第2706話 2022/03/24

下野薬師寺と観世音寺の創建年

 『柿本家系図』に見える柿本人麻呂の「実子」とある「男玉」が東大寺大仏の鋳造に関わっていたため、東大寺関連史料を精査しています。その過程でいくつもの貴重な発見が続いています。その一つに、下野薬師寺の創建年記事の発見がありました。

 「下野薬師寺 天智天皇九年庚午」『東大寺要録』巻第六「末寺章第九」

 「天智天皇九年庚午」とありますから、九州年号の白鳳十年(670)に下野薬師寺が創建されたとする記事です。わたしはこの年次を見て驚きました。九州年号史料(注①)に見える太宰府の観世音寺創建と同年だったからです。しかも、両寺院は東大寺と共に「天下の三戒壇」と称され、大和朝廷により僧尼受戒の寺院とされています。『古代を考える 古代寺院』(注②)では次のように解説されています。

 「地方の古代寺院の中でこの両寺が特筆されるのは、後述のような戒壇が置かれたことにもよるが、その設置以前から特別な地位をあたえられていたこともみのがせない。
 例えば、天平勝宝元年(七四九)に諸寺の墾田の限度額が定められ、両寺はともに五〇〇町とされた。これは、諸国国分寺の半分にすぎないけれど、一般定額寺の一〇〇町とは比較にならないし、法隆寺や四天王寺などの大寺とも同額であった。(中略)つまり、両寺が中央の大寺に準ずる扱いを受けていたことは、遠くはなれた地方に所在しながら、中央との結びつきが強かったこと、そしてすでに特別な地位が与えられていたことをしめしている。おそらく、それは創建の由来にもとづくのであろう。」同書269頁

 観世音寺と下野薬師寺に与えられた「特別な地位」が「創建の由来」にもとづくという指摘は示唆的です。また、両寺の墾田が法隆寺や四天王寺と同額の五〇〇町であったというのも重要な指摘ではないでしょうか。再建法隆寺や四天王寺(難波天王寺)・観世音寺が九州王朝の寺院であったことが古田学派の研究により明らかとなっていることから、創建年が共に白鳳十年(670)で後に戒壇が置かれた観世音寺と下野薬師寺は九州王朝(倭国)時代の七世紀後半において、九州王朝の戒壇が置かれたのではないかとわたしは考えています。そのことが〝由来〟となって、八世紀の大和朝廷(日本国)の時代も両寺に戒壇が置かれたのではないでしょうか。
 ちなみに、下野薬師寺跡から出土した創建瓦とみられる複弁蓮華文瓦は飛鳥川原寺の系譜をひき、天武期ごろのものとされています(注③)。先の『東大寺要録』には川原寺の創建年を次のように伝えています。

 「行基之建立齊明天皇治七年辛酉建立」『東大寺要録』巻第六「末寺章第九」

 ここにみえる「齊明天皇治七年辛酉」は九州年号の白鳳元年(661)に相当し、下野薬師寺の創建瓦(複弁蓮華文瓦)が飛鳥川原寺の系譜をひくという見解は年代的にも妥当な判断です。
 以上のように、観世音寺と下野薬師寺の両寺は九州王朝の戒壇が置かれるべく、白鳳十年(670)の同時期に創建されたとする仮説が妥当であれば、大和朝廷の東大寺に相当する九州王朝の近畿における戒壇はどの寺院に置かれたのでしょうか。白鳳十年であれば前期難波宮が焼失する前ですから、難波に九州王朝の中心的戒壇が置かれたはずと思われます。その第一候補としては、やはり天王寺(後の四天王寺)ではないかと推定するのですが、今のところ史料根拠を見出せていません。
 なお、下野薬師寺の創建を大宝三年(703)とする史料(注④)もありますが、出土創建瓦の編年からは白鳳十年(670)説が有力です。

(注)
①『勝山記』(甲斐国勝山冨士御室浅間神社の古記録)に「白鳳十年鎮西観音寺造」、『日本帝皇年代記』(鹿児島県、入来院家所蔵未刊本)の白鳳十年条に「鎮西建立観音寺」とする記事が見える。次の拙稿を参照されたい。
 古賀達也「観世音寺・大宰府政庁Ⅱ期の創建年代」『古田史学会報』110号、2012年6月。
②狩野久編『古代を考える 古代寺院』吉川弘文館、1999年。
③『下野薬師寺跡発掘調査報告』栃木県教育委員会、1969年。
④『帝王編年記』

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