『二中歴』研究の思い出(2)
『二中歴』九州年号細注記事で古田先生が注目されたのは、「鏡當」(581〜584)の「鏡当四年、辛丑、新羅人来り、筑紫従(よ)り播磨に至り、之を焼く。」以外にも、「朱鳥」(686〜694)の細注「仟陌町収始又方始」がありました。
ある講演会で、この「仟陌町収」を「船舶徴収」ではないかとのアイデアを示されたことがありました。その根拠として、「朱鳥」の直前の「朱雀」細注にある「兵乱海賊始起又安居始行」の「兵乱海賊始起」でした。兵乱海賊が発生したため、翌「朱鳥」年間に九州王朝は海賊退治のため船舶を徴収したのではないかというアイデアでした。このように、古田先生は『二中歴』九州年号細注の記事の分析をとても重要視されていました。
その後、「仟陌町収始又方始」について、より詳しい記事が『海東諸国紀』にあることに気づき、拙稿「九州王朝の近江遷都 『海東諸国紀』の史料批判」にて報告しました。『海東諸国紀』には「朱鳥八年(693年)」に相当する持統七年の記事に次のように記されています。
「〔用朱鳥〕七年癸巳定町段中人平歩両足相距為一歩方六十五歩為一段十段為一町」※〔〕内は細注
(古賀訳)町・段を定む。中人歩して両足相距つるを一歩となし、方六十五歩を一段となし、十段を一町となす。
この『海東諸国紀』の記事により、『二中歴』細注記事の内容が距離と面積単位制定に関する記事であったことがわかりました。その後、この記事を条里制施行を記したものとする見解が水野孝夫さん(古田史学の会・顧問)から発表されました。その水野さんの論稿「条里制の開始時期」は古田先生が編集された『なかった -真実の歴史学-』創刊号(ミネルヴァ書房も2006年)に収録されましたが、古田先生が『二中歴』細注記事に関心を示し続けておられたことがわかります。さらに正木さんは「方始」部分を藤原京条坊の造営記事ではないかとされました(「『二中歴』細注が明らかにる九州王朝(倭国)の歴史」)。
なお、『海東諸国紀』九州年号部分の版本を『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』末尾に収録しましたので、研究などにご利用ください。(つづく)