第1379話 2017/04/29

『古田武彦の古代史百問百答』百考(3)

 今回、『古田武彦の古代史百問百答』を熟読して、今まで気づかなかった古田先生の新仮説や新たな論理展開に遭遇し、はっとさせられることがいくつもあります。たとえば、『二中歴』「年代歴」にのみ見える最初の九州年号「継躰」(517〜521年)を当時の倭国の天子の名前とする次の見解などがそうです。

 「福井から二十年かけて大和に入った天皇は、その時はもちろん天皇ではなく、後に継躰天皇と謚(おくりな)されただけです。具体的には男大迹大王と言いましょうか。要するに近畿の首長です。この時点ではもちろん、九州に進出しておりません。
 これに対して、九州王朝では、前に言った丁酉の年(五一七)に継躰の年号を持った天子がいました。これについて『日本書紀』継躰紀二十四年の春二月の詔(『岩波日本書紀』下、四二ページ)では、継躰之君というのが出てきますが、これを通説では『ひつぎ』と普通名詞に取っていますが、普通名詞の人に『中興』の功を論じるのはこじつけで、はからずも九州王朝の天皇の名称を盗用したとした方が正しいのではないでしょうか。そのように解釈すると、近畿の男大迹とほぼ同じ頃に九州に継躰天皇がいたということになります。近畿王朝は、武烈を倒して、新王朝を樹立した男大迹を、ちょうど天子を名乗り始めた九州王朝の継躰にならい、『継躰』の名を謚したのです。そして九州の継躰を完全には消しえなかったのが、継躰二十四年の詔ということになります。」(110頁)

 この古田先生の見解を読んだとき、わたしは納得できませんでした。なぜなら、古代において天子の名前をそのまま年号に用いるなどという例を、中国や当の九州王朝でも知らなかったからです。逆に、天子の名前の字を避けるというのが古代中国における慣習でしたから、九州王朝の官僚たちが最初の年号を決めるにあたり、そのときの天子の名前「継躰」を採用したことになる古田説に、猛烈な違和感を覚えました。
 たとえば、今、知られている九州王朝の倭王や天子の名前に用いられた漢字(俾弥呼、壹與、讃、珍、済、興、武、旨、磐井、葛子、阿毎多利思北孤、利歌彌多弗利、薩夜麻、など)は九州年号に使用されていません。ましてや、その時代の天子の名前(今回のケースでは継躰)をそのまま年号に用いるなどとは考えられないのではないでしょうか。もし、九州王朝は天子の名前を年号に使用したとするのであれば、その根拠(たとえば中国での先例)を明示して論証が必要と思われるのです。
 他方、後世になって、「継躰」年号の時代の天子を「継躰之君」と呼んだり記したりすることはあるかもしれません。これは平安時代の例ですが、醍醐天皇(897〜930)のことを『大鏡』(平安後期の成立)では、その即位期間の代表的な年号「延喜」(901〜923)を用いて「延喜帝」と表記されています。『日本書紀』継躰紀二十四年の「継躰之君」がこれと同じケースであれば、この「継躰」は天子の名前ではなく九州年号ということになります。
 従って、「継躰之君」の「継躰」は、“ひつぎ”(通説)と“九州王朝の天子の名前”(古田説)と“後世における年号の転用”という三つの可能性がありますから、どの仮説が最も妥当かという論証が必要です。
 今年になって、『二中歴』に見える九州年号「継躰」は、「善記」を建元したときに、遡って「追号した年号」とする説が西村秀己さんから発表されています(「倭国〔九州〕年号建元を考える」、『古田史学会報』139号、2017年4月)。この西村説を援用するならば、天子の名前の「継躰」を年号として「追号」した可能性や、「年代歴」編纂時に、天子の名前「継躰」を年号と勘違いして「年代歴」に入れてしまったというケースも考えられるかもしれません。このことを西村さんに伝え、検討を要請しました。関西例会で検討結果が報告されることを期待しています。もし、古田先生がご健在であれば、どのように答えられるでしょうか。(つづく)

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