「富岡鉄斎文書」三編の調査(4)
藤田隆一さん、佐佐木信綱宛書簡を解読
出町柳の骨董店〝京や〟のご主人から調査依頼された富岡鉄斎文書の内、最も判読が困難な(史料B)「佐佐木信綱宛書簡」の解読を続けましたが、わたしの力量の及ぶところではなく、全体の一割ほどしか文字が読めず、難儀していました。古田先生の恩師、村岡典嗣先生が幼少期に佐佐木信綱邸に寄宿していたという御縁もあり、何とか解読して、しかるべき場で発表したいと願っていました。そこで、古典古文に造詣が深い藤田隆一さん(多元的古代研究会・会員)に協力要請したところ、1週間ほどで見事な解読をなされ、同書簡は大正八年三月三十日に書かれた可能性が高く、鉄斎の孫娘の富岡冬野に関するものであることを突き止められました。ちなみに、冬野の父は鉄斎の長男、富岡謙藏とのこと。この書簡は富岡謙藏が亡くなった翌年に出されたもののようです。委しくは下記に転載した藤田さんの所見をご参照下さい。藤田さんに感謝いたします。(つづく)
【以下転載】
富岡鉄斎の書簡について、閲覧報告
藤田隆一
■所見
富岡鉄斎(1836~1924年)が佐々木信綱(1872~1963年)へ送った書簡。文面に登場する孫娘は富岡冬野(1904~1940年)のことで、その学校休暇の話題があることから、冬野が十歳代のころと考えられる。故に、この書簡が作成されたのは大正五年~十年のころと推測されます。
佐々木信綱とは、冬野の和歌の師匠にあたる人物。ちなみに、「古鏡の研究」で有名な学者・富岡謙藏は、富岡鉄齋の長男であり、富岡冬野の父親である。大正七年十二月二十三日に病死(四十六歳)。
富岡鉄斎の自筆書簡は、頗るの「くせ字」のため判読が難しく、鉄斎の字を見馴れた人でないと正確には読めないでしょう。今回、一通り釈文、読み下しをしてみましたが、細かい部分の判読には自信がありません。
特に、最初の二行は、大胆な推測を以て判読しました。もし、これが正しいとすれば、この書簡が作成されたのは大正八年の三月、という可能性が高くなります。しかし、あまり信用を置かないようにご注意下さい。
【語釈】
喪心物祭=正しい判読かは不明だが、今は亡き長男を悼み、その霊を祀る気持ちを表したものか。
渡世の寒候不順=一家の大黒柱を亡くした長男一家の前途を慮かる気持ちを表したものか。
博士大人=相手への尊称
戯謔の=たわむれの
幀匣=表装
陋=せまい、へり下った表現
東游=東京方面への旅行
頓首=手紙の文面の最後に添える言葉
御侍史=相手に用いる敬称。御机下と同類。
【釈文部分】
拝啓、喪心物祭
之際、渡世之寒
候不順也。猶可喜点
博士大人益々御壮健
老而不倦著書咸
精勵為斯学、洵可
欽羨也。先般拙画
奉呈之處、御丁寧
御謝書拝受、愉悦之
至也。拙筆戯謔之
小品、却而誉之幀
匣可驚也。任
髙命、惡書一拝
可仕候。只今孫女俄に
陋学校休暇之間、東
游之旨申述候。俄之事に付
為一遍僅に呈一書、餘は
他日之機會に御窺而述候。
畧支斗、御用捨願上候。
頓首
三月三十日夕
富鉄齋
佐々木信綱様
御侍史
【読み下し部分】
拝啓、喪心物祭りの際、
渡世の寒候不順なり。
猶喜ぶべき点は、
博士大人は益々御壮健、
老ひても倦かず。著書は咸
精勵にして斯学を為せり。
洵に欽ぶべく、羨しき也。
先般、拙画を奉呈の處、御丁寧なる御謝書を拝受す。愉悦の至りなり。
拙筆は戯謔の小品なるに、却って誉れの幀匣は驚くべき也。
髙命の任に、惡書一拝仕つる可く候。
只今、孫女は俄に陋学校を休暇するの間、東游の旨申し述べ候。
俄の事に付き、一遍為て僅に一書を呈し、餘は他日の機會に御窺ひて述べ候。
畧支斗、御用捨願ひ上げ候。
頓首
三月三十日の夕
富鉄齋
佐々木信綱様
御侍史