宮名を以て天皇号を称した王権(2)
橘高修さんが「『船王後墓誌』から見える近畿王朝」(注①)で指摘されたように、宮名が天皇号として称される制度を九州王朝が採用し、太宰府条坊都市(倭京)創建後(七世紀前半以降)も、代替わりのたびに周囲の宮を転々としていたのかという問題は重要です。この「宮名を以て天皇号を称した」という痕跡は、近畿天皇家では藤原宮や平城宮創建まで続いており、この史料事実については学界では早くから注目されてきました。たとえば藪田嘉一郎氏は「法隆寺金堂薬師・釈迦像光背の銘文について」(注②)で次のように述べています。
「かかる宮號を以て稱する天皇の號は崩御後の天皇、過去の天皇についてのみ用いられる慣習だったのである。奈良朝に入って平城宮が恒久的宮城となってからは、平城宮治天下天皇という號はひとり過去の天皇に稱するのみでなく現在の天皇にも稱するようになったが、奈良朝以前では過去の天皇を稱する時のみ使用したのである。これは代毎に宮が變ったからである。但し持統朝と文武朝では、持統天皇が天武天皇の飛鳥浄御原宮に居られ、のち藤原宮に遷られたため、両宮の名によって稱され、文武天皇は藤原宮に在り、持統天皇と同宮號を以て呼ばれるが、持統天皇朝で飛鳥浄御原宮治天下天皇といえば天武天皇を指し、文武天皇朝で藤原宮天皇といえば持統天皇だけを指すことになっていたのである。」
このように、過去の天皇のことを称する場合に「○○宮治天下天皇」と宮名を使用し、恒久的宮城(平城宮)となってからは「平城宮治天下天皇という號はひとり過去の天皇に稱するのみでなく現在の天皇にも稱するようになった」という藪田氏の解説は貴重です。すなわち、代替わりしても恒久的宮城に居るのであれば、同じ「平城宮治天下天皇」という称号を採用せざるを得ないとするわけです。
この大和朝廷での宮名を以て天皇号を称するという制度は、九州王朝での先例に倣ったのではないでしょうか。そうであれば、倭京(太宰府)創建後の九州王朝では、代替わりしても「倭京の○○宮天子(あるいは天皇)」と称したことになります。残念ながら九州王朝が倭京の宮殿をなんと称していたのかは不明です。
従って、倭京(太宰府)の造営年代・遷都年代がいつかということが次に問題となるのですが、九州王朝の太宰府遷都は倭京元年(618年)とする説(注③)が有力ですから、船王後墓誌に見える「阿須迦宮治天下天皇」の「末歳次辛丑」が641年に相当しますから、これは九州王朝の恒久的宮城である倭京(太宰府)への遷都後です。そうであれば、墓誌に見える「阿須迦宮治天下天皇」「阿須迦天皇」を通説通り近畿天皇家の舒明とするか、倭京(太宰府)内の「阿須迦宮」と呼ばれた宮殿に居た九州王朝の天皇とするのかということになります。
通説では、乎裟陁宮治天下天皇を敏達天皇、等由羅宮治天下天皇を推古天皇、阿須迦宮治天下天皇を舒明天皇としており、いずれも奈良盆地南辺付近での遷宮と見なしています。
他方、古田先生はこれらの天皇は九州王朝の天子のことであり、その宮は福岡県(乎裟陁・阿須迦)や山口県(等由羅)にあるとされました。そうすると、全国支配のための王都倭京(太宰府)から離れた山口県の「等由羅宮」で「治天下」していたことにもなりかねず、かなり不自然であることは否めません。ですから、橘高さんの疑問点、〝国王が変わるごとに年号が変わることは一般的と思われますが、宮の場所まで変わるとなるとどういうことになるのでしょうか。「天皇の坐す宮」と大宰府などの政庁はどういう関係だったのだろうか〟は、とても重要な指摘だと思います。
(注)
①橘高修「『船王後墓誌』から見える近畿王朝」『東京古田会ニュース』206号、2022年9月。
②藪田嘉一郎「法隆寺金堂薬師・釈迦像光背の銘文について」『仏教芸術』7号、昭和25年(1950)。
③古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年。