第1558話 2017/12/24

「天武朝」に律令はあったのか(1)

 前期難波宮九州王朝副都説への反論が、これまでの論争を通して、ほぼ前期難波宮「天武朝」造営説に収斂してきたように感じています。前期難波宮のような巨大宮殿が白村江戦以前の九州王朝(倭国)の興隆期に、九州王朝の配下である近畿天皇家の孝徳の宮殿と見なすことへの不自然さのためか、前期難波宮造営を天武の時代と見なし、その頃であれば九州王朝よりも近畿天皇家の勢力が優勢と考え、前期難波宮を近畿天皇家(天武天皇)の宮殿と理解することができるという見解です。
 しかし、この「天武朝」造営説には避け難い難問があります。それは「天武朝」に律令があったとするのかという問題です。一元史観の論者であれば、ことは簡単で、「近江令」や「浄御原令」が近畿天皇家には存在したとする通説通りの理解でなんの問題もありません。ところが、わたしたち古田学派は、701年以前の「近江令」「浄御原令」の内実は九州王朝律令であり、近畿天皇家の律令は大宝律令に始まるとする古田説を支持しています。この古田説は前期難波宮「天武朝」造営説と両立できないのです。
 大和朝廷の巨大宮殿、平城宮や藤原宮は朝堂院様式の中央官庁群を有しており、大宝律令・養老律令に基づく数千人(服部静尚さんの計算によれば約八千人)の官僚がそこで政務に就いていたことは古田学派の論者も反対はできないでしょう。とすれば、平城宮・藤原宮と同規模の朝堂院様式の宮殿である前期難波宮でも律令による官僚組織が機能していたと考えざるを得ません。
 したがって、古田学派の論者による前期難波宮を天武の宮殿とする理解では、先の古田説と矛盾してしまいます。ところが、わたしの九州王朝副都説では、九州王朝律令に基づいて前期難波宮で九州王朝の官僚群が政務に就いていたとしますので、古田説と矛盾がないのです。(つづく)

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