第3127話 2023/09/30

『朝倉村誌』の「天皇」地名を考える (3)

 各地に遺る「天皇」地名の多くは牛頭天王(牛頭天皇)信仰に由来すると考えてもよいように思うのですが、それにしても愛媛県東部地域に最濃密分布する理由をうまく説明できません。これには何らかの歴史的背景があったとわたしは推察しています。そのことを説明できる一つの作業仮説として、七世紀の九州王朝の時代、当地に天皇号を称した有力者がいたのではないかと考えました。すなわち、九州王朝の天子(倭国のナンバーワン権力者)の下、当地の有力者がナンバーツーとしての「天皇」を名乗っていたとする仮説です。

 従来の古田説(旧説)では、九州王朝下のナンバーツーとしての「天皇」は近畿天皇家のこととされてきました。他方、ナンバーツー「天皇」が、近畿天皇家以外にも多元的に存在(併存)したのではないかとわたしは考えるようになりました(注①)。その具体例として、『大安寺伽藍縁起』の「袁智天皇」に注目しました。すなわち、九州王朝から許された「袁智天皇」の称号が由来となって、当地(越智国)に「紫宸殿」や「天皇」地名が遺存したのではないか。そして、701年以後、「天皇」号を大和朝廷から剥奪された越智氏はそれを地名や伝承として遺したのではないでしょうか。

 このことの傍証として、越智氏関連史料中に一族の人物に対して、「伊予皇子」(注②)、「伊予ノ大皇」「伊予土佐ノ国皇」「玉興皇」(注③)という、「王」ではなく、天皇の「皇」の字を用いた呼称が散見されます。こうした史料事実や「天皇」地名の存在から、九州王朝配下の大豪族、越智氏が「天皇」を名乗ることを許されたと考えることができそうです。同時に、近畿の大豪族、近畿天皇家(後の大和朝廷)もナンバーツー「天皇」を名乗ることが許された、あるいは任命されたものと推定しています。この多元的「天皇」の併存という仮説であれば、野中寺彌勒菩薩台座銘の「中宮天皇」や、『大安寺伽藍縁起』の「袁智天皇」「仲天皇」という史料情況を無理なく説明できるのではないでしょうか。(おわり)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2996~3003話(2023/04/25~05/02)〝多元的「天皇」併存の新試案 (1)~(4)〟
②「両足山安養院車無寺(無量寺の旧名)」『朝倉村誌 下巻』朝倉村誌編さん委員会、1986年(昭和61年)、1464頁。
③「玉興越智郡拝志新館ニ移事(抄)」『朝倉村誌 下巻』朝倉村誌編さん委員会、1986年(昭和61年)、1754頁。

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