第270話 2010/07/10

伊予の「紫宸殿」

 7月3日、四国松山市での古田史学の会・四国主催講演会で、「九州王朝の瀬戸内巡幸−太宰府・越智国・難波−」というテーマで講演してきました。ご同行いただいた正木裕さんは、大阪で行われた「禅譲・放伐」シンポジウムの報告をされました。
 今回の発表の論証と史料根拠のポイントは、厳島縁起や『豫章記』『伊豫三嶋縁起』、風土記逸文「温湯碑」に記された、九州王朝の天子多利思北孤の時代の九州年号「端政」「法興」の分布状況や伝承の存在です。そして、西条市・今治市などの旧越智国が太宰府と難波を結ぶ海上交通の要の地であるという点から、この地が九州王朝にとって重要な地域であったことを明確にできたことです。
 そしてそれらの「論理的帰結」として、西条市(旧東予市)に現存する「紫宸殿」という字地名の新理解(作業仮説)を提起しました。この地に「紫宸殿」地名があることを今井久さん(西条市・古田史学の会会員)が「発見」され、『古田史学会報』98号で紹介されたのですが、その時点では、「紫宸殿」地名の歴史的由来や伝承も無いので、どのように捉えるか判断できずにいました。
 しかし、松山市に向かう特急の中で正木さんとディスカッションするうちに、『日本書紀』天武12年条にある副都詔、都や宮室を二つ三つ造れと言う詔勅と関わりがあるのではないかと考えるに至ったのです。もちろん、現段階では作業仮説に留まりますが、九州王朝が出した副都詔とすれば、副都の前期難波宮を筆頭に他の地にも造られた宮室の一つが、旧東予市の「紫宸殿」とは考えられないか。そのように思っています。今後の考古学的調査が期待されます。
 ちなみにこの「紫宸殿」と、「白雉二年奉納面」を所蔵している福岡八幡神社は、そう離れてはいませんし、北方には永納山神籠石山城もあります。このように、九州王朝との強い繋がりを感じさせる地に「紫宸殿」は位置しているのです。講演会の翌日に、合田さんと今井さんのご案内で現地を視察しましたが、この感をますます強くしました。

フォローする