『東日流外三郡誌』に使用された和紙(1)
今から30年程前のことです。『東日流外三郡誌』の真偽が問題となった当時、わたしは和田家文書を偽作文書と思い、お叱りを受けることを覚悟して古田先生に数度にわたり意見しました。しかし、先生は頑として同書は真作であると主張され、論議は平行線をたどりました。そこでわたしは、古田先生の和田家文書調査に同行させてほしいとお願いしました。そして、1994年5月に古田先生と二人で五所川原市を訪問し、所有者の和田喜八郎さんと支援者の藤本光幸さん(共に故人)にお会いし、和田家文書を初めて見ることができました。その経緯は『古田史学会報』(注①)に掲載しました。
そのときの第一印象は、紙質や墨跡などの状況から戦後になって偽作されたものとは思えず、また、失礼ながら和田喜八郎さんが執筆に必要な歴史教養をお持ちとはとても感じられないというものでした。しかし、それだけでは学問的根拠にはなりませんので、文面だけではなく、使用された和紙の調査、大福帳などの裏紙再利用の場合は裏面の文字や内容に至るまで調べました。更に専門家の意見を聞くために和田家文書の一部をお預かりして、紙の調査も行いました。その結果、お二人の方から所見を聞くことができました。
お一人は中井康さん(故人)。わたしの元勤務先の上司(研究開発部長、京都工芸繊維大学卒)で、和紙や繊維・染料の専門家です。わたしとの質疑応答については『古田史学会報』(注②)に掲載しました。
「紙質については、和紙や染料に造詣が深い、中井康さん(山田化学工業(株)相談役・京都工芸繊維大学卒)に見ていただいたところ、手漉の和紙であるとの見解を得た。他の文書も同様であった。」『古田史学会報』8号
もうお一人は、『北海道史』編纂に関わられた永田富智さん(故人)です。1996年8月、北海道松前町阿吽寺での聞き取り調査で次のように証言されました(注③)。
〈永田さん〉それ(『東日流外三郡誌』)を私が見せてもらった時(昭和46年)に、一番最初に感じたのは、まず、たくさんの記録が書かれてありますが、その記録は古いものではないということです。それから、墨がそんなに古いものではない。だいたい明治の末期頃のものだという感じを受けました。
それは何故かというと、だいたい明治の末頃にはやりだした機械織りの和紙がありまして、その和紙を使っているということです。
(中略)
〈古賀〉『東日流外三郡誌』は山内英太郎さんの御自宅で見られたのですか。
〈永田さん〉市浦村の村役場の中です。
〈古賀〉数にして二百冊から三百冊をその時点で見られたのですね。
〈永田さん〉はい。
〈古賀〉それは明治の末頃の紙に、だいたい明治時代に書かれたものと考えてよろしいでしょうか。
〈永田さん〉はい。
〈古賀〉たとえば、戦後になって最近書いたものだとか。
〈永田さん〉いや、そういうふうには感じません。
〈古賀〉そういうふうには見えなかったということですね。
〈永田さん〉はい。
永田さんは『北海道史』編纂に関わられた中近世史の専門家で、多くの古文書を調査されてきた研究者です。この理系と文系の専門家による見立ては、「手漉きの和紙」あるいは「明治の末頃にはやりだした機械織りの和紙」というもので、和田家文書は戦後の紙ではないという心証を強めるものでした。
この紙質調査はその後さらに進展を見せます。竹内強さん(古田史学の会・東海 会長)による執念の美濃紙調査です。(つづく)
(注)
①古賀達也「『新・古代学』のすすめ ―「平成・諸翁聞取帳」―」『古田史学会報』8号、1995年8月。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga08.html
②同①
③「永田富智氏へのインタビュー 昭和四六年『外三郡誌』二百冊を見た ―戦後偽作説を否定する新証言―」『古田史学会報』16号、1996年10月。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou16/kaihou16.html