筑紫舞「加賀の翁」考
古田先生の『よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』 (ミネルヴァ書房)に、筑紫舞の伝承者、西山村光寿斉さんとの出会いと筑紫舞について紹介されています。古代九州王朝の宮廷舞楽である筑紫舞が今日まで伝 承されていたという驚愕すべき内容です。その筑紫舞を代表する舞とされる「翁」について詳しく紹介されているのですが、その内容についてずっと気になっていた問題がありました。
筑紫舞の「翁」には三人立・五人立・七人立・十三人立があり、十三人立は伝承されていません。三人立は都の翁・肥後の 翁・加賀の翁の三人で、古田先生はこの三人立が最も成立が古く、弥生時代の倭国の勢力範囲に対応しているとされました。ちなみに都の翁とは筑紫の翁のことですが、なぜ「越の国」を代表する地域が「加賀」なのかが今一つわかりませんでした。
ところが服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)から教えていただいた、次の考古学的事実を知り、古代における加賀の重要性を示しているのではないかと思いました。
庄内式土器研究会の米田敏幸さんらの研究によると、布留式土器が大和で発生し、初期大和政権の発展とともに全国に広がったとする定説は誤りで、胎土観察の 結果、布留甕の原型になるものは畿内のものではなく、北陸地方(加賀南部)で作られたものがほとんどであることがわかったというのです。しかも北陸の土器 の移動は畿内だけでなく関東から九州に至る広い範囲で行われており、その結果として全国各地で布留式と類似する土器が出現するとのこと。日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきたので す。
この考古学的研究成果を知ったとき、わたしは筑紫舞の三人立に「加賀の翁」が登場することと関係があるのではないかと考えたのです。古田先 生の見解でもこの三人立は弥生時代にまで遡る淵源を持つとされており、この加賀南部で発生し各地に伝播した布留式土器の時代に近く、偶然とは思えない対応 なのです。絶対に正しいとまでは言いませんが、筑紫舞に「加賀の翁」が登場する理由を説明できる有力説であり、少なくともわたしの疑問に応えてくれる考古学的事実です。
なお、6月21日(日)午後1時からの「古田史学の会」記念講演会で米田敏幸さんが講演されます。とても楽しみです。(会場 i-siteなんば)