第3348話 2024/09/18

王朝交代期のエビデンス、藤原宮木簡 (5)

 701年での九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代期を跨ぐ時代の藤原宮跡の遺構からは、大宝令より前の「官司」「官職」と理解しうる木簡が出土しています。九州王朝律令を復元するうえで貴重な史料です。わたしの知るところを「木簡庫」から転載します。

《藤原宮跡出土の七世紀官司官職名木簡》
○「舎人官」
【木簡番号】524
【本文】□□〔且ヵ〕□舎人官上毛野阿曽美□□〔荒ヵ〕□○右五→
【遺跡名】藤原宮跡大極殿院北方
【遺構番号】SD1901A
【木簡説明】(前略)舎人官は大宝・養老令官制の左右大舎人寮か東宮舎人監の前身官司と考えられる。舎人官の上にある文字は、大・左・右のいずれでもない。人名中にみえる阿曽美は朝臣の古い表記法と思われ、『続日本紀』宝亀四年五月辛巴条にみえる。

○「陶官」
【木簡番号】523
【本文】陶官召人
【遺跡名】藤原宮跡大極殿院北方
【遺構番号】SD1901A
【木簡説明】(前略)陶官が人を召喚した文書の冒頭部分にあたる。陶官は『令義解』にみえる養老令官制の宮内省管下の筥陶司の前身となるものであろう。大宝令施行期間中に筥陶司が存在したことは天平一七年(七四五)の筥陶司解(『大日本古文書』二-四〇八)の存在から確認できる。したがって、陶官という官名は飛鳥浄御原令制下にあったものと思われるが、さらにこの海(ママ)から出土した他の木簡の例からみて浄御原令施行以前にも存在していた可能性がある。官司名+召という書きだしをもつ召喚文は藤原宮木簡四九五、平城宮木簡五四・二〇九四などにもみえるが、この木簡の例などからみて、かなり古くから行われたものらしい。

○「宮守官」
【木簡番号】466
【本文】・○但鮭者速欲等云□□・以上博士御前白○宮守官
【遺跡名】藤原宮跡西南官衙地区
【遺構番号】SD502
【木簡説明】宮守官が博士に鮭を要求することについて報告した文書。宮守官は他の文献史料にない。官という呼称からみて、大宝令以前の官名か。ただ宮を守るという意味をあらわしていること、南面西門の近くで出土していることから、藤原宮の宮城門を守る官司である可能性が高い。この木簡からみると「宛先の前に申す」という文書形式では「前に申す」という語句が文書の末尾にくる場合があることを示している

○「薗職」
【木簡番号】1
【本文】九月廿六日薗職進大豆卅□〔石ヵ〕
【遺跡名】藤原宮跡北面中門地区
【遺構番号】SK1903
【木簡説明】薗職から大豆を進上してきたことを記した文書。上部は小万で切断した面で、もとの面である。したがって文書としては冒頭から残っていると考えられる。まず、薗職が大豆を進めた年月日を書き、つづけて大豆の数量を書いている。おそらく、木簡の折損している下半分か裏面に、進上した薗職の責任者名があったのではなかろうか。ただし裏面は腐蝕がはなはだしく墨痕は確認できない。薗職は他の文献史料には名前がみえない。関連する官司名としては『令義解』にみえる養老令官制として園池司がある。大宝令制下では、同令施行期間中である天平十七年の正倉院文書(『大日古』二-三九九)に園池司解があるので、大宝令官制でも園池司は存在していたと思われる。この大宝・養老令官制にみられる園池司と薗職との関係については直接的な史料がないので確言はできないが、二つの場合が考えられる。すなわち、第一の場合は薗職は国池司の前身であって大宝令施行以前の浄御原令制下の官制であると考えるものであり、第二の場合は、令外官で園池司とは別に存在したものと考える場合である。このうち、以下に述べるような事情から、第一の場合の可能性が高いものと考えられる。すなわち、薗職と同じ類の官司名として、奈良県教育委員会の調査で出土した藤原宮木簡の中に「←薗官」「薗司」と書かれた木簡が出土していることを考えると、薗職、薗官、薗司という類似した官司名が三つあることになるが、これら三つの官司がそれぞれ別個に存在したと考えるより同一官可を三様に呼称したものと考えた方が自然である。そうであるとすれば大宝・養老令の官制では各官司はその呼称として省寮職司の格付が明確にされていたわけであるから、同一官司名を司とも官とも職ともよぶということはありえない。したがって、薗職、薗司、薗官は同一官司を示し、大宝令以前の官司であって、国池司の前身と見た方がよさそうである。もちろん、薗職、薗官、薗司の三つの官司が別個のものであって、このうちの薗司、薗職等が従来の文献で知られていない大宝令施行後の官名である可能性もある。

○「蔵職」「文職」
【木簡番号】1639
【本文】・〈〉○□□□〔麻呂ヵ〕○大□〔神ヵ〕□志○蔵職\○危□□田○□\○文職○□□\○□・○□□\○□○□□
【遺跡名】藤原宮跡東方官衙北地区
【遺構番号】SD2300
【木簡説明】(前略)「蔵職」「文職」は、ともに大宝令以前の官司であろう。

○「膳職」
【木簡番号】0
【本文】膳職白主菓餅申解解→
【遺跡名】藤原宮北辺地区
【遺構番号】SD105

○「塞職」
【木簡番号】12
【本文】・「/□/□/□∥」符処々塞職等受・○常僧師首○僧\○/常僧/○常∥薬薬首市市\○僧
【遺跡名】藤原宮跡北面中門地区
【遺構番号】SD145
【木簡説明】塞職にあてた符。裏面ならびに表面上部の文字は別筆の習書である。「塞」は『万葉集』にセキと訓んで関にあてた例があり、(『万葉集』二〇三、一〇七七)、『日本書紀』大化二年正月条では「関塞」の二字にセキの古訓があるから(北野本)、関所の司と考えてよかろう。奈良県教育委員会の調査で竜田、大坂の関の存在を示唆する木簡が出土しており、『出雲国風土記』にも国内に多くの剗(関)があったことがみえる。この木簡にみえる塞は大和とその周辺にあった関をさすものか。裏面の習書は表と全く関連がない。

○「外薬」
【木簡番号】1776
【本文】外薬□
【遺跡名】藤原宮跡西面南門地区
【遺構番号】SD1400
【木簡説明】「外薬」は、外薬寮のことか。外薬寮は、天武天皇四年(六七五)正月、大学寮学生、陰陽寮ほかとともに薬および珍異等物を捧げたとみえる令前官司で(『日本書紀』同月丙午朔条)、令制の典薬寮にあたるとみられる。

これらの木簡に見える「○○官」という官司名は九州王朝が制定したものと思われ、次の例が知られています。

○「尻官」 法隆寺釈迦三尊像台座墨書(7世紀初頭)
○「見乃官」 大野城市本堂遺跡出土須恵器刻書(7世紀前半~中頃)

 飛鳥宮の役所跡と見られている石神遺跡からも、次の「○○官」木簡が出土しています。出土層位は天武期頃と見られています。

《明日香村石神遺跡出土「○○官」木簡》
○「大学官」
【木簡番号】0
【本文】大学官○□
【遺構番号】SD4089

○「勢岐官」
【木簡番号】0
【本文】・□〔道ヵ〕勢岐官前□・代□
【遺構番号】SK4060

○「道官」
【木簡番号】0
【本文】・○道官□・〈〉
【遺構番号】SD4090

 『日本書紀』天武紀にも次の「○○官」名が見え、七世紀の官司名として出土木簡と対応しているようです。

○「法官」「大弁官」 天武七年(678年)十月条
○「宮内官」 天武十一年(682年)三月条
○「法官」 天武十二年(683年)十月条
○「大弁官」 天武朱鳥元年(686年)三月条
○「太政官」「法官」「理官」「兵政官」「刑官」「民官」 天武朱鳥元年(686年)九月条

 藤原宮出土木簡により、『日本書紀』天武紀の検証が実証的に進めることができ、また、王朝交代研究にとって重要な木簡群であることをご理解いただけたものと思います。古田学派で進められきた『日本書紀』の史料批判や解釈論争が、これからは同時代木簡により、エビデンスベースでの検証が可能となりました。当連載で紹介できたのは藤原宮(京)出土木簡のごく一部ですが、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代研究に裨益することができれば幸いです。(おわり)

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