太宰府と前期難波宮
前期難波宮を九州王朝の副都とするわたしの説に対して、難波宮からは九州の土器などの考古学的痕跡がないと、古田先生からご批判をいただいているのですが、1月19日の新年講演会にて古田先生から興味深い話がありました。それは、太宰府の宮殿様式は中国の北朝系様式であるとする指摘です。すなわち、北側に天子がいる正殿(紫宸殿・大極殿)が位置する太宰府「政庁跡」は北朝系の様式であるというものです。
この指摘の意味するところは重大です。なぜなら北側に正殿を有し、その南側に朝堂院や京域がある難波宮もまた北朝系様式の宮殿となるからです。そうすると、前期難波宮にも天子がいたことになり、九州王朝説の立場からするならば、それは九州王朝の天子と見なさざるを得ないのです。
そうではなく、『日本書紀』の記述通り、「大和朝廷」が前期難波宮を造ったとするならば、九州王朝は天子の居宮と同様式の、しかも太宰府「政庁」よりもはるかに大規模な宮殿を、臣下である「大和朝廷」が造ることを九州王朝は黙認したこととなり、これは何とも不可解なことです。
太宰府と同様式の前期難波宮の遺構そのものが、最高の九州王朝の考古学的痕跡となるのではないでしょうか。やはり、前期難波宮九州王朝副都説は有力な仮説と思われるのです。