慈眼寺「定居七年」棟札の紹介論文
「洛中洛外日記」2790話(2022/07/18)〝「九州年号棟札」記事の紹介〟で紹介した「九州年号棟札」の同時代性や信憑性は個別の史料批判や検証が必要です。その中の、(4)慈眼寺無量光院棟札(定居七年・617年)については平野雅曠さん(故人、注①)による研究があり、『古田史学会報』25号(1998年)で「渡来氏族と九州年号」を発表されていますので、紹介します。
【以下、関係部分を転載】
渡来氏族と九州年号
熊本市 平野雅曠
『新撰姓氏録』の和泉国諸蕃の部に、「新羅国人億斯富使主より出づる也」と記される日根造が出ている。
この人の氏神とされる日根神社について、「大阪における朝鮮文化」の題で、段熙麟という方が書いている。(「大阪文庫」4)
◎日根神社と慈眼寺(注②)
本社の創建は、天武天皇の白鳳二年(六七三)と伝えられ、和泉国五大社の一つにかぞえられる名神大社である。中世、織田信長が根来寺を鎮圧した折に巻き添えとなって全焼したのであるが、慶長七年(一六〇二)に豊臣秀頼によって再興され、日根野荘の総社として栄え今日に至っている。
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日根神社の左手に慈眼寺(別称、無量光院)がある。いわゆる日根神社の神宮寺で、日根神社と同様に天武天皇白鳳の創建とされ、その後奈良時代の天平年間(七二九~七四八)に勅願寺となった。寺号は(略)金堂、多宝塔をはじめ、奥之坊(現在の本坊)、稲之坊、上之坊、下之坊など多くの堂宇をもった名刹であったが、日根神社と同様に盛衰をくりかえした。
多宝塔と金堂は、平安時代の弘仁八年(八一七)に、本寺に暫住した僧空海によって造営されたもので、幸に兵火をまぬがれ千余年の法灯を伝えている。
近年、多宝塔を解体修理した折、「古三韓新羅国 修明正覚王 定居七年」と銘記された棟札銘が発見されたが、これによっても本寺が新羅系渡来人の祖神をまつった日根神社の神宮寺として建立されたことが傍証されるわけで、日根氏の氏寺として建立されたかも知れない。
しかし、「修明正覚王」とか「定居七年」とかの王名や年号は、日韓の文献には見られないもので奇異に思われる。しかし「定居」という年号は、大寺院や大豪族が使用した私年号であって、定居七年は推古天皇二十五年(六一七)に該当するから、本寺の創建は飛鳥時代にまでさかのぼるかも知れないのである。
【転載おわり】
平野さんが転載された段熙麟氏の「大阪における朝鮮文化」によれば、銘文に「古三韓新羅国」(古の三韓の新羅国)とあることから、棟札作成時に「定居七年」(617年)の伝承が記された後代史料のようです。全文を見ないとどのような史料性格の棟札かはわかりませんが、『二中歴』「年代歴」によれば、定居七年の二年後の倭京二年(619年)に「難波天王寺」が創建されていますから、摂津や河内への九州王朝の進出(寺院創建・狭山池築造)時期とも重なり、新羅国の「修明正覚王」は九州王朝と関係がある人物かもしれません。また、難波(上町台地)から朝鮮半島(新羅・百済)の土器が出土することはよく知られており、定居七年に新羅の「修明正覚王」が当地に来ていても不思議ではありません(注③)。是非とも拝見したい棟札です。
(注)
①平野雅曠氏は熊本市の研究者。古くからの古田史学の支持者であり、「古田史学の会」草創時からの会員。次の著書がある。『熊本エスペラント運動史』『田迎小学校百周年史』『肥後随記』『九州王朝の周辺』『九州年号の証言』『倭国王のふるさと 火ノ国山門』『倭国史談』。
②大阪府泉佐野市日根野にある真言宗の寺院。近世末までは隣接する日根神社の神宮寺であった。(ウィキペディアによる)
③寺井誠「難波における百済・新羅土器の搬入とその史的背景」『共同研究報告書7』(大阪歴史博物館、2013年)に次の指摘がある。
「以上、難波およびその周辺における6世紀後半から7世紀にかけての時期に搬入された百済土器、新羅土器について整理した。出土数については、他地域を圧倒していて、特に日本列島において搬入数がきわめて少ない百済土器が難波に集中しているのは目を引く。これらは大体7世紀第1~2四半期に搬入されたものであり、新羅土器の多くもこの時期幅で収まると考える。」