『令集解』儀制令・公文条の理解について(6)
「庚午年籍」のような長期保管が必要な行政記録以外にも、後世に残すことを前提とした墓碑や墓誌銘にも九州年号の使用が許されていたのではないかとわたしは考えています。このことを示す史料を以下に紹介します。
○「白鳳壬申年(六七二)」骨蔵器(江戸時代に博多から出土。その後、紛失)
『筑前国続風土記附録』に次のように紹介されています。
「近年濡衣の塔の邊より石龕一箇掘出せり。白鳳壬申と云文字あり。龕中に骨あり。いかなる人を葬りしにや知れず。此石龕を當寺に蔵め置る由縁をつまびらかにせず。」(『筑前国続風土記附録』博多官内町海元寺)
○「大化五子年(六九九)」土器(骨蔵器、個人蔵)
古賀達也「二つの試金石 九州年号金石文の再検討」(『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房。二〇一二年)を参照してください。
○「朱鳥三年(六八八)」鬼室集斯墓碑(滋賀県日野町鬼室集斯神社蔵)
古賀達也「二つの試金石 九州年号金石文の再検討」(『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房。二〇一二年)を参照してください。
○法隆寺の釈迦三尊像光背銘の「法興元卅一年」もその類いでしょう。
以上のように残された史料事実(木簡、詔報、墓碑等)から判断すれば、九州王朝律令には年号使用を定めた「儀制令」があり、その運用が「式」などで決められていたと思われるのです。(おわり)