難波京条坊研究の論理 (4)
難波京条坊研究において、当初は考古学的調査の過渡期で出土遺構例が充分ではなかったこともあり、たとえば植木久さんの『難波宮跡』(2009年、注①)では、なんらかの方格地割りの施工が七世紀中頃から七世紀末になされた可能性があると表現しています。こうした経緯に基づき、難波京の展開を論じたのが積山洋さんでした。
積山さんの博士号論文「古代都城と難波宮の研究」(2009年、注②)は、難波京を初期(孝徳朝)、前期(天武朝)、後期(聖武朝)の三段階に分け、初期難波京では宮の外郭ラインを延長するという〝条坊制ではない方画プラン〟が施行されたとします。そして前期難波京では天武天皇の複都制構想のもと、〝方900尺の方画地割〟が部分的に施工され、その後、聖武天皇が天武天皇の意志を継いで〝条坊区画〟を伴う後期難波京を造営したとします。この理解は『日本書紀』や『続日本紀』の記事を前提(史実)として考古学的知見を当てはめたもので、基本的に一元史観の文献史学の通説を是とする立場と方法に立脚しています。
博士号論文の四年後に出された『古代の都城と東アジア(大極殿と難波京)』(注③)では、増加した発掘調査による知見も取り入れ、本格的に条坊が整備され始めるのは前期難波京(天武朝)であり、藤原京と併行するとしています。この積山説はほぼ定説となりました。
この積山説の年代観に疑義を呈したのが佐藤隆さんでした(注④)。佐藤さんも「古田史学の会」で講演(注⑤)していただいたことがある大阪市の考古学者で、その優れた諸論文、なかでも「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」(注⑥)をわたしは高く評価し、古田学派研究者や古田説支持者にくり返し紹介してきました(注⑦)。(つづく)
(注)
①植木久『難波宮跡』同成社、2009年。
②積山洋「古代都城と難波宮の研究」大阪市立大学、学位論文(文学博士)、2009年。
③積山洋『古代の都城と東アジア(大極殿と難波京)』清水堂出版、2013年。
④佐藤隆「古代難波地域における開発の諸様相 ―難波津および難波京の再検討―」『大阪歴史博物館 研究紀要』第17号、2019年。
⑤佐藤隆氏(大阪市教育委員会文化財保護課副主幹)「発掘調査成果からみた前期難波宮の歴史的位置づけ」、新春古代史講演会2022。1月15日、会場:i-site なんば(大阪府立大学難波サテライト)。
⑥同「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」『大阪歴史博物館 研究紀要』第15号、平成29年(2017)3月。
⑦古賀達也「洛中洛外日記」1406話(2017/05/27)〝大阪歴博『研究紀要』15号を閲覧〟
同「洛中洛外日記」1407話(2017/05/28)〝前期難波宮の考古学と『日本書紀』の不一致〟
同「前期難波宮の考古学 飛鳥編年と難波編年の比較検証」『東京古田会ニュース』175号、2017年。
同「洛中洛外日記」1906話(2019/05/24)〝『日本書紀』への挑戦、大阪歴博(2)“七世紀後半の難波と飛鳥”〟
同「『日本書紀』への挑戦《大阪歴博編》」『古田史学会報』153号、2019年。
同「洛中洛外日記」2600話(2021/10/22)〝佐藤隆さん(大阪歴博)の論文再読(2)〟
同「大和『飛鳥』と筑紫『飛鳥』」『東京古田会ニュース』203号、2022年。
同「七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動―」『多元』176号、2023年。