藤原宮出土「倭国所布評」木簡
このところ毎日のように奈良文化財研究所HPの木簡データベースを閲覧しています。いくつかは「洛中洛外日記」でも紹介してきましたが、特に注目した木簡が藤原宮跡北辺地区遺跡から出土した「□妻倭国所布評大野里」(□は判読不明の文字)と書かれた木簡です。データベース によれば、「倭国所布評大野里」とは大和国添下郡大野郷のことと説明されています。
これは「評」木簡ですから、作成時期はONライン(701年)よりも前で、藤原宮から出土していますから、7世紀末頃のものと推測できます。まさに、近畿天皇家の中枢領域から出土した九州王朝末期の木簡といえます。中でも驚いたのが「倭国」という表記です。
『旧唐書』などの中国史書では、九州王朝の国名として「倭国」と記されているのですが、『日本書紀』などの国内史料では今の奈良県に相当する「大和(やまと)」国を「倭」国と表記されています。すなわち、九州王朝の国名「倭国」を、701年の王朝交代に伴って、近畿天皇家は自らの中枢領域の「やまと」に「倭」という表記を採用し、上代の時代から、あるいは中国史書に記された「倭」は自分たちのことであると、歴史改竄と国名盗用を行ったと、わたしたち多元史観・九州王朝説論者は考えてきました。
ところが、この木簡の示すところでは、評制時代の7世紀末頃には、既に大和国(奈良県)を近畿天皇家は「倭国」と表記していたことになるのです。この史料事実は、九州王朝から近畿天皇家への王朝交代が7世紀末頃から複雑な過程を経て行われたことをうかがわせます。古田学派の研究者も、こうした出土木簡が示す史料事実をより重視して、更なる研究を深めなければならないと思います。