第3200話 2024/01/15

志賀島は〝たつの都〟

 昨日は九州古代史の会の月例会で講演させていただきました。テーマは「吉野ヶ里出土石棺と卑弥呼の墓」と「九州年号金石文・棟札の紹介」です。会場のももち文化センターで50名ほどの参加者に聞いていただきました。発表の概要については同会機関紙『九州倭国通信』に投稿予定です。

 当地へは前日(13日)に入りましたが、大学受験期間と重なり、福岡市内のホテルが満室のため、新幹線で一駅手前の小倉で一泊しました。当日は会場近くの藤崎駅に三時間ほど早く到着しましたので、隣接する図書館で郷土資料を閲覧しました。同会の講演会に参加するときは、この図書館で時間待ちを兼ねて当地の歴史資料を読むことにしており、数々の知見に触れることができ、重宝しています。今回も思わぬ「発見」ができました。

 『新修福岡市史 資料編中世1 市内所在文書』(福岡市史編集委員会、平成二二年)という分厚い本を読んでいたら、次の不思議な和歌に目がとまりました。

「名にしほふたつの都の跡とめて
なミをわけゆくうミの中道  (細川)玄旨」

 同書「東区志賀海神社文書」191頁に見える「九―二(掛軸一―二)細川幽斎(藤孝)和歌短冊」で、「本短冊は『九州道の記』の記述から天正十五年五月のものと考えられる。」との説明文が付記されています。天正十五年は西暦1587年に当たり、当時、志賀島や当地を含む領域がその昔に「たつの都」と呼ばれていたことを示唆しています。

 わたしはこの和歌のことを初めて知ったのですが、当地が「たつの都」と呼ばれていたなどとは全く知りませんでした。当然、九州王朝説の視点に立てば、九州王朝の都がこの領域にあった時代(邪馬壹国時代から古墳時代前期頃)がありますから、当地がその時代に「たつの都」と呼ばれていた可能性があることに、理屈の上ではなります。そこで、細川幽斎の和歌以外の史料に同様の痕跡が遺されていないかWEB検索しましたが、この和歌以外にはヒットしませんでした。

 本件については調査を続けますが、実は九州王朝の都の名前はほとんど分かっていません。卑弥呼の都が博多湾岸(中枢領域は比恵那珂遺跡・須玖遺跡)の邪馬壹国にあったことは倭人伝に見えますが、その都が何とよばれていたのかは未詳です。七世紀初頭には、『隋書』俀国伝に「都於邪靡堆」とありますが、「邪靡堆(ヤヒタイ)」が都の名称ではなく、地名の可能性も高く、断定出来ません。七世紀前半には太宰府条坊都市が成立したと考えられ、九州年号の「倭京」(618~622年)の存在から、同都市は「倭京」と呼ばれていたと理解できますが、それを和訓で何と呼んでいたのかは諸説あり、検討が必要です。古田説では「倭」を「ちくし」と理解していますから、「ちくしの京(みやこ)」と呼ばれていたとすることもできそうです。七世紀中頃(652年)には、両京制(注)を採用した九州王朝の東都「難波京(前期難波宮)」が造営されており、恐らく「なにわの都」と呼ばれていたと推定しています(太宰府条坊都市は「西都」)。

 他方、大野城から出土した木柱に「孚石都」と読める文字が刻まれていることから、その読解が正しければ、大野城下に広がる太宰府条坊都市が「うきいしの都」と呼ばれていたかもしれません。また、この刻字を「孚右都」と読む説を飯田満麿氏(古田史学の会・元副代表、故人)が発表しています。それであれば、「ふゆの都」と読めそうです。

 このように、九州王朝(倭国)の都の名前の候補として、「たつの都」(龍の都)について研究したいと思います。九州王朝の故地にはまだまだ多くの九州王朝の痕跡や史料が眠っているのではないでしょうか。

(注)隋や唐が長安(西都)と洛陽(東都)の両京制を採用した時期があり、その制度に倣って、九州王朝(倭国)は天孫降臨以来の「伝統と権威の都」として筑前太宰府に「西都」を、評制による全国支配を行うための「権力の都」として難波に「東都」を置く、両京制を採用したとする仮説をわたしは次の論稿で発表した。
○「洛中洛外日記」2675話(2022/02/04)〝難波宮の複都制と副都(4)〟
○「洛中洛外日記」2735話(2022/05/02)〝九州王朝の権威と権力の機能分担〟
○「柿本人麿が謡った両京制 ―大王の遠の朝庭と難波京―」 『九州王朝の興亡』(『古代に真実を求めて』二六集、二〇二三年)
○「七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動―」『多元』176号、二〇二三年。

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