『二中歴』研究の思い出(5)
『二中歴』九州年号細注の二つの寺院建立記事のもう一つが太宰府の観世音寺創建です。
「白鳳」(661〜683年)「対馬銀採観世音寺東院造」
白鳳年間に観世音寺を東院が造ったという内容ですが、倭京二年の「難波天王寺」のように地名が付けられていませんから、九州王朝の人々であれば観世音寺だけでそれとわかる有名寺院ということと解さざるを得ませんから、九州王朝の都の代表的寺院の筑紫の観世音寺と思われます。
『続日本紀』にも天智天皇がお母さんの斉明天皇のために造らせたとありますから、天智期に建立されたという細注記事そのものに矛盾はありません。ところが、飛鳥編年に基づく一元史観の通説によれば観世音寺の創建は8世紀初頭頃とされており、細注記事とは異なっていました。
一方、考古学的には観世音寺の創建瓦は老司Ⅰ式と呼ばれるもので、7世紀後半に編年されてきたもので、これは細注記事と整合していました。ただ、近年は、この老司Ⅰ式を藤原宮の瓦の新式と類似しており、7世紀末頃から8世紀初頭へと新しく編年する論稿が出されています。この点は当該論文を精査したうえで、別に論じたいと思います。
白鳳は23年間続いていることもあり、『二中歴』細注記事では創建年に幅がありました。そのため、より詳しく観世音寺創建年を記した史料を探していたところ、『勝山記』『日本帝皇年代記』に「白鳳十年」(670)と具体的年次が記されていたことが発見されました。このように、『二中歴』細注による観世音寺造営記事が他の史料や考古学編年と対応していることが明らかとなったわけです。(つづく)