九州王朝の国号(4)
『三国志』以降の歴代中国史書には九州王朝の国号を「倭」「倭国」と表記されるのが通例でした。次に国内成立の史料を紹介します。まず重要な史料として、『法華義疏』(本文の成立年代は不明)冒頭にある六世紀末から七世紀初頭の記載と思われる次の記事です。
「此是大委国上宮王私集非海彼本」『法華義疏』(皇室御物)
この『法華義疏』は上宮王が集めたものとの説明がなされており、古田先生はこの「大委国上宮王」を九州王朝の天子、多利思北孤のこととされました。ここで注目されるのが「大委国」と記された九州王朝の国号です。人偏が無い「委」の字が用いられていることは重要です。「大」は国名に付された尊称と思われますが、「倭」ではなく、「委」が使用されていることは、九州王朝内の上宮王に関わる記事だけに注目されます。
この『法華義疏』の「大委国」の国号について、古田先生と検討したことがありました。なぜ多利思北孤(上宮王)はそれまでの「倭国」ではなく、「大委国」を使用したのだろうか。もしかしたら「委奴国王」とある「志賀島の金印」を多利思北孤は見ており、人偏がない「委」の字を国号表記に使用されていたことを知っていたのではないかと述べたところ、古田先生は「志賀島の金印で押印された印影が九州王朝内に残されていたのかもしれない」と言われました。たしかにそのケースならあり得るかもしれないと思いました。
それではなぜ多利思北孤らの時代に「倭国」から「大委国」としたのでしょうか。(つづく)