『対州神社誌』の後代改変型「朱鳥」年号
『対州神社誌』「天道菩薩の由緒」には「天道法師縁起」に見えないもう一つの後代改変型の九州年号「朱鳥六壬辰年十一月十五」が記されています。この時に天道童子九歳にて上洛し、文武天皇御宇大宝三癸卯年、対馬州に帰り来ると記されています。この後代改変型「朱鳥六壬辰年」についても解説します。
本来の九州年号「朱鳥六年」(691年)の干支は「辛卯」です。この時代の「壬辰」は692年で「持統天皇六年」に当たります。従って、先の「白鳳」と同様の後代改変の痕跡を示しています。その改変過程は次のように推定できます。
①天道法師の上洛年次として「朱鳥六年辛卯」(691年)という伝承があった。
②当時(江戸時代)の対馬藩では九州王朝や九州年号という概念は失われており、「朱鳥」は近畿天皇家の持統天皇の年号とする考えが流布していた。
③そこで、「朱鳥六年」を持統天皇の六年と考えた。
④『日本書紀』などによれば「持統天皇六年」の干支は「壬辰」なので、「朱鳥六壬辰年」(692年)という改変が成立した。
この後代改変型「朱鳥六壬辰年」の史料批判により、天道法師の上洛年次は「朱鳥六年辛卯」(691年)となり、白鳳十三年(673年)に生まれた天道法師は十九歳のとき九州王朝の都、太宰府に行ったこととなります。なお、この事績については「天道法師縁起」にはなぜか記されていません。(つづく)