日野智貴さんとの「河内戦争」問答(2)
続いて、日野さんから本格的な質問がきました。以下、転載します。
2019.05.10【日野さんからの本格的質問】
河内戦争の記事は一つだけ、それも九州王朝目線の記事が元記事と思われます。
従って、問題が3点あります。
1.実際年代が不明であること。
2.律令制の頃と同じ用語が使用されていること。
3.「関西八国の支配者」ならば当然、大和も支配していたはずであるが、九州王朝以外に近畿天皇家の上位に立つ政権が存在したことが論証されていないこと。
特に、私が問題視しているのは「3」です。近畿天皇家は九州王朝の分王朝ですが、「関西八国の支配者」が九州王朝の分王朝を支配していたとすると、それは一体、九州王朝とどういう関係なのでしょうか?九州王朝と無関係ならば不自然ですが、九州王朝との関係を語る史料は皆無です。
例えば、関東王朝についてはその実在が完全に論証されたとは言い難いですが、それでも「関東王朝の伝承」の可能性がある史料は複数見つかっているわけです。
或いは、大和は「関西八国」には含まれないかもしれません。無論、山背も関西八国に含まれていない可能性もあります。
さらに、「2」について言わせていただくと、河内戦争の後に66国に分割されたということは、やはり河内戦争以前に山背国の境界は明確に決まっていません。そして、河内戦争の記事には「国司」の用語が用いられていますから、可能性としては富川さんや古賀さんが想定しているよりも後世の記事の可能性があるのです。
このように、まだ十分に論証が尽くされたとはいえない仮説を論拠に「考えられません」と言われることには、疑問があります。
(つづく)