第2634話 2021/12/12

大宰府政庁Ⅰ期の土器と造営尺(2)

 三期に大別される大宰府政庁遺構のうち最も早く成立した掘立柱建物のⅠ期の造営尺について報告書(注①)を調べました。結論から言えば南朝尺(1尺=24.5㎝)の痕跡は見つけることはできませんでした。というよりも、柱間距離に統一性が無い遺構が多く、造営尺を判断できるケースは少数でした。しかし、柱間距離が一定のケースの造営尺はほぼ1尺=30㎝であり、太宰府条坊の造営尺29.9~30.0㎝と一致しているようでした(注②)。その具体例を紹介します。

〔SB043〕中門調査区の西南部から検出した政庁Ⅰ期の掘立柱遺構SB043(3間×3間、西側へもう1間分伸びる可能性もある)の東西総長は約6.20mで、柱間は2.10mで等間。南北総長は約6.50mで、柱間は中央間は2.40m、両脇間が2.10m。各柱間を1尺30㎝で割ると整数を得られます。
〔SB120〕同じく正殿SB010の基壇下から検出した掘立柱遺構SB120の桁行の柱間は2.70mで等間、梁行3間が約2.40mで等間です。これも1尺30㎝で割ると整数を得られます。
〔SB360〕同じく北面回廊SC340基壇下層から検出した掘立柱遺構SB360(7間×3間)の桁行総長16.80mで、柱間は2.40m等間。梁行総長は6.50mで、柱間は東から2間は2.40m、西側1間の柱間は1.70mとやや変則的です。西側1間以外はいずれも1尺30㎝で割ると整数を得られます。

 以上の柱間距離が等間の三例では1尺=30㎝の基本単位が採用されていると見られます。従って、最も古い政庁Ⅰ期の掘立柱遺構の造営尺に30㎝尺が採用されていると考えることができ、南朝尺の痕跡を発見できませんでした。こうした遺構の出土状況と土器編年に基づいて、井上信正さんは大宰府政庁Ⅰ期や条坊の造営尺を29.9~30.0㎝とされ、政庁Ⅰ期新段階の年代を七世紀末とされています(注③)。政庁Ⅰ期の造営年代はそれよりも四半世紀ほど遡るとわたしは考えていますが、いずれにしても、それよりも新しい政庁Ⅱ期が南朝尺という古い尺で造営されたとは考えにくいのではないでしょうか。

(注)
①『大宰府政庁』九州歴史資料館、2002年。

Fig.40 掘立柱建物SB360実測図

Fig.40 掘立柱建物SB360実測図
『大宰府政庁』九州歴史資料館、2002年。64頁

②井上信正「大宰府条坊論」『大宰府の研究』大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会編、2018年。
③同②。

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