第2742話 2022/05/17

高良大社研究の想い出 (3)

―玉垂媛神と倭王旨―

 『筑後国神名帳』に見える玉垂媛神を倭王旨ではないかと考えたことがありました。倭王旨とは、天理市の石上神社所蔵の七支刀銘文に見える倭王の名前(中国風一字名称)ですが、筑後(三潴)に君臨したこの倭王旨を女性ではないかとする仮説を初期の論文「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」などで発表しました(注①)。当該部分を要約して紹介します。

〝残された問題として、倭王旨は女性ではなかったかというテーマがある。その理由の一つは七支刀記事が『日本書紀』では神功皇后紀(神功五二年)に入れられていることだ。これは『日本書紀』編纂時に百済系史書にあった七支刀記事を単純に干支二巡繰り上げた結果とも考えられるが、七支刀贈呈時の倭王が女性であったため、神功皇后紀に入れられたのではないか。
 「高良の神は玉垂姫」という現地伝承の存在も無視できない。『筑後国神名帳』の「玉垂媛神」以外にも、『太宰管内志』に紹介された「袖下抄」に「高良山と申す處に玉垂の姫はますなり」という記事もあるからだ。〟

 この論文は1999年に発表したものですが、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は同趣旨の仮説を更に深化させた論を詳述されています(注②)。倭王旨女王説は有力ですが、他の可能性もあるのではないかと、わたしは考えています。というのも、筑後地方に色濃く遺る玉垂命信仰の淵源は縄文時代にまで遡るとする古田先生の考察があったからです。(つづく)

(注)
①古賀達也「高良玉垂命と七支刀」『古田史学会報』25号、1998年。
 同「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
②正木裕「九州王朝の女王たち ―神功皇后一人にまとめられた卑弥呼・壱与・玉垂命―」『古田史学会報』112号、2012年。

フォローする