九州王朝の家紋「十三弁の菊」説
現在の皇室の御紋は「菊(十六八重表菊)」とされています。それでは九州王朝の家紋は何だったのかというのが、今日のテーマです。もっとも、九州王朝の時代に「家紋」などというものがあったのかも、はなはだ疑問ではありますが、「十三弁の菊」が九州王朝の「家紋」だという「説」があります。
九州王朝の子孫で、高良玉垂命の末裔である稲員(いなかず)家では江戸時代に「菊」を家紋としていましたが、「上に差し障りがある」としてやめたと稲員家文書『家訓記得集』に記されています。また、稲員家墓地の墓石の上部の、家紋が彫られていたと思われる箇所が、現在では削られているのを随分昔に見たのですが、おそらくはその部分に「菊の紋」があったのではないでしょうか。
こうした知見から、九州王朝の末裔は「菊の紋」を家紋としていたことは確かなのですが、それが古代の九州王朝の時代まで遡れるのだろうかと漠然と考えていました。そのようなとき、稲員家の分家筋にあたる松延さん(八女市在住)から次のような話をうかがいました。
「九州王朝の家紋は十三弁の菊で、筑後国府から出土した軒丸瓦に十三弁のものがある。弁の数は少ない方が偉い。」
(わたしはこの瓦は未見です。報告書を調査中)
というものです。松延さんが何を根拠にそのように話されたのかはわかりませんが、不思議な「伝承」だなあと聞いていました。
その後、筑後の浮羽郡にある「天の長者」伝承の現地調査を行ったとき、「天の長者」を現在も祀っておられる家(後藤家)が偶然見つかり、その家の近くに祀られていた石祀(「御大師様」と呼ばれていた)に彫られていた紋が「十三弁の菊」でした。しかも、均等に13分割されたものではなく、不均等に強引に13弁にしたものでした。12分割は簡単ですが、13分割は困難なため、無理に十三弁にしたと考えざるを得ない彫り方だったのです。
この偶然とは思えないような「十三弁」が筑後国府出土軒丸瓦や「天の長者」伝説の地にあったことから、松延さんの「十三弁の菊」九州王朝家紋説もあながち荒唐無稽とは言いにくいと考えるようになりました。(拙稿「天の長者伝説と狂心の渠」を参照下さい)
まだ学問的仮説と言えるレベルではありませんが、ちょっと気になったまま十数年たっていますので、このまま埋もれさせるにはもったいないと思い、今回、書いておくことにしました。将来の研究の進展や新たな発見を待ちたいと思います。