第2726話 2022/04/22

藤原宮内先行条坊の論理 (3)

 ―下層条坊遺構の年代観―

 新庄宗昭さんは藤原宮内下層条坊の造営時期を孝徳期から斉明期とされています。この問題について考察してみます。その際に基礎的な根拠になるのは考古学的出土物(土器・木簡等)です。中でも紀年銘(干支)木簡は第一級史料です。藤原宮下層遺構からは多数の木簡が出土しており、その中の紀年銘木簡「壬午年(天武十一年、682)」「癸未年(天武十二、683)」「甲申年(天武十三年、684)」により、藤原京の造営が天武の時代に既に始まっていたことがわかっています。
 これら干支木簡で最も新しいのが「甲申年(天武十三年、684)」ですから、条坊の造営は天武十三年(684)まで遡ることが可能です。これられの木簡は藤原宮下層遺構の大溝底部堆積層から出土しており、この大溝は藤原宮造営資材運搬用の運河として掘削されたと考えられています。従って、下層条坊の造営は天武十三年(684)以前と考えることができます。更に下層遺構出土土器も藤原宮時代(694~710年頃)の土器よりも古い様相を示していることも、干支木簡の年次と整合しており、次のように指摘されています。

〝注目されるのは、大溝下層の粗砂層から出土した約一三〇点の木簡である。木簡の中には、「壬午年」「癸未年」「甲申年」と干支で年紀を記したものが三点あった。それぞれ天武十一年(682)、天武十二(683)、天武十三年(684)にあたる。(中略)
 木簡と一緒に多量に出土した土器群も、藤原宮の外濠や内濠、東大溝、官衙の井戸などから出土する藤原宮使用の土器群よりも、はっきりと古い特徴が窺われる。〟木下正史『藤原宮』59~60頁(注①)

 更に藤原宮下層条坊の遺構(西方官衙南区画外)の井戸に使用されたヒノキ板が出土しており、年輪年代測定により682年に伐採されていることがわかりました。また、下層条坊の側溝出土土器の年代観からも、「七世紀第三・四半期より早くはならない。」(注②)と見られています。干支木簡や年輪年代測定の結果を重視すれば、藤原宮の下層条坊の造営は天武期頃としておくのが穏当と思われます。
 そうであれば、壬申の乱に勝利した天武が自らの王都として造営したのが拡大前の藤原京条坊都市であり、当初の王宮は長谷田土壇にあったのではないでしょうか。長谷田土壇については次の喜田貞吉氏の見解が紹介されています。

〝鷺栖(さぎす)神社の真北約一キロ、醍醐町集落の西はずれの小字「長谷田(はせだ)」に、周囲約一八メートル、高さ約一・五メートルの土壇がある。古瓦が出土し、近くで礎石も発見されている。〟木下正史『藤原宮』16頁

 喜田氏は長谷田土壇の近くから礎石が発見されているとしています。わたしが現地調査したときには、藤原宮を囲む大垣十二門の内の北面西側に位置する「海犬養門」の礎石は見つかりましたが、長谷田土壇のものを見つけることができませんでした(注③)。この点、再調査の必要を感じています。(つづく)

(注)
①木下正史『藤原京』中公新書、2003年。
②同①171頁。
③古賀達也「洛中洛外日記」546話(2013/03/31)〝藤原宮へドライブ〟

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