第3149話 2023/11/02

三十年前の論稿「二つの日本国」 (6)

 前話に続いて、「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」の「二、すれちがう国交記事」後半部分を転載します。

 『三国史記』列伝に見える日本国記事(七七九年)と、それに対応するかのような同年の『続日本紀』記事との比較により、日本国王がいたのは大宰府であり、近畿天皇家の光仁天皇は平城京にいたことから、日本国王と記されたこの人物は九州王朝の後裔であるとしました。この論証は『三国史記』と『続日本紀』というエビデンスに基づいて成立しており、有力ではないでしょうか。

 【以下転載】
二、すれちがう国交記事 〔後半〕

 次に、雑志・列伝部分の記事も検討してみよう。まず(15)に見える日本国、これは近畿天皇家と思われる。新羅の東南とあるのだから九州とは見なしにくい。この記事は「宋祁の新書に云く」と、引用記事であることが銘記されているように、宋祁の新書すなわち『新唐書』からの引用なのである。したがってこの日本国が『新唐書』日本国伝の日本国=近畿天皇家を指すことは当然のことだ。しかし、これをもって『三国史記』の他の日本国も近畿天皇家とすることは妥当ではない。なぜなら、他の日本国記事は朝鮮半島の国、新羅で記された史料に基づいており、中国側の認識で記された『新唐書』からの引用記事とは史料性格が基本的に異なるのである。

 (17)の大暦十四年(七七九)の記事は『続日本紀』に見えることから、近畿天皇家との国交記事とすることも一応可能であるが、記事の内容に大きな問題点が存在する。『三国史記』の記事によれば、金厳はその能力を欲した日本国王から抑留されかかったところをたまたま同じ時期に日本国に来た唐の国使、高鶴林との出会いにより釈放されたという内容である。ところが『続日本紀』の次の記事から明らかなように唐使の高鶴林と金厳らは大宰府で出会っており、その後、近畿へと出向いているのだ。

 大宰府に勅す。唐客高鶴林等五人と新羅の貢朝使を共に入京させよ。〈宝亀十年(七七九)十月条〉

 このことから、金厳と高鶴林とが「相い見えて甚だ懽ぶ」という舞台は近畿ではありえず、最初に遭遇した大宰府と見るほかない。とすれば、金厳の才能を欲した日本国王は大宰府にいなければならないが、近畿天皇家の時の光仁天皇が大宰府にいたという記事はない。むしろ国使たちが近畿に赴いて天皇に拝賀したことが『続日本紀』には記されている。更に、『東国通鑑』によれば、金厳らの日本への遣使は七七九年三月とされており、同年十月に大宰府へ入京の勅がなされていることから、数ヶ月にわたり大宰府に留まっていたことになろう。とすれば、金厳は大宰府にいた日本国王により抑留され、太宰府に来た唐使高鶴林との出会いにより釈放されたと見るべきである。したがって、一見近畿天皇家との国交記事と思われた(17)の記事は、九州大宰府にいた日本国王、すなわち九州王朝との国交記事と見なすべき内実を持っていたのである。なお、雑志・列伝の他の日本国記事はその内容からはいずれとも判断しがたい。
以上、検証してきたとおり、『三国史記』に見える日本国は近畿天皇家にはあらず、九州王朝とするほうが妥当との結論を得たのであるが、更に傍証を固めたい。それは国交記事に表れる日本国の献上品(両国の上下関係は不明だがとりあえずプレゼントの意としてこの言葉を使用する)の問題である。
【転載おわり】(つづく)

フォローする