第3218話 2024/02/06

「東西・南北」正方位遺構の年代観 (4)

 太宰府条坊都市の右郭中心部の扇神社(王城神社)は、真北(北極星)と真南の基山山頂(基肄城)を結んだ線上にあります。すなわち、条坊都市の右郭中心に王宮(王城神社の地。小字「扇屋敷」)を置き、その位置決定には北極星と南の基山山頂を結ぶラインを採用し、それを政庁Ⅰ期時代の「朱雀大路」(政庁Ⅱ期時代の右郭二坊路に相当)にしたと思われます。

 恐らくは正方位の条坊都市という設計思想は中国南朝に倣ったと、わたしは推定しています。そして、それは条坊都市だけではなく、その中央に王宮を置く周礼型、すなわち〝中央を尊し〟とする設計(政治)思想や左右対称の朝堂院を持つ王宮も、中国南朝の影響下に成立したのではないかと考えています。

 朝堂院様式は中国には見えない宮殿スタイルなので、わが国独自のものと考えられているようですが、中国南朝の遺構が北朝(隋)により破壊されており、そのために南朝五国(注①)の都、建康(南京の古称)の王宮様式は不明となっています(注②)。その結果、朝堂院様式の王宮が中国に見えないという状況が続いているように思います。条坊都市や王宮の位置は中国に倣い、王宮の様式だけは独自に考案したとするよりも、それらは一連のものとして中国南朝の王都王宮に倣ったと考えるほうが穏当ではないでしょうか。

 いずれにしても、巨大条坊都市の設計・造営において、「東西・南北」正方位の概念・政治思想と、それを実現できる技術を、七世紀初頭から前半の九州王朝(倭国)が有していたことは確かなことと思います。(つづく)

(注)
①東晋、宋、斉、梁、陳の五国(317~589年)。
②589年に隋が南朝の陳を滅ぼしたとき、徹底的な削平と開墾、その後の都市開発で、遺構は不明となっている。
王 志高「六朝建康城の主要発掘調査成果」『奈良文化財研究所研究報告』第3号、国立奈良文化財研究所、2010年。

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