『肥前叢書』の
「聖徳太子」伝承
昭和12年に肥前史談会により発行された『肥前叢書』(昭和48年復刻版)によれば、肥前の寺院に「聖徳太子」御作とされる仏像に関する記事が散 見されます。おそらく九州王朝の天子、多利思北孤か太子の利歌彌多弗利に関わる仏像記事が、後世に「聖徳太子」伝承に置き換えられたものと推察されます。 そうであれば、作られたのは仏像だけではなく寺院も建立されたはずです。同書によれば次のような「聖徳太子」関連記事があります。
○勝楽寺
「新庄の里勝軍山勝楽寺本尊は阿弥陀如来の尊僧聖徳太子の御作也」
○桐野山
「桐野山妙覺寺は聖武天皇の勅願行基菩薩の開基、本尊は大悲観世音菩薩即ち行基の御作也、又護摩堂の本尊は太聖不動明王聖徳太子の御作也」
○黒髪山
「黒髪山大権現、本地薬師如来の三尊聖徳太子の御作也」
○圓應寺
「武雄圓應寺、本尊は聖観音の座像也、薩捶聖徳太子の御作、利生無双の霊像也」
こうした「聖徳太子」伝承を持つ寺院や仏像は、本来は多利思北孤か利歌彌多弗利に関わるものであれば、7世紀初頭頃に肥前の地でも九州王朝による寺院が少なからず建立された可能性をうかがわせます。これもまた土器や瓦などの考古学的出土による編年研究が必要です。