  ※《》内が傍注。「大野」「廣石」には傍注なし。

 これらの傍注が系図原文にあったものか、鈴木真年氏による付記なのかという問題はありますが、「牛慈」が夜須評督になったこと、「長堤」が「筑紫前国夜須郡松狭野」に住んでいたこと、「津萬呂」が甲午籍により「松野連」姓になったことを示しています。この傍注から次のことが想定できます。

①夜須評督になった「牛慈」は評制が施行された7世紀中頃の人物と思われる。「金刺宮御宇」とは欽明期を意味するが、これは『日本書紀』の認識に基づき、後世になって付記されたものである。
②「長堤」は「筑紫前国夜須郡」の「松狭野」に住んでいたとあるが、松狭野(まつおの)あるい「松野という地名は管見では夜須郡やその付近には現存していないようである。江戸期の地誌にも見えない。
③筑前国を「筑紫前国」と古い表記が使用されており、この部分は系図原文にあったと考えられる。それとは逆に、「夜須郡」という表記は「評」が「郡」に書き換えられたもので、本来は「夜須評」だったと思われる。「小治田朝」も推古期を意味するが、これも『日本書紀』成立以降の後代に付記されたと考えられる。
④「津萬呂」が「甲午籍」により「松野連」姓をもらったとあるが、「甲午」は694年だが、この年に造籍があったとする史料痕跡はない。同音の「庚午」(670年)の年に造籍された庚午年籍があり、「甲午」は「庚午」の誤写と考えるのが妥当である。
⑤以上のことから、「牛慈」「長堤」「大野」「廣石」「津萬呂」は7世紀の人物であると推定できる。

 なお、『埋もれた古代氏族系図』2頁掲載の〝稿本〟(注③)には「大野」は見えず、7頁の別筆跡の〝稿本〟(注④)では、「大野」が割り込み加筆された跡があり、このことから「大野」は鈴木真年氏とは別人(注⑤)による加筆と思われます。従って、本来形では「牛慈」「長堤」「廣石」「津萬呂」の四代が7世紀の人物と考えられます。(つづく)

(注)
①佐伯有清『新撰姓氏録の研究 本文篇』吉川弘文館、1962年。
②尾池誠著『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』晩稲社、1984年。(64~65頁)
③「松野連倭王系図(静嘉堂文庫所蔵)」との表記がある。
④「松野連倭王系図(国立国会図書館所蔵)」との表記がある。
⑤『埋もれた古代氏族系図』(34頁)によれば、鈴木真年の協力者として親交のあった中田憲信(よしのぶ)の名前をあげており、『諸系譜稿』(国立国会図書館所蔵)に収録された「松野連倭王系図」は、中田が「鈴木の蒐集本をさらに筆写したもの」とする。


第2434話 2021/04/14

『古田史学会報』163号の紹介

 『古田史学会報』163号が発行されましたので紹介します。
一面の正木稿は、7世紀における九州王朝の天子の変遷について本格的に論じたもので、いずれ「九州王朝通史」として結実するものと期待しています。
日野稿は、前号掲載の西村秀己稿の問題提起「九州王朝(倭国)のナンバーワンの称号が天皇でなければ、それ以上の称号を提示すべき」に対しての一つの解答を示したもので、史料根拠を明示して、「法皇」「中皇命」とする仮説を提起されました。この日野稿に対して、西村稿では、再度批判がなされました。
服部稿では、野中寺彌勒菩薩像銘文に見える「中宮天皇」を九州王朝の女帝(倭姫王)とされました。

 わたしは、『古田史学会報』採用審査の難しさについて、特許審査の例をあげて解説しました。
163号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』163号の内容】
○九州王朝の天子の系列(上) 川西市 正木 裕
多利思北孤・利歌彌多弗利から、唐と礼を争った天子の即位
○九州王朝の「法皇」と「天皇」 たつの市 日野智貴
○野中寺彌勒菩薩像銘と女帝 八尾市 服部静尚
○「法皇」称号は九州王朝(倭国)のナンバーワン称号か? 高松市 西村秀己
○「壹」から始める古田史学・二十九
多利思北孤の時代Ⅵ ―多利思北孤の事績― 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○『古田史学会報』採用審査の困難さ 編集部 古賀達也
○2021年度会費納入のお願い
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○各種講演会のお知らせ
○編集後記 西村秀己


第2433話 2021/04/13

「倭王(松野連)系図」の史料批判(2)

 ―鈴木真年氏の偉業、膨大な系図収集―

 「倭王(松野連)系図」の史料批判に入る前に、同系図を収集した鈴木真年(すずき・まとし)氏について紹介します。竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)からいただいた尾池誠著『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』(晩稲社、1984年)の「鈴木真年年譜」によれば、氏の経歴は次のようです。要事のみ抜粋します。

1831年(天保二年) 1歳 江戸神田鎌倉河岸に生まれる。幼名房太郎、のち今井源太また真年と改める。(古賀注:ウィキペディアによると、煙草商橘屋の主・鈴木甚右衛門(今井惟岳)の嫡子として生まれる。)
1849年(嘉永二年)19歳 紀州滞在中、古代来朝人考・御三卿系譜の草稿成る。
1861年(文久元年)31歳 栗原信充に入門の礼をとる。主に系譜の学を学ぶ。
1864年(元治元年)34歳 栗原信充薩州に赴く。師を送り専ら独学。
1865年(慶應元年)35歳 紀州藩の懇請を受け藩士となり系譜編集事業の任につく。熊野本宮に居を定める。熊野神社の関係事業にも参画する。
1866年(慶應二年)36歳 この頃織田家系草稿成る。
1867年(慶應三年)37歳 この頃諸系譜草稿成る。
1868年(明治元年)38歳 この頃諸家譜草稿成る。
1869年(明治二年)39歳 七月弾正台設立。紀州藩を去って弾正台に入る。
1870年(明治三年)40歳 この頃諸国百家系図草稿成る。
1871年(明治四年)41歳 百家系図六十四冊版本完成。九月弾正台廃止となり、司法省が設置される。十一月八日弾正台より宮内省に転ず。内舎人を奉仕。俳号を松柏と称う。
1872年(明治五年)42歳 四月五日雑掌に任ぜられる。この頃諸氏家牒・武家大系図(真年稿)成る。
1873年(明治六年)43歳 五月二十五日宮内省を辞す。七月三日司法省に入る。十一等出仕に補せられる。
1874年(明治七年)44歳 浅草蔵前の文部省所管の図書館員を兼務する。十一月五日名法中属に任ぜられる。
1875年(明治八年)45歳 この頃諸家系譜(二十六冊)成る。五月四日司法権中権に任ぜられる。
1876年(明治九年)46歳 十二月二十一日司法省を辞す。
1877年(明治十年)47歳 古家大系図(真年稿)草稿なる。
1878年(明治十一年)48歳 華族諸家伝草稿成る。明治新版姓氏録二冊完成。十月玉養堂より苗字盡解明二冊を出版。引続き名乗字盡略解、諸家系図取調所を出版。
1879年(明治十二年)49歳 史略名称訓義(版本)二冊出版。十一月十三日印刷局に入り巡回事務取調掛となる。
1880年(明治十三年)50歳 五月三十日華族諸家伝三巻出版。十月二十日印刷局を辞し十二月二十七日参謀本部編纂課に入り当省御用掛を申し付られ月俸五十円を受ける。住居は浅草区浅草小島町八番地。
1881年(明治十四年)51歳 この頃三才雑録成る。
1882年(明治十五年)52歳 九月十三日東京地学協会社員となる。
1883年(明治十六年)53歳 六月二十四日亜細亜協会賛成会員に推薦さる。古事記正義三冊草稿成る。
1884年(明治十七年)54歳 九月日本事物原始第一集を古香館より出版。十一月皇族明鑑(二冊)を博公書院より出版。十一月八日陸軍省御用掛を辞す。住居は牛込区簞笥町十六番地。
1885年(明治十八年)55歳 五月八日陸軍省総務局庶務課に転ずる。十月三十日陸軍省を辞す。
1886年(明治十九年)56歳 この頃系図叢・松柏遺書草稿成る。
1887年(明治二十年)57歳 山縣有朋・田中光顕邸にて古事記の講義を一週に二回行う。又交詢社に於ても講義をする。古事記正義(一巻)を出版。交詢社の名誉会員に推される。十二月二十六日修史局に入る。
1888年(明治二十一年)58歳 皇族明鑑(二冊)版本成る。十月十三日帝国大学における大日本編年史の編纂に従事し総裁重野安繹氏の下で働く。日本外史正誤成る。
1889年(明治二十二年)59歳 六月八日皇族明鑑増補再版。十月十一日爵位局戸籍課を兼務す。十一月八日辞す。
1890年(明治二十三年)60歳 十一月一日藤島神社の依頼により新田族譜を編集出版。住居は牛込区横寺町一〇番地。
1891年(明治二十四年)61歳 この春鴻池家その他知人の懇請により三月三十一日帝大を辞し単身大阪に赴く。大阪にて国学校の設立等を計画、熊野神社復興にも力を盡す。裾野狩衣を大阪朝日新聞に連載。
1892年(明治二十五年)62歳 大阪積善館より裾野狩衣を出版。住居を大阪市南区東清水町三百九十七番地に定めて東京より家族を呼ぶ。
1893年(明治二十六年)63歳 主として系譜の編集に従事し傍ら熊野神社を中心として国学校設立を運動する。専ら国教達成に努める。
1894年(明治二十七年)64歳 四月十五日胃弱にて大阪市南区東清水町三百九十七番地に逝去。葬儀は大阪の自宅にて仏式を以て行い、一年祭も同様大阪の地で行う。遺骸は後東京雑司ケ谷甲種四号地に葬る。戒名は松柏院頼誉天鏡真空居士。

 この「鈴木真年年譜」によれば、幕末に系図学を学んだ鈴木真年氏は明治新政府において国家的事業としての系図収集や編纂に携わっていたことがうかがえます。
 生涯をかけて収集・編纂した系図は膨大な数にのぼり、代表的な系図集として『百家系図稿』(21冊)、『百家系図』(63冊)、『諸氏家牒』(3冊)、『諸氏本系帳』(8冊)、『諸国百家系』(2冊)などがあり、今回、史料批判を試みようとする「倭王(松野連)系図」は『百家系図稿』(静嘉堂文庫所蔵)と『諸系譜稿』(国会図書館所蔵)に収録されているとのことです。
 わたしは鈴木真年氏はもとより、氏のこうした業績を全く知りませんでした。尾池誠さんも『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』において、次のように述べています。

 「言語に言いつくせないほどの業績を残しているにもかかわらず、鈴木真年らは不当な評価を受けたまま注目されることもなく現在に至ったというわけである。」(42頁)

 非力ではありますが、鈴木真年氏の業績の一部(「倭王(松野連)系図」)でも、多元史観・九州王朝説の視点から再評価できればとわたしは考えています。(つづく)


第2432話 2021/04/12

「倭王(松野連)系図」の史料批判(1)

 ようやくこの日がやってきました。今までその重要性を疑ったことはないものの、史料批判の方法がわからず、手をつけてこなかったテーマがありました。真偽不明、かつ魅惑的な史料、「倭王(松野連)系図」の研究です。
 今から16年前のことです。竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)から尾池誠著『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』(晩稲社、1984年)のコピーをいただきました。そのときのことを「洛中洛外日記」29話(2005/09/18)〝松野連系図と九州王朝系譜〟で次のように記しています。

 〝9月17日、古田史学の会関西例会が行われました。(中略)
 今回、興味深かった発表の一つが、飯田満麿さん(本会会計)の「九州王朝の系譜」でした。九州王朝、倭王の系譜復原の試みとして、高良玉垂命系図と松野連系図、それに『二中歴』の九州年号を重ね合わせた試案を提示されました。ベーシックな研究ですが、こうした基礎的で地道な研究も大切です。
 九州王朝系系図の中でも、以前から注目されていたものが「松野連系図」です。倭の五王の名前なども見え、他方、近畿天皇家の天皇は含まれないという系図ですが、そのまま全面的に信用できたものか、疑問点も少なくありません。いずれ、しっかりとした史料批判を行って、当系図の研究を進めたいと願っています。なお、例会当日、松野連系図のコピーを幸いにも竹村順弘さん(会員・京都府木津町)からいただくことができました。この場をおかりして御礼申し上げます。〟

 呉王夫差を始祖として、倭の五王(讃、珍、済、興、武)の名前が記されている同系図は古田学派の研究者に早くから注目されてきました。しかし、古田先生が本格的な研究対象とされることはありませんでした。わたしも、このような真偽不明の史料に手を出すのは危険と感じていましたし、何よりもどの程度信頼できるのかという史料批判の方法さえもわかりませんでした。もしかすると、『日本書紀』や『宋書』の記事を自家の系図に取り入れた、後代に造作された系図かもしれないからです。
 しかし、この系図のことが気になったまま何年も過ぎたのですが、永年勤めてきた化学会社を昨年定年退職し、ようやく研究時間がとれるようになり、この系図に真正面から向かい合うことにしました。どのような結論に至るのかはまだわかりませんが、しばらく思考実験にお付き合い下さい。(つづく)


第2431話 2021/04/11

百済人祢軍墓誌の「日夲」について (4)

 正木さんからのメール、「字体の変遷」

 石田泉城さんの「『祢軍墓誌』を読む」(注①)に触発されてスタートした本シリーズですが、それを読んだ正木裕さん(古田史学の会・事務局長)よりメールが届き、貴重な情報をご教示いただきました。

 『大辞林』の「六書と書体の変遷表」によれば、六朝・北魏・隋唐では「本」の楷書は「夲」となっており、藤原宮木簡の「夲位進第壱・・」や井眞成墓誌が「・・公姓井字眞成國號日夲」とあるのは当然とのことなのです。つまり、「夲」が「本」の「代わり」に通用していたのではなく、「六朝・北魏・隋唐時代は『夲』の字体が正しかった」のであり、当然、当時の倭国でも「夲」が用いられていたということでした。

 わたしはこうした中国での字体の変遷を知りませんでしたので、正木さんからのメールを拝見し、「ああ、そうだったのか」と腑に落ちました。というのも、北魏から隋唐時代の字体調査を行ったとき(注②)、専門書に掲載された当時の金石文や拓本を少なからず見たのですが、それらには「夲」の字体が普通に使用されており、むしろ「本」を見た記憶がなかったからです。国内の木簡調査でも同様でした。そのため、慎重な表現ではありますが、「その当時の国名表記の用字としては、『日夲』が使用されていた可能性の方が高いとするのが、日中両国の史料事実に基づく妥当な理解ではないでしょうか。」(注③)としたわけです。

 この度の正木さんからのメールにより、拙稿での結論が漢字学における字体の変遷研究結果と同じであったことを知り、わたしの推定が的外れではなかったことに自信を得ました。そうすると、「夲」が「本」に戻った時代とその理由についても知りたくなりましたが、漢字学の世界では既に研究済みのことかもしれません。この点、何かわかりましたら報告します。最後に、ご教示いただいた正木さんに感謝いたします。(おわり)

(注)
①石田泉城「『祢軍墓誌』を読む」『東海の古代』№248、2021年4月。
②古賀達也「洛中洛外日記」2090~2105話(2020/02/25~03/07)〝三十年ぶりの鬼室神社訪問(1)~(10)〟
古賀達也「洛中洛外日記」2099~2102話(2020/03/03~06)〝「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(1)~(4)〟
古賀達也「洛中洛外日記」2106(2020/03/11)〝七世紀の筆法と九州年号の論理〟
③古賀達也「洛中洛外日記」2428話(2021/04/10)〝百済人祢軍墓誌の「日夲」について (2)〟

百済人祢軍墓誌


第2430話 2021/04/11

『俾弥呼と邪馬壹国』読みどころ (その5)

服部静尚
「太宰府条坊の存在はそこが都だったことを証明する」

 『俾弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)の構成は「巻頭言」の後に「総括論文」「各論」「コラム」、そして特集以外の「一般論文」からなっています。「一般論文」は会員からの投稿、『古田史学会報』などに掲載された論稿を対象に、書籍の形で後世に残すべきと編集部で判断したものを採用します。今回、採用論文選考の編集会議でわたしが最も強く推薦したのが服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の「太宰府条坊の存在はそこが都だったことを証明する」でした。
 同論稿は『古田史学会報』150号(2019年2月)に掲載されたもので、わずか五頁の小論ですが、シンプルで頑強な論理と根拠に基づいた秀論で、古代の真実(多元史観・九州王朝説)は万人の眼前にあり、かくも簡明で頑固であるということを示す好例でした。「太宰府条坊の存在はそこが都だったことを証明する」という、この服部説について、わたしは「洛中洛外日記」1834話(2019/02/09)〝『古田史学会報』150号のご案内〟において、次のように評しました。

 〝服部さんは、太宰府条坊都市の規模が平城京などの律令官僚九千人以上とその家族が居住できる首都レベルであることを明らかにされ、太宰府が首都であった証拠とされました。この論理性は骨太でシンプルであり強固なものです。管見では古田学派による太宰府都城研究において五指に入る優れた論稿と思います。〟

 同論稿には服部さんご自身による先行論文「古代の都城 ―『宮域』に官僚約八〇〇〇人―」(注)がありますので、そちらも是非お読みいただければと思います。

(注)服部静尚「古代の都城 ―『宮域』に官僚約八〇〇〇人―」『発見された倭京―太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集、明石書店、2018年)。初出は『古田史学会報』136号、2016年10月。