第3270話 2024/04/14

九州王朝(天子)の「親藩」諸国の天皇たち

 わたしは毎月の第二土曜日に、各地の古田学派研究者とリモートで勉強会を開催しています。その三月と四月の勉強会で、九州王朝の天子の下に複数の天皇号を称した有力氏族が併存したとする仮説を恐る恐る発表し、参加した研究者にご批判を要請しました。幸いにも概ね好評でしたが、とても興味深く重要な指摘もありました。

 従来の古田旧説では、倭国のトップとしての九州王朝の天子と、ナンバーツーとしての大和の天皇がいたとされてきましたが、今回の拙論は、大和以外にも天皇号を許された有力氏族が複数併存したというものです。その候補として越智国(愛媛県)の氏族の越智氏(注①)がいます。野中寺彌勒菩薩像銘の「中宮天皇」や『大安寺伽藍縁起』に見える「仲天皇」もその候補と考えています。その他に、『日本書紀』天武紀に見える「吉備大宰(石川王)」が仕えた吉備天皇がいたのではないかと推定しています。

 こうしたことを昨日のリモート勉強会で述べたところ、参加された奥田さん(古田史学の会・会員、埼玉県)から次の指摘がありました。

〝天皇号を認められたのは有力氏族というだけではなく、九州王朝の天子と血縁関係がある、言わば江戸幕府の親藩に相当するような氏族だったのではないか〟

 この指摘には、なるほどと思いました。実は越智氏は天孫降臨以来の天孫族を始祖とする伝承・系図(注②)を持つ氏族ですから、奥田さんの指摘に適っています。それでは吉備の豪族はどうでしょうか。名前に「吉備」を持つ有名な人物に吉備津彦(注③)がいますので、その先祖が天孫族かどうかを調べてみました。

 『日本書紀』孝霊紀によれば、吉備津彦命は孝霊天皇皇子の彦五十狭芹彦命(ヒコイサセリヒコノミコト)の亦の名とされていますから、天孫系の人物と見ることができますが、吉備津彦命は「亦の名」とありますから、本来は別人で、吉備の元々の王者が吉備津彦であり、それを滅ぼした天孫族の彦五十狭芹彦命と習合させたのではないかと想像しています。

 いずれにしても彦五十狭芹彦命は天孫族となりますから、九州王朝の「親藩」諸国の有力氏族として、天皇を名乗ることが許されたと考えてみたいところです。新しい仮説ですので、断定することなく、慎重に研究を進めたいと思います。

(注)
①『大安寺伽藍縁起』に「袁智天皇」が見える。愛媛県に少なからず現存する「天皇」地名なども拙論の傍証とする。次の拙稿を参照されたい。
古賀達也「洛中洛外日記」2969~2973話(2023/03/19~25)〝『大安寺伽藍縁起』の仲天皇と袁智天皇 (1)~(4)〟
同「多元的『天皇』号の成立 ―『大安寺伽藍縁起』の仲天皇と袁智天皇―」『古代に真実を求めて』27集、明石書店、2024年。
②越智氏一族河野氏の来歴を記す『予章記』には、始祖を孝霊天皇の第三皇子、伊予皇子とする。越智氏・河野氏について、九州王朝説に基づく次の論稿がある。
古賀達也「『豫章記』の史料批判」『古田史学会報』32号、1999年。
八束武夫「『越智系図』における越智の信憑性 ―『二中歴』との関連から―」『古田史学会報』87号、2008年。
「大山祇神社の由緒・神格の始源について ―九州年号を糸口にして―」『古田史学会報』88号、2008年。
③ウィキペディアには次の説明がある。
吉備津彦命(きびつひこのみこと)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。第7代孝霊天皇皇子である。四道将軍の1人で、西道に派遣されたという。
【名称】
『日本書紀』『古事記』とも、「キビツヒコ」は亦の名とし、本来の名は「ヒコイサセリヒコ」とする。それぞれ表記は次の通り。
『日本書紀』
本の名:彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)
亦の名:吉備津彦命(きびつひこのみこと)
『古事記』
本の名:比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりひこのみこと)
亦の名:大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)
そのほか、文献では「キビツヒコ」を「吉備都彦」とする表記も見られる。
第7代孝霊天皇と、妃の倭国香媛(やまとのくにかひめ、絙某姉、意富夜麻登玖邇阿礼比売命)との間に生まれた皇子である。
同母兄弟姉妹として、『日本書紀』によると倭迹迹日百襲媛命(夜麻登登母母曽毘売)、倭迹迹稚屋姫命(倭飛羽矢若屋比売)があり、『古事記』では2人に加えて日子刺肩別命の名を記載する。異母兄弟のうちでは、同じく吉備氏関係の稚武彦命(若日子建吉備津日子命)が知られる。
子に関して、『日本書紀』『古事記』には記載はない。

【記録】

『日本書紀』崇神天皇10年9月9日条では、吉備津彦を西道に派遣するとあり、同書では北陸に派遣される大彦命、東海に派遣される武渟川別、丹波に派遣される丹波道主命とともに「四道将軍」と総称されている。

同書崇神天皇9月27日条によると、派遣に際して武埴安彦命とその妻の吾田媛の謀反が起こったため、五十狭芹彦命(吉備津彦命)が吾田媛を、大彦命と彦国葺が武埴安彦命を討った。その後、四道将軍らは崇神天皇10年10月22日に出発し、崇神天皇11年4月28日に平定を報告したという。
また同書崇神天皇60年7月14日条によると、天皇の命により吉備津彦と武渟川別は出雲振根を誅殺している。

『古事記』では『日本書紀』と異なり、孝霊天皇の時に弟の若日子建吉備津彦命(稚武彦命)とともに派遣されたとし、針間(播磨)の氷河之前(比定地未詳)に忌瓮(いわいべ)をすえ、針間を道の口として吉備国平定を果たしたという。崇神天皇段では派遣の説話はない。

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