第3299話 2024/06/09

金光上人関連の和田家文書 (2)

 和田家文書には金光上人(注①)に関する史料群があり、遅くともその一部は昭和24年には五所川原市飯詰の和田家の近くにある大泉寺の住職、開米智鎧氏にわたっています(注②)。それは「東日流外三郡誌」(昭和50年『市浦村史資料編』として刊行開始)よりも早い時期に世に出た和田家文書で、昭和22年夏に和田家天井裏に吊るしていた木箱が落下し、その中に入っていた古文書に金光上人史料が入っていたようです。当初は、山中の洞窟から発見された「役小角史料」が『飯詰村史』(注③)に掲載されていますが、その後、和田家文書中に金光上人史料が発見され、開米智鎧氏と佐藤堅瑞氏(青森県西津軽郡柏村・淨円寺住職)が調査研究されています。

 開米智鎧『金光上人』(昭和39年刊)には、当時の経緯が次のように紹介されています。

 「昭和二十四年「役行者と其宗教」のテーマで、新発見の古文書整理中、偶然燭光を仰ぎ得ました。

 行者の宗教、即修験宗の一分派なる、修験念仏宗と、浄土念仏宗との交渉中、描き出された金光の二字、初めは半信半疑で蒐集中、首尾一貫するものがありますので、遂に真剣に没頭するに至りました。

 此の資料は、末徒が見聞に任せて、記録しましたもので、筆舌ともに縁のない野僧が、十年の歳月を閲して、拾ひ集めました断片を「金光上人」と題して、二三の先賢に諮りましたが、何れも黙殺の二字に終りました。(中略)
特に其の宗義宗旨に至っては、法華一乗の妙典と、浄土三部経の二大思潮を統摂して、而も祖匠法然に帰一するところ、全く独創の見があります。加之宗史未見の項目も見えます。

 文体不整、唯鋏と糊で、綴り合せた襤褸一片、訳文もあれば原文もあります。原文には、幾分難解と思はれる点も往々ありますが、原意を失害せんを恐れて、其の侭を掲載しました。要は新資料の提供にあります。」

 『金光上人』に先だって、佐藤堅瑞氏が『金光上人の研究』(昭和35年、注④)を発刊されています。佐藤氏はわたしからの質問に答えて次のように当時を回顧しています。『古田史学会報』7号(1995年)より、以下に抜粋して転載します。

 「金光上人史料」発見のいきさつ
平成七年(一九九五)五月五日、わたしは青森県柏村の淨円寺を訪れた。和田家文書が公開された昭和二十年代のことを知る人は今では殆どいなくなったが、開米智鎧氏(飯詰・大泉寺住職)とともに和田家の金光上人史料を調査発表された淨円寺住職、佐藤堅瑞氏(インタビュー時、八十才)に当時のことを証言していただくためだ。

 佐藤氏は昭和十二年より金光上人の研究を進め、昭和三五年には全国調査結果や和田家史料などに基づき『金光上人の研究』を発刊された。また、青森県仏教会々長の要職も兼ねておられた。

 「正しいことの為には命を賭けてもかまわないのですよ。金光上人もそうされたのだから」と、ご多忙にもかかわらず快くインタビューに応じていただいた。その概要を掲載する。

〔古賀〕和田家文書との出会いや当時のことをお聞かせ下さい。
〔佐藤〕昭和二四年に洞窟から竹筒(経管)とか仏像が出て、すぐに五所川原で公開したのですが、借りて行ってそのまま返さない人もいましたし、行方不明になった遺物もありました。それから和田さんは貴重な資料が散逸するのを恐れて、ただ、いたずらに見せることを止められました。それ以来、来た人に「はい、どうぞ」と言って見せたり、洞窟に案内したりすることはしないようになりました。それは仕方がないことです。当時のことを知っている人は和田さんの気持ちはよく判ります。
〔古賀〕和田家文書にある「末法念仏独明抄」には法華経方便品などが巧みに引用されており、これなんか法華経の意味が理解できていないと、素人ではできない引用方法ですものね。
〔佐藤〕そうそう。だいたい、和田さんがいくら頭がいいか知らないが、金光上人が書いた「末法念仏独明抄」なんか名前は判っていたが、内容や巻数は誰も判らなかった。私は金光上人の研究を昭和十二年からやっていました。それこそ五十年以上になりますが、日本全国探し回ったけど判らなかった。『末法念仏独明抄』一つとってみても、和田さんに書けるものではないですよ。
〔古賀〕内容も素晴らしいですからね。
〔佐藤〕素晴らしいですよ。私が一番最初に和田さんの金光上人関係資料を見たのは昭和三一年のことでしたが、だいたい和田さんそのものが、当時、金光上人のことを知らなかったですよ。
〔古賀〕御著書の『金光上人の研究』で和田家史料を紹介されたのもその頃ですね(脱稿は昭和三二年頃、発行は昭和三五年一月)。
〔佐藤〕そうそう。初めは和田さんは何も判らなかった。飯詰の大泉寺さん(開米智鎧氏)が和田家史料の役小角(えんのおづぬ)の調査中に「金光」を見て、はっと驚いたんですよ。それまでは和田さんも知らなかった。普通の浄土宗の僧侶も知らなかった時代ですから。私らも随分調べましたよ。お墓はあるのに事績が全く判らなかった。そんな時代でしたから、和田さんは金光上人が法然上人の直弟子だったなんて知らなかったし、ましてや「末法念仏独明抄」のことなんか知っているはずがない。学者でも書けるものではない。そういうものが七巻出てきたんです。
〔古賀〕思想的にも素晴らしい内容ですものね。
〔佐藤〕こうした史料は金光上人の出身地の九州にもないですよ。
〔古賀〕最近気付いたことなんですが、和田家の金光上人史料に親鸞が出て来るんです。「綽空(しゃっくう)」という若い頃の名前で。
〔佐藤〕そうそう。
〔古賀〕親鸞は有名ですが、普通の人は綽空なんていう名前は知らないですよね。ところで、昭和三一年頃に初めて和田家史料を見られたということですが、開米智鎧さんはもっと早いですね。
〔佐藤〕はい。あの方が一番早いんです。
〔古賀〕和田さんの話しでは、昭和二二年夏に天井裏から文書が落ちてきて、その翌日に福士貞蔵さんらに見せたら、貴重な文書なので大事にしておくようにと言われたとのことです。その後、和田さんの近くの開米智鎧さんにも見せたということでした。開米さんは最初は役小角の史料を調査して、『飯詰村史』(昭和二四年編集完了、二六年発行)に掲載されていますね。
〔佐藤〕そうそう。それをやっていた時に偶然に史料中に金光上人のことが記されているのが見つかったんです。「六尺三寸四十貫、人の三倍力持ち、人の三倍賢くて、阿呆じゃなかろうかものもらい、朝から夜まで阿弥陀仏」という「阿呆歌」までがあったんです。日本中探しても誰も知らなかったことです。それで昭和十二年から金光上人のことを研究していた私が呼ばれたのです。開米さんとは親戚で仏教大学では先輩後輩の仲でしたから。「佐藤来い。こういうのが出て来たぞ」ということで行ったら、とにかくびっくりしましたね。洞窟が発見されたのが、昭和二四年七月でしたから、その後のことですね。
〔古賀〕佐藤さんも洞窟を見られたのですか。
〔佐藤〕そばまでは行きましたが、見ていません。
〔古賀〕開米さんは洞窟に入られたようですね。
〔佐藤〕そうかも知れない。洞窟の扉に書いてあった文字のことは教えてもらいました。とにかく、和田家は禅宗でしたが、亡くなった開米さんと和田さんは「師弟」の間柄でしたから。
〔古賀〕佐藤さんが見られた和田家文書はどのようなものでしょうか。
〔佐藤〕淨円寺関係のものや金光上人関係のものです。
〔古賀〕量はどのくらいあったのでしょうか。
〔佐藤〕あのね、長持ちというのでしょうかタンスのようなものに、この位の(両手を広げながら)ものに、束になったものや巻いたものが入っておりました。和田さんの話では、紙がくっついてしまっているので、一枚一枚離してからでないと見せられないということで、金光上人のものを探してくれと言っても、「これもそうだべ、これもそうだべ」とちょいちょい持って来てくれました。大泉寺さんは私よりもっと見ているはずです。
〔古賀〕和田さんの話しでは、当時、文書を写させてくれということで多くの人が来て、写していったそうです。ガラスの上に置いて、下からライトを照らして、そっくりに模写されていたということでした。それらがあちこちに出回っているようです。
〔佐藤〕そういうことはあるかも知れません。金光上人史料も同じ様なものがたくさんありましたから。
〔古賀〕当時の関係者、福士貞蔵氏、奥田順蔵氏や開米智鎧さんなどがお亡くなりになっておられますので、佐藤さんの御証言は大変貴重なものです。本日はどうもありがとうございました。(つづく)

(注)
①金光(1154~1217年)は浄土宗の僧侶。九州石垣(福岡県久留米市田主丸町)の出身。土地の訴訟で鎌倉へ来た際に法然の弟子安楽と出会い、やがて法然に帰依して東北地方に念仏信仰を広めた。詳しい伝歴は不明。
②開米智鎧編『金光上人』昭和39年・1964年による。
③福士貞蔵編『飯詰村史』飯詰村役場、昭和26年。編者「自序」には「昭和24年霜月」とあり、編集は昭和24年に終了していたようである。霜月は陰暦の11月。昭和22年夏に天井から落下した和田家文書の一つ「飯詰町諸翁聞取帳」は、その翌日に福士氏にもたらされている(和田喜八郎氏談)。
④佐藤堅瑞『殉教の聖者 東奥念仏の始祖 金光上人の研究』昭和35年。

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