第2469話 2021/05/22

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(10)

 ―「毛人五十五国」と仙台市の前方後円墳―

 神武東征やその後の銅鐸圏への侵攻により、近畿は「衆夷六十六国」に含まれたとわたしは捉えていますが、東方への侵攻は弥生時代に限らず古墳時代でも断続的に続いたのではないでしょうか。たとえば『日本書紀』景行天皇55年条に見える「彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。」の記事もその一端のように思われます。ただ、この記事からは時代を特定しにくいため、「倭の五王」以前の事件なのかどうか慎重な検討が求められます(注①)。
 なお、彦狭嶋王は関東の大王であり、その伝承が『日本書紀』に転用されたとする仮説(注②)もあり、まだ研究途上のテーマです。従って、文献史学の分野からは、「衆夷六十六国」の領域(東限)がどの程度の範囲なのかは現時点では判断できません。その結果、「衆夷六十六国」の東にある「毛人五十五国」の領域もまた推定できていません。他方、考古学の分野では前方後円墳の分布がヒントになるかもしれません。
 「毛人五十五国」の領域を検討するうえで、わたしが注目してきたのが仙台市にある遠見塚古墳(墳丘長110m、4世紀末~5世紀初頭の前方後円墳)と隣接する名取市にある東北地方最大の雷神山古墳(墳丘長168m、4世紀末~5世紀初頭の前方後円墳)です。両古墳の存在から、仙台平野や名取平野が古墳時代の東北地方を代表する王権の所在地であったことがうかがえます。ちなみに、雷神山古墳は九州王朝(倭国)の王、磐井の墓である岩戸山古墳(八女市、墳丘長135m、6世紀前半の前方後円墳)よりも墳丘長が大きいのです。
 また、仙台市には東北地方最古の須恵器窯跡とされる大蓮寺窯跡(5世紀中頃)もあり、当地は「蝦夷国」の中心領域だったのではないかと考えています(注③)。この理解が正しければ、「毛人五十五国」とは東北地方の「蝦夷国」を含む領域だった可能性があります。倭王武の「上表文」には「東征毛人五十五国」とありますから、倭国の軍事勢力が「毛人」領域に進駐(東征)しているはずですから、その痕跡としての前方後円墳や須恵器窯跡の証言力は小さくありません。また、「蝦夷国」の領域であれば「毛人」と称するにふさわしいと思います。しかしながら、「毛人五十五国」の正確な領域(全体像)は未だ不詳とせざるを得ません。(つづく)

(注)
①次の拙論で検討を続けたが、未だ結論は出ていない。
 古賀達也「洛中洛外日記」1709話(2018/07/19)〝「東山道十五国」の成立時期〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2002話(2019/09/28)〝九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(6)〟
②藤井政昭「関東の日本武命」『倭国古伝』古田史学の会編、明石書店、2019年。
③古賀達也「洛中洛外日記」1494話(2017/09/03)〝須恵器窯跡群の多元史観(5)〟
 古賀達也「須恵器窯跡群の多元史観 ―大和朝廷一元史観への挑戦―」『古田史学会報』144号、2018年2月。

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