第2356話 2021/01/23

『飛鳥宮跡出土木簡』で「皇子」検証

 今朝は雨のなか、岡崎公園内の京都府立図書館まで妻と二人で歩いていきました。『嘉穂郡誌』(注①)を借りるためです。同館蔵書にはなかったので兵庫県立図書館から取り寄せていただきました。「天智天皇」の家臣、千手氏調査のため嘉穂郡千手村の歴史や伝承を調べるのが目的です。この調査結果については、後日報告します。

 それともう一冊、橿原考古学研究所が発行した『飛鳥宮跡出土木簡』(注②)を探しました。幸い、こちらは同館にありましたので、お借りすることができました。同書には飛鳥宮跡から出土した未発表を含む三百点近くの木簡の釈文・写真(モノクロと赤外線写真)が掲載されており、とても史料価値が高い一冊です。飛鳥宮跡木簡は出土量が多い上に編年や出土層位がかなり明確であり、七世紀後半の近畿天皇家中枢の実態を示す第一級史料であり、古田学派研究者の皆さんには是非読んでいただきたい報告書です。

 今回、わたしは同書に掲載された「皇子」木簡を精査しました。というのも、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から、飛鳥出土の皇子木簡は文字が不鮮明で断片的であり、それらを根拠に近畿天皇家が七世紀後半に「天皇」「皇子」を称していたとするのは疑問であるとの指摘を受けていたからです。わたしも奈良文化財研究所の木簡データベースをWEB上で見て、画像が不鮮明で小さかったりする写真もあり、西村さんの懸念はもっともなものとは思いますが、同木簡を実見された市大樹さんら研究者の書籍(注③)や論文を根拠に、近畿天皇家の「皇子」木簡出土は疑えないと考えていました。しかし、西村さんの指摘に応えるために同書を見ることにしたわけです。

 わたしはこれまでも「洛中洛外日記」などで、飛鳥出土の次の天皇・皇子木簡を根拠に、近畿天皇家が七世紀において「天皇」号を称していたと主張してきました。

○「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」(大伯皇女のこと)「大津皇」「大友」

 木簡に記された皇子の名前が、『日本書紀』に見える天武天皇の子供の名前とほぼ一致しますから、同時代木簡として動かしがたい史料根拠と考えてきました。

 今回、確認したのは飛鳥宮跡出土の木簡で、次の「皇子」木簡の写真が掲載されています。

○104-18 □大津皇
○104-19 □□□〔大津皇〕か
○104-20 大□□〔津皇〕か
○104-21 □□□〔津皇子〕か
○104-22 津皇
○104-23 皇子□
○104-24 □□〔皇〕か

 この他に、「皇子」の文字は見えませんが次の名前が見えます。

○104-17 大友 ※大友皇子
○104-25 大来 ※大来皇女
○104-26 太来 ※大来皇女

 この104という番号は「飛鳥京跡第一〇四次調査」のことで、1985年の発掘調査です。出土層位は飛鳥宮跡第Ⅲ期(斉明・天武・持統)にともなうものであることはまちがいないとされています。更に、104-6・104-7「辛巳年」(天武十年、681年)木簡も出土しており、天武期とみて全く問題ありません。この他に、『日本書紀』の記述と対応する七世紀後半の冠位が記された次の木簡も出土しており、非常に安定して編年が成立しています。

○104-40 大乙下□ ※「大乙下」は大化五年(645)二月から天武十四年(685)正月まで施行された冠位(『日本書紀』)。
○104-41 □小乙下 ※「小乙下」も同上。

 今回、わたしが特に着目したのが〝大津皇子〟木簡群です。この4文字が全てそろったものは出土していませんが、総合すれば〝大津皇子〟であると判断できる内容でした。遺っている字形や字数に差はありますが、概ね釈文の通りで問題ないと判断できました。

 以上のように木簡に記された天武の子供の名前〝大津皇子〟や冠位(大乙下、小乙下)が『日本書紀』と一致しており、これらの史料価値や実証力は大きいと言わざるを得ません。引き続き、「天皇」「皇子」木簡が出土している飛鳥池遺跡の調査報告書も精査します。

(注)
①『嘉穂郡誌』嘉穂郡役所編纂、大正十三年(1924)。昭和六十一年(1986)復刻版、臨川書店。
②『飛鳥宮跡出土木簡』橿原考古学研究所編、令和元年(2019)。吉川弘文館。
③市大樹『飛鳥の木簡』中公新書、2012年。

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