続・鶴見山古墳出土の石人の証言
鶴見山古墳から今回出土した石人は、鼻と両腕の一部が削られていたとのこと。ここにも重要な問題が含まれています。
今までは磐井の墓の石人などは、「磐井の乱」で大和朝廷軍により破壊されたと理解されてきました。しかし、息子の葛子がその後も健在なのに、父親の墳墓の破壊を修復しなかったと考えるのも変なものです。ましてや、今回の発見により磐井の後継者(葛子か)の墓にも石人があったとなると、ますますおかしなことになります。父親の墓の石人は破壊されたままにしておいて、葛子は自らの墓の石人を造ったとなるからです。一般庶民の墓の話ではありません。筑紫の王者の墓なのです。当然、破壊されていれば修復するのが当たり前です。このように、従来の理解はおかしかったのです。そして、今回の発見は更に矛盾を増大させます。
磐井の後継者の墓の石人も削られていたという事実は、「磐井の乱」とは無関係な、もっと後の時代に何者かが削ったと考えざるを得ないのですが、通説ではこの点をうまく説明できません。ところが、古田説では簡単に説明ができるのです。
古田先生の最近の説(「講演録・『磐井の乱』はなかった」『古代に真実を求めて』8集所収)では、岩戸山古墳の石人などを破壊したのは、白村江で勝利した唐の筑紫進駐軍が行ったものとされました。七世紀後半のことです。ですから、破壊は岩戸山古墳にとどまらず、鶴見山古墳を含む九州王朝の王者の墳墓全体に及んだ可能性があります。この時の破壊の痕跡が、今回発掘された石人の傷跡だったと理解すれば、一連の考古学的事実を無理なく説明できます。
中国では南朝の陵墓が徹底的に北朝により破壊されています。南朝に臣従していた磐井ら倭王の墳墓も、唐の軍隊に破壊されたという古田説は説得力がありますが、わたしはもう一つの可能性にも留意しておきたいと考えています。それは、701年の九州王朝から大和朝廷への王朝交代に伴う、大和朝廷側による破壊という可能性です。『古事記』『日本書紀』では、磐井は大和朝廷に逆らった反逆者として記されています。こうした主客転倒させたイデオロギーを『日本書紀』により流布させた大和朝廷により、岩戸山古墳や鶴見山古墳の石人は壊された可能性はないでしょうか。(つづく)